第六日

平成25年1月十八日(金)

快晴 寒風強し

第十六番札所 無量山西光寺

第十七番札所 実正山定林寺

第十八番札所 白道山神門寺

 

途次

 今回は早めに家を出ることにした。前回はNHKの朝ドラを見てから出掛けたので、秩父お花畑駅に着いたら午後1時近くになっていたのである。これでは余り遅すぎる。

 DoCoMo携帯の目覚ましをセットし朝6時に起床した。何時も通りの家事を終わらせて、7時半前には玄関を出た。

 こんな時は電車の便も良く、ホームに着くと電車が来て、電車に乗ると快速で、熊谷駅に9時頃到着した。秩父鉄道に乗ったら、亦快速で、運が重なり重なりである。

 電車の便はとても好かったが、寒さはとても厳しい。15日は成人の日で、然も午前9時頃から初雪で夜半まで降った。10p余り積もり、当日も明くる16日も関東一円の交通麻痺。

 16日の朝は一面の銀世界、交通麻痺、当日は寄席で落語を聞く予定だったが取り止めた。明くる17日の朝は道路の雪が踏み固められツルツルだったが、午後になると道路の雪は殆ど融けた。

 16日から一日毎に寒さが重なり、18日は肌を刺す寒風となった。妻曰く、何もよりによって、こんな日に出掛けなくても!・・・・・老人は何が何でも行きたくなる!

 秩父駅を出ると寒風が肌を刺す。

 秩父鉄道秩父駅には地域産業センターが併設されている。

 電車から降りると、寒風が背筋に滲み入る。

 出がけに妻は云った。

 何も好きこのんで、こんな寒い日に出掛けなくとも!

 こんな寒い日だからこそ好いのだ!

 寒さが厳しいからこそ精神が引き締まって、巡礼の功徳が有るのだ! こんな日が好きだ!

 (とは云ったが、急いだので貼るホカロンを忘れた!)

 だから年寄りは始末に負えぬ!・・・・・・・

 

 出掛けに第十六番無量山西光寺は駅前を真っ直ぐ進み、橋の手前の左側にあると、地図で確かめてきた。

    巧く写そうとカメラを傾けて写したら、却って拙くなって、仕方なく画面を傾けて貼り付けました

 駅前ロータリーの左端にブロンズがある。秩父神輿と甕から何かを注いでいる。(不勉強で何を注いでいるのか判りません)

 

【屁理屈】危険があると謂われても、自分は遭遇しないと思っている。

 

 歩道には少し雪が残っている。

 

 

 これだけ案内が充実していれば、行き着かぬ事は有るまい。

 

 一歩幹線道路から入ると、  第十六番無量山西光寺入り口

残雪は斯くの如し

 石門を過ぎると前方に立派な寺門が現れる。

無量山西光寺門前

 

 寺門の先に本堂が見える。

西光寺本堂

【由緒】

 第十六番 無量山西光寺

埼玉県秩父市中村町4−8−21

宗派=真言宗豊山派

札所本尊=千手観音

開山=不詳

開創年代=不詳

 

 古梅の並木が続く参道の先に、簡素な山門がある。町のなかの寺だが緑が多く、境内も整備が行き届いている。

 宝永七年(1710)建立の本堂の欄間には、釈迦涅槃像の彫刻がある。かなり大きなもので、三間に分かれている。中央は、入滅姿の釈迦を中心にして天女や動物たちを、左右の二面には、それぞれ五人ずつ、いわゆる釈迦十大弟子が師の入滅を悲しんでいる様子を刻んでいる。

 本堂の右脇には回廊堂と呼ばれる、コの字型の変わった建物がある。なかには四国遍路の札所本尊が祀られており、出口は山門の横にあって、まさに回廊である。天明三年(1783)の浅間山大噴火の際、世情不安を鎮めるため、十年の歳月を費やして建立されたという。

 また、境内の右手に、宝形造で三間四面の古い堂宇があり、室町時代の建築と推定されている。現在の本堂が建立されるまでの観音堂だったと考えられており、秩父巡礼が成立した当初の札所の姿を伝えるものとして貴重である。本堂建立後は札堂とされ、巡礼が納札を打ち付けるところとなった。柱には多くの釘跡を認めることができ、西光寺には数百枚の納札が保存されていて、往時の盛況をしのぶことができる。

 江戸時代の資料には、行基菩薩の作とされる本尊は、古くは他の郡にあったが、観音の霊告によって当地に移されたと記されているのみで、詳細な由来は判然としない。しかし、『長享二年秩父観音札所番付』に十三番西光寺とあり、すでに寺としての機能があったものと思われる。

 

和讃

 

 

さいこうじ ちかひをひとに たづぬれば

ついのすみかは にしとこそきけ

御朱印

 

道標

 

 

 

十六番付近に幾つかの道標が有った。

 

 

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往路 17への途次

 十六番西光寺での参拝を終え、第十七番実正山定林寺へ向かう。先ずは今し方来た幹線道路へ戻る。

 

 写真の左側に西光寺があり、定林寺は幹線道路を横断した右側の、少し離れた處にあり、写真中央には、荒川に掛かる吊り橋の秩父公園橋が見える。

 撮影位置の右側に、秩父病院入り口の標識がある。市立病院までは二丁、定林寺は市立病院から三丁ほど先の右側にある。

秩父市立病院

 

 

Image198.jpg (28876 バイト)

 

 

道路右側に案内標識が立つ。

 右折れして1丁ほど進むと

右側に参拝者用駐車場

左側に寺への入り口がある。

【屁理屈】

 悩みから逃れる方法!

 観音様にお願いする。

 観音様は何処にいる!

 各自の心の中に居られる!

 自分の心が自分の悩みを除いてくれる!

実正山定林寺門前

 

 

 

 入り口に道標があり、左に折れると前方に寺院が見える。

 階段を上り本堂で参拝する。

 朱印處は本堂を左に回り込んだ裏側にある。

 本堂屋根は、以前は萱葺で有ったが、萱の上に垂木を渡し、銅板葺きに改修して有った。

 

【屁理屈】騙されたら自分の愚かさに怒るべし!

【由緒】

第十七番 実正山定林寺

埼玉県秩父市桜木町21−3

宗派=曹洞宗

札所本尊=十一面観音

開基=壬生良門

開創年代=不詳

 『長享二年秩父観音札所番付』には、一番定林寺と記されており、秩父巡礼成立当初は打ち始めの札所だった。また、札所本尊は正観音となっているので、いずれかの時代に現在の十一面観音に変更されたことになる。

 壬生良門の家臣林太郎定元は、主の非道を諌めたが、家財を没収されて、この地で没した。後に前非を悔いた良門が、定元の菩提を弔うために建立したと伝えられる。

 定林寺は本来、林家個人の持寺として建立されたようで、林家は妙見社の触役を勤める家柄だった。秩父の鎮守である妙見社にゆかりの深い定林寺と蔵福寺を、第一番・第二番の札所とすることによって、秩父巡礼が神の承認を受けたものであることを、印象づけようとしたものとも思われる。

 『秩父回覧記』には「別当入野出雲寺ト云フ山伏也」とあり、『新編武蔵風土記稿』では「別当定林寺、園田筑前触下諏訪社丹生兵部持」と記されている。所有管理者が、林家から山伏、さらに丹生氏へと移っていったが、あくまで個人持ちの観音堂であることに変わりなかったようである。

 建立当初は宮地と呼ばれるところにあったが、十七世紀末のころに現在の桜木に移されている。本堂のほかに諏訪社と鐘楼があるだけで、第一番札所だった面影は残っておらず、市街地から外れているものの、民家のなかにうずもれている。

 鐘楼の梵鐘には、日本百観音の札所本尊が浮き彫りにされ、それぞれの札所の詠歌が刻まれている。当初の梵鐘は江戸時代初期の火災で焼失し、宝暦八年(1758)に鋳造されたものである。

和讃

あらましを おもひさだめし はやしでら

かねききあへづ ゆめぞさめける

 

御朱印

 

 

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往路

【屁理屈】

 此から先の一瞬一瞬は新たな経験

 過ぎ去った一瞬一瞬は新たな実績

 実績とは一瞬の判断の積み重ね

 ご住職に第十八番白道山神門寺への道程を訪ねると、案内図を示して懇切に教えてくれた。

 其処の鐵製階段を下り、道なりに進むと・・・・・・・

 

 

この地図は要点を絞ってあるので、距離感は当てにならないが、三叉路や十字路は性格である。十七番から十八番まで、写真を撮りながら歩いて、概ね三十分は要した。

 

【屁理屈】 今のために今生きるのは、犬猫と同じだ!

     明日のために、今を生きる。

     一年先のために、今月を生きる。

     五年先のために、今年を生きる。

     十年先のために、・・・・・・・・・

     今は十年前に予想していたこと・・少なくとも五年前には・・

 

 

住職さんから教わったとおりに歩いてきたら、右先に、神門寺の案内板が見えた。

神門寺道路側

 

 

 道路に接して大型車の駐まれる駐車場がある。中央に見える入り口は通用口。正門は写真の右側に道路があって、そちら側に寺門がある。

神門寺境内

 正面に本堂、左手奥に朱印處、左手手前に太子堂。

 

 

                 

 

ニコニコ地蔵尊

【由緒】

第十八番 白道山神門寺

埼玉県秩父市下宮地町5−15

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=不詳

開創年代=不詳

 交通量が多い国道に面して、差ほど広くない境内に、向拝の彫刻が素晴らしい観音堂が建っている。本尊の聖観音は、両手で蓮華を持つ立像で、室町時代の作。寺伝では、安阿弥の作云われる。 縁起によると、かつてこの地には神社があり、大きな榊の枝が左右から結び合って楼門のようだったため、神門と呼ばれたという。さらに、神社が廃れた後、復興しようとしたところ、精舎にせよとの神託があったので、観音を祀ったとされている。

 『秩父回覧記』では、「神門」ではなく神戸の文字を当てているが、神戸は「かんべ」と読まれ、神社に諸税を収める神領所属民およびその集落を意味する語である。現在の境内から東北にある台地は、九世紀末から十世紀初のころ、後に秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が、最初に祀られたところとされる。その台地から程近い神門観音の境内地あたりは、古いころから妙見宮の神領地とされたと考えられ、神門は神戸の転と推定することができる。

 創建当初から現在地にあったものと思われ、長享二年(1488)当時は、第二十二番札所だった。別当については、『秩父回覧記』には、「別当神力院、大宮ノ町ハズレニ居ル山伏也」と記し、『新編武蔵風土記稿』では、「別当神門寺、青苔山不動寺長生院と号す、神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」という。別当の交替はあったようだが、明治五年(1872)の修験道禁止まで、禅宗寺院の支配を受けることなく、修験者によって護持されてきた。

 

【屁理屈】

 何故に悩む?

 自分の思いと違うから悩む!

 不満があるから悩む!

 何故に不満があるの?

 思い通りに成らないから!・・・・・

 欲しがるものは万般!

 適う人もいれば適わない人が居ることは当然だ!

 全員に適う物事など有り得ない!

 欲しがる前に、自分の能力を考えよう

 

和讃

 

 

ただのため

ろくそくともに

だいひをば

ごうとにたちて

たすけたのえる

 

【屁理屈】先のことは誰にも分からない

 

御朱印

 

 

 秩父巡拝を初めて既に六回になった。寺参りも半分すぎたのだから少しは好い親爺に成ったろう!・・・・・・・と妻に云ったら

 少しは丸くなってくれると、此方も助かるけど!

 屁理屈は多いし

 わたしの話は聴かないし

 少しも以前と変わっていないねえ・・・・・・

 丸いかと云われれば、少しは角が取れたかなあ・・・・・・

 だけど、お腹が空いていると機嫌が悪いんだよね!

 此がアンタだから、

 此が変わったりしたら、却って気味悪いけど!・・・・・

 

 

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第七日

平成25年1月31日(木)

 

第十九番札所 飛淵山龍石寺

第二十番札所 法王山岩之上堂

 観光旅行に行くと、必ずと言っていいほど神社仏閣を訪ねる。私を含めて殆どの人は、宗教心云々は考えたこともないが、神社や仏閣を訪ねるのは、理屈抜きで好きだ!

 多くの歴史に培われた美術資料が有るから、と言う人もいるが、それらに興味の無い人でも、神社仏閣には訪れる。

 

 【屁理屈】を云わして貰えば・・・・・、其れはご自分の“心”が求めるからであろう。生まれついての性悪は居るかも知れないが、殆どの人の心は、本来純真である。だが歳月と共に実社会で翻弄され、純真では居られない事も多い。

 神域寺域は規模の大小は有るが、何れも幽邃な環境で、実社会から隔離された虚空間である。

 人の心は、失われた童心への郷愁から、無意識に神社仏閣へ足が向くのである!

 深山に分け入るのも、趣味に没頭するのも、失われた童心への郷愁が根底にある。

往途

 朝七時半に家を出た。何時も見慣れた景の儘に、最初に秩父巡遊に訪れた時と同じ「大野原」に下車した。四萬部寺は進行方向左側に有って、然も七月中旬の暑い暑い日でだった。

 

 今日最初に訪れる第十九番飛淵山龍石寺は、進行方向右側の寺院で、然も今日は寒い寒い大寒である。ただ今日は比較的暖かい日で、暖かい予報なので出て来たという経緯もある。

 腹巻きを締めホカロンを貼り付け寒さ対策は万全だったが、今度は暖かすぎてオーバーを脱ぐ始末である。

 大野原駅は四萬部寺へ行くとき下車した駅である。駅前へ出ても何もない。(四萬部寺へ行くときの写真有り)駅前へ出たら四萬部寺は右折れだが、第十九番飛淵山龍石寺は左折れである。

 暫く進むと右へ向かう路が有るので右折れし、宗福寺の近くを通り過ぎ道標を頼りに進むと龍石寺に到る。

 

先の方に龍石寺の入り口が見える

 暖かいのでトボトボゆっくりと歩を進めた。

 ゆっくり歩くと、話し好きな人に出会う。この辺りは数億年の昔かなあ・・・・・地盤が波うって隆起し、凹んだところが荒川になり、両側に台地が出来た。この辺りは、隆起した岩盤の上にある土地で、龍石寺はこの辺りで一番高いところだそうだ!・・・・・

 

【屁理屈】暑い寒いも人によって異なる

 檀家に金持が大勢居ると寺は栄える

 

 この案内板を見ると、20番へも僅かなようだ。

 

 突き当たり石垣の上に本堂の屋根が見える。

 

 

 写真右端の石段を上ると、数本しか樹木がない境内に出る。境内は一枚岩の上で、抑も穴窪でもない限り、樹木を植えられる土が無いそうだ。これ程地盤がしっかりした處は滅多にない。

 石段を登った右側に地蔵尊が祀られている。

飛淵山龍石寺本堂

 本堂正面から・・・・

 境内の左側には比較的新しい太子堂が建つ

 

【屁理屈】

 命を落とす人は珍しくない。だが、悲しみは何方も同じでは無さそうだ。

 当事者が自覚しているか、自覚していないか

 家属も覚悟しているか、覚悟していないが

 お子さんの場合は、本当に悲しい

 

【由緒】

 第十九番 飛淵山龍石寺

埼玉県秩父市大畑町15−31

宗派=曹洞宗

札所本尊=千手観音

開山=不詳

開創年代=不詳

 境内に入ると、起伏のある岩盤が地表に露出していて、室町時代の千手観音坐像を祀る観音堂は、荒川の近くに位置し、この巨大な岩盤の上にこの寺は建てられている。

 縁起によると、昔、この地方に大旱魃があった際、弘法大師が天皇の勅によって請雨を祈願した。すると、大盤石が二つに割れて龍雲が立ちのぼり、雨を降らせたとされる。

 以来、この寺が火災に見舞われた時には、龍が出現して雨を降らし、その難から逃れるといわれている。

 また、一説には、本尊の千手観音は、弘法大師が天皇の病気平癒のため、刻んだものともいう。後に、この地の住民が、悪龍の害を除こうと観音に祈願したところ、大師作の尊像が光明を放って飛来し、悪龍を退散させたので、堂宇を建立して、尊像を安置したと伝えられる。

 この伝承での悪龍とは、しばしば洪水を起こした荒川を表しているのだろう。そして、治水対策の歴史が縁起として語られ、洪水から守護する観音を祀るようになったものと思われる。『新編武蔵風土記稿』には、寺宝として龍玉と龍爪を記している。

 十五世紀末に大宮郷に広見寺が創建されると、二世の東雄朔方(1493年寂)が別当の龍石寺の開山となり、末寺とした。長享二年(1488)当時は第二十一番札所であり、瀧石寺と寺号で記されているところから、すでに寺としての機能を有していたことがわかる。

和讃

 

 

 

あめつちを うごかすほどの りゅうせきじ

まいるひとには りしょうあるべし

御朱印

 

 

 

【屁理屈】

 過去の仮定をすると、気休めには成るが、その弊害も多い

 

 

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200往途

 第二十番法王山岩之上堂へ向かう。此処は寺院ではなく、観世音菩薩像を祀る社で有る。観音菩薩に私淑していたお人がご自分の敷地内に堂宇を建立し、お祀りしている。

 現在は一般公開為されており、秩父34観音巡礼還の中にあり、堂宇のお隣に居住為される御仁が管理為されている由。

 扨、19番から道標を頼って住宅地を通り抜けると、荒川に掛かる歩行者専用の橋のたもとに出る。

 写真の左側は吊り橋のロープが見える。則ち左側が自動車の通る新設の橋で、右側(写真前面)が歩行者専用の歩道橋である。

 

 新しい橋が架けられて、旧来の橋は歩道にタイルを引き詰め、花壇やベンチを設えて、歩行者専用に改修された。

 左側には壮麗な吊り橋が有り、下を覗くと荒川が望める。

 

 

 歩道橋を渡りきると、交通量の多い国道299號線に出る。

 国道を横切り両側に樹木の茂る緩やかな坂道を通り過ぎると、20番岩之上堂の案内標が有る。

 

 

 駐車場は付近より高いところにあり、堂宇も看板前面の下の方にある。

【屁理屈】

 人は好意を受けると気分がよい。その人は次の人に好意を持って接する。その逆もある。自動車運転では歴然。

 

 駐車場から屋根と石柱  石柱の處まで行くと、下り坂の下にが見え、堂宇の屋根が窺える。

 

 

【屁理屈】

 “ひと”の欲望には際限がありません。

 此処までと謂う際限を決めると、人生は随分と楽になります。

第二十番

 

 

 この辺りは、駐車場を頂点にした緩やかな傾斜地で、堂宇は傾斜地の途中の、少しばかりの平坦な土地に建っている。

 堂の外観には彫刻が施され、重厚な佇まいである。堂内には菩薩像が安置され華麗である。ただ惜しいことに剥落が見られ、歳月の経過には抗しがたい。

 何よりも腹立たしいのは、千社札の多さである。

 

【屁理屈】

 “ひと”は、常に死と隣り合わせです。病気か怪我か事故か寿命か・・・・・でも、普段病気をするとか、事故に遭うとか・・・・理屈は解っていても、自分が遭遇するとは思っていません。寺参りをしているのだから、自分も遭遇する!に、前提を改めましょう!

 

 

 

 扉から壁面に、更には軒桁迄、無礼の限りを尽くしている。

 

 

 堂内の天井は余地を残さぬほどの狼藉で、新しい札も沢山ある。

 

【屁理屈】 この建物は私(筆者)の所有物ではありません!

 其くらいのことは、バカな私にも分かります!

 お尋ねしますが・・・・・

 この堂宇は貴方の建物ですか?

 ご自分の建物でないのなら、他人様のものですね!

 如何に理屈を並べようと、

他人様のものを毀損してはなりません!

【屁理屈】 言い訳は、次の過ちの根を残します。

【屁理屈】 犬猫を溺愛し・・・、牛豚を殺戮して屍を食べ、其れなのに動物愛護家なの?!・・・・・・

【屁理屈】“ひと”は、相手が弱ければ、生殺与奪を恣にしても宜しいのですか?

 

【由緒】

 第二十番 法王山岩之上堂

埼玉県秩父市寺尾2169

宗派=臨済宗南禅寺派

札所本尊=聖観音

開基=白河院

開創年代=不詳

 

 第十九番札所からは、荒川の対岸に当たり、河に面した岩盤の上に建っている。明治十八年(1885)に秩父橋(現在の歩道橋)が完成するまでは渡船があり、船着場から石段を上って参拝した。

 白河院の勅願によって、聖徳太子作の観音像を安置したと縁起に伝えられる。

 『秩父三十四所観音霊験円通伝』によると、応仁年間(1467〜69)には堂宇は破却され、本尊のみが岩の上に立っていたため、岩ノ上観音と称するようになったとされる。

 後に北条氏邦によって華麗な堂宇が再建された。しかし、「岩上堂建立の趣旨」には、天文永禄の乱(1546・1569)によって、灰燼に帰したと記されている。

 以来、二間四面の小堂に祀られていたが、延宝六年(1678)内田武左衛門尉政勝の発願により、二十六年の歳月をかけて、元禄十六年(1703)現在の観音堂が再建された。

 境内には、熊野権現社が現存しており、山伏の古装束も伝わっている。本尊は藤原時代の作であり、かなり古い時期に熊野系修験者によって草創されたものと推定される。

 長享二年(1488)当時から第二十番であり、秩父巡礼開創以来、札所番付に変動のない、唯一の札所である。

 また、『新編武蔵風土記稿』には、「里正左膳持」とするだけで、別当寺院や宗派、本末関係を記していない。修験者によって祀られたであろう岩上観音は、戦国時代末期に当地に居着いた内田氏によって管理されるようになり、個人持堂とされた。

 内田氏は、江戸時代の寺請制度により、田村郷の円福寺の檀家とり、明治の修験道禁止によって、臨済宗に属するようになった。

 

【屁理屈】 この頃、夫婦、子供等々、皆自分勝手が多くなったような気がする。其れは何故か?                    自分をさらけ出すことが、お互いの信頼と勘違いしているからで、夫婦であっても、なんでもさらけ出せば、信頼しあえる訳ではない。自分をさらけ出すことは、自分を相手に押しつけると謂う一面を持つ。

 例え夫婦と雖も別々の人格、親子でも別々の人格である。夫婦であれ親子であれ、互に敬意を以て対することが肝要である。先ず夫は妻に対し、妻は夫に対し、敬意を以て接し、親は子に對しても、まず敬意を以て接すれば、自ずと子は親に對して敬意を以て接するようになる。

 一番簡単な習慣として、夫は妻に對しても子に對しても、優しい言葉を用いるべきである。そうすれば必然的に言葉を撰ぶようになる。

 夫婦親子であっても、言いたい放題は相手の人格を踏みにじる。

 

和讃

 

 

 

こけむしろ しきてもとまれ いわのうえ

たまのうてなも くちはつるみを

御朱印

 

 

 

【編輯の都合で挿入しました】

【すぐれた詩人金子みすゞ】

 つぎの『芝草』という詩などは、バカにされても踏みつけられても逞しく生きる、虐げられたものの発展性や力強さを激励しています。

 

    名は芝草というけれど、

    その名をよんだことはない。

 

    それはほんとにつまらない、

    みじかいくせに、そこら中、

    みちの上まではみ出して、

    力いっぱいりきんでも、

    とても抜けない、つよい草。

 

    げんげは紅い花が咲く、

    すみれは葉までやさしいよ。

    かんざし草はかんざしに、

    京びななんかは笛になる。

 

    けれどももしか原っぱが、

    そんな草たちばかしなら、

    あそびつかれたわたし等は、

    どこへ腰かけ、どこへ寝よう。

 

    青い、丈夫な、やわらかな、

    たのしいねどこよ、芝草よ。

 

 

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第二十一番 要光山 観音寺へ