第九日

平成25年2月21日(木)

第三十一番札所 鷲窟山観音院  [鷲岩殿]

第三十二番札所 般若山法性寺  [般若岩殿]

第三十三番札所 延命山菊水寺  [小坂下]

第三十四番札所 日澤山水潜寺  [水込]

 

地図

 

 

荒川橋梁

 

 

往路

 秩父駅から来て最初に渡る荒川の橋は、巴川橋である。何故に巴橋と謂うかと・・・・・・・・、河の形が「巴」に成っているところを渡る橋だから・・・・・・、そう謂うそうだが、説明を聞いたが皆目分からなかった。ただウンウンと言っただけ。

 地図を見たら、荒川が蛇行していて巴の字形に成っていた

 

 此の鉄橋もトラックの交通量は多い、写真左側には歩道があるが、右側には歩道がない。此の鉄橋の写真は、歩道のない側で撮った。

 川は沢山の恵を齎が、亦多くの試練も与える。この試練と繁栄の歴史が文化でもある。

里山

 

 

 荒川の橋を渡ると、途端に田舎の佇まいと成る。農家の散在する畑地や冬枯れの林を車窓に観て更に進むと、道は次第に平地か ら急峻な山地に到る。

 道は前方に橋がある三叉路に至る。「たらちね観音」の看板が目に付く。運転手の話では、看板は大きいが寺は看板ほどではない!と

 

【屁理屈】小学生の心は優しさに溢れている。其れなのに、中学、高校、大学、社会人・・・・・歳を経る毎に、優しさが乏しくなるのか!?比較と言う、欲望が出るのも一因

 

 

 案内板に従って右折れし暫く進むと、紅い欄干の橋が現れる。橋を渡ると、西晃山光珠院(昭和43年創建)が道の左側に有る。更に進むと水子地蔵を祀る紫雲山地蔵寺(昭和46年9月創建)がある。紅い橋は何れの寺の橋かは判らない。

 

 

何れも歴史は浅く、秩父34観音寺院には含まれていない。

   中央が紅い橋

 橋を渡ると直ぐその先左側に、「たらちね観音」の幟旗が目に入る。だが寺院と謂えるほどの建造物は見当たらない。

 更に山坂の舗装道路を進むと、道の両側に異様とも思える光景に遭遇する。

 道の両側の丘陵一面に、紅い涎掛けを掛けた小さな地蔵様が、幾萬と祀られている。

異様な光景

 

 

 やや進むと道の右側に、青銅の地蔵像と差ほど大きくない寺院の建物がある。

Image360.jpg (39519 バイト)

 

 途中、紫雲山地蔵寺(昭和46年9月創建)と謂う異様な光景に遭遇したが、その後暫し山路を走り、漸く目指す31番札所鷲窟山観音院[鷲岩殿]門前に到着した。

大きな仁王像

 

 この寺の仁王門は簡易な鉄骨製だが、仁王様は石造りで、身の丈4メートル程と謂われ、流石に大きい。

 

 仁王門を潜ると直ぐ左側に、大きな右手がある。仁王様の右手だそうだ!

 

 手の右側には佛足がある。

十二支霊場、境内案内板、立入禁止板などがある。

 

 写真の石像は、子・丑寅・卯・辰己・午・未・申・酉・戌・亥の10体が祀られている。

 仁王門を潜ると296段の急な石段が続く。石段の途中には、歌碑と、朧気に写真正面に見えるのが鐘楼、その先が本堂、右手に見えるのが庫裏である。

 

 案内板にも有るように、この山一帯が寺域か?日尾城址ハイキングコースの看板も有った。

 

 途中には奥の院への案内板や、この先崖崩れで通行止めの標識があった。

 著者は本堂に行ってお参りし、揮毫を戴いただけで、奥の院へは遠慮した。石段を登り詰めると正面に本堂がある。

寺院境内

 

 それ程広くない境内は、岩壁に囲まれ、其処かしこに風雪の跡が見て取れ、何れも岩壁を背にして、正面には観音堂、その右側に庫裏が有る。写真左寄りの崖の上から、200尺の滝が落ちていたと謂うが、確認は出来なかった。

 

 

磨崖佛

 本堂の手前に、ここ数年に築造したであろう鐘楼がある。其れなのに、もう千社札の狼藉!

目の高さの岩壁には、身の丈三寸ほどの多数の磨崖佛がある。

 

 

 

 

 

 

 磨崖佛と謂っても小さいし、更に摩耗が進んでいるので、指摘されないと見落としかねない。

 写真に撮ったのは、ほんの一部である。

 

 岩壁に出来た高低様々な風雪の窪には、石仏が祀られている。

 

 

此の寺院へは徒歩山越えの巡礼路も有るらしく、藪の中にも案内標が有った。

 

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

 

 辛うじて読み取れます 盛り上がっているのは岩檜葉

 

 

 岩壁の盛り上がりは岩檜葉

 

帰途急峻な石畳を下り、仁王門に辿り着く。

 

【由緒】

 第三十一番 鷲窟山観音院[鷲岩殿]

埼玉県秩父郡小鹿野町飯田観音山2211

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=行基菩薩

開創年代=不詳

 

 秩父巡礼も終わりに近づくと、札所間の距離が長くなる。第三十番から第三十一番が最も長く、五里弱離れており、徒歩で五時間の行程である。

 仁王門には、明治元年(1868)長野の石工藤森吉弥が奉納した日本一といわれる、台座を含めて四メートルの巨大な石の仁王像が安置されていて、仁王門から長い石段を登り詰めると、三方を岩壁に囲まれた境内に至る。

 行基菩薩が、自作の観音像を安置したのが始まりとされるが、然し、平将門の乱によって行方がわからなくなっていたものを、後に畠山重忠が鷲の巣のなかから見つけたといわれている。

 『新編武蔵風土記稿』によると、別当の観音院は、本山修験、越生郷山本坊の配下であり、中興開山は慶覚(寂年不詳)とされ、この寺は修験者によって草創されたと考えられ、明治五年(1872)の修験道禁止まで、改宗することなく守られてきた。

 近年に建立された観音堂の背後には、覆いかぶさるような大岩壁がある。これが『長享二年秩父観音札所番付』に鷲岩殿と記すところで、ここに第十六番札所の観音像が祀られたのだろう。

 観音堂左手の崖上からは、落差200尺の聖浄の滝が落ちている。修験道の時代、行者の水垢離の場である。また、胎内くぐりや奥の院の行場、そして岩壁には数多くの石仏が刻まれている。総数は十万八千体といわれており、弘法大師が刻んだという。

 境内は、創建当初の姿をそのまま伝えており、山岳修験の霊場の様相を呈している。

和讃

 

 みやまじを かきわけたずね

ゆきみれば いしのいわやに ひびくたきつせ

 

御朱印

 

 

 

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往路

 来た道を折り返し、第三十二番般若山法性寺[般若岩殿]へ向かう。人気のない山道を下り里山へ出て来た。

 

暫く進むと案内標識のある四辻に出た。32番法性寺は写真の右方向にある由。

 

 山を下ったとは言え、市街地からは離れているので、周囲は写真の如くで有る。

【屁理屈】

 生きて行くには財物と知識と健康と優しい心の四っが必要だ!財物があっても知識に欠けると騙される。財物があっても優しい心に欠けると、薄情者になる。幸福になるには最低限、優しい心は必須だ!

 

般若山法性寺山門

第三十二番般若山法性寺[般若岩殿]山門

Image383.jpg (86410 バイト)

 

 第三十二番般若山法性寺[般若岩殿]山門に到着。立派な仁王門があり、中を覗くと、急な石段が延延と続く様が見える。

 急峻な石段を登り切ると、丘の中腹にある本堂の前に出る。

 

 

本堂

 

境内

 本堂の脇手には、詩碑や石仏が祀られ、見上げると、懸崖造りの観音堂と、もう一棟が見える。

 この辺りの山は殆どが岩盤で、岩盤の上の僅かに積もった土に、草木が根を張っている。依って殆どが灌木で高樹は少ない。

 

 

 写真左上が懸崖造りの観音堂。昨年辺り懸崖の根本を修理した形跡有り

 

懸崖造りの観音堂の更に上にある寺宇

 

【屁理屈】

 この社会に、他人事の事など何もない。必ず何処かで関わっているのだ!

奥の院

 写真左下中程の三角形の小さな穴が、奥の院への通り道

 寺の庭から前方を見上げると、迫り出した岩の上に何かが見える。あの場所が奥の院だそうで、岩の下の小さな穴を通って行くと、奥の院へ辿り着けるそうだが、老生は遠慮した。

 

 

 迫り出した岩が船の形に似て

いるので、一名岩船山と呼ばれる。

 望遠で撮すと斯くの如し。

 

【由緒】

 第三十二番 般若山法性寺[般若岩殿]

埼玉県秩父郡小鹿野町般若2661

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=行基菩薩

開創年代=不詳

 

 楼門をくぐって石段を上ると、眼応(1232年寂)によって創建され、宗察(1708年寂)が中興した別当の法性寺があって、本堂には薬師如来が安置されている。

 昭和六年(1931)、当寺において室町時代の古文書が発見され、その成立年代から、『長享二年秩父観音札所番付』または『長享番付』と呼ばれている。

 現在とは番付が異なり、定林寺から水込まで三十三ヶ所しかなく、開創当初に近い姿を伝えたものとして、秩父巡礼研究において第一級の資料である。

 また、法性寺では、寛政十二年(1800)に書写された『武州秩父郡御札所之縁起』および、『秩父三十四箇所順礼観音縁起』も蔵している。

 法性寺本堂から懸崖造の観音堂までは、百メートルほど離れていて、嘗ては鎖場だったという。岩を削ったままの段を上り、床下を通って背後から堂内に入る。

 観音堂の後ろには大きな岩窟があり、ここが長享二年(1488)当時、般若岩殿と呼ばれた第十五番札所である。

 行基菩薩が、この岩窟のなかに、自作の観音像を安置したと縁起では伝えていて、さらに延暦年間(782〜805)、弘法大師が巡錫し、『大般若経』六百巻を書写して奉納したという。

 観音堂から奥の院へは、大きな岩の間を抜け、岩壁をよじ登る。途中の岩窟には、十三仏の石仏が並び、頂上は、船が空中に突き出しているような一枚岩で、岩船山と呼ばれる。

 ここには岩船観音像が立ち、船尾にあたる鎖場の上にある奥の院の岩窟には、大日如来が安置されている。

和讃

 

 

 ねがはくは はんにゃのふねに のりをえん

 いかなるつみも うかぶとぞきく

 

御朱印

 

 

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往路

 32番から33番へは、左手に山裾を観て走る平坦な行程である。途中に「おがの化石館」の案内が有ったが、差ほど興味がなかったので通り過ぎた。次いで数億年前の地層が目視できる場所の案内が有ったので立ち寄った

おがの化石館

 

 

 

 

地層が目視できるとは云っても、基礎知識の乏しい者には、馬の耳に念仏

 

 札所看板のあるところは駐車場で、寺は道路を挟んだ前にあり、通路左側に大きな石柱がある。

 この石柱の表側には「大櫻山長福寺」の寺号が刻まれていて、裏側には「札所三十三番延命山菊水寺」の寺号が刻まれている。

門柱

 

表側

 

 

裏側

 駐車場の案内も道端の案内標も「札所三十三番延命山菊水寺」で、「大櫻山長福寺」とは何処にも記載されていなかった。

 

【屁理屈】

 人生は幸福な家庭を築く事が目標だ!

 幸福な家庭とは皆が健康で、妻を愛し、子孫を愛し、父母を愛す。

 仕事はそれらを達成するための手段で、目的ではない。

 

寺の石柱を過ぎると長い参道があり、前方の本堂が木木の間から窺える。

 

 

本堂

 

【由緒】

 第三十三番 延命山菊水寺[小坂下]

埼玉県秩父郡吉田町大字下吉田1104

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=八人の盗賊

開創年代=不詳

 

 菊水寺の参道前には、「大櫻山長福寺」の大きな石柱が立っている。別当の長福寺は、長山賢道(1616年寂)が、桜井部落にあった長福庵を転用して創建した曹洞宗寺院である。

 やがて札所の管理権を掌握するようになり、文政三年(1820)本堂改築に際して札所本尊を本尊として祀った。

 本堂の欄間には、二枚の大絵馬が掲げられていて、一枚は、二十四孝の一つ唐夫人を絵にした「孝行和讚」。もう一枚は、子供の間引きを諌めた「子孫繁昌手引草(子がゑしのゑづ)」である。また、境内には松尾芭蕉五十年忌に立てられた芭蕉塚もある。

 札所本尊の聖観音は、藤原時代の一木造であり、寄木造と一木造の室町時代の聖観音二体を脇侍としていて、まわり観音と称する白衣観音坐像も伝えるが、こちらが長福寺の旧本尊である。

 札所本尊を本尊としたため、檀家を巡るようになったとされ、現在も一カ月交替で各家を廻っている。

 当寺は最初、八人峠と呼ばれるところに創建されたとされ、縁起によると、この峠には八人の盗賊が住み、通る人から金品を強奪していたが、行基菩薩の教えによって改心し、その証として堂宇を建立し、行基作の観音像を峠に祀ったとされる。

 今の境内から約六百メートル南に小坂下集落があり、そこから八人峠にかかるあたりに、菊水寺跡とされる地がある。現在も、台座に天明五年(1785)の銘がある地蔵石仏や、菊水と呼ばれる井戸が残る。八人峠に祀られた観音は、長享二年(1488)までに小坂下に移され、第十七番札所となったものと考えられる。

和讃

 

 

 はるやなつ

 ふゆもさかりの

 きくすいじ

 あきをながめに

 おくるとしつき

 

御朱印

 

 

 

 

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往路

 水潜寺は山の中にある。道は平地から幾つもの坂を上り道端の道標に到る。

 

 この坂道を歩いて行くと寺の境内に出る。

 この道しるべに到るまでに幾つかの案内板を見た。

 

 関東ふれあいの道

 此の案内板は時折見掛ける

 

 

 この案内板に出会って概要が掴めた。

 寺域は随分と広大な様だ。

此処を進むと

此処に至り

そして本堂の正面に出る

34本堂

本堂に到る

熊出没の注意書きがあり

境内諸堂

境内には結願堂

 寺域はとても広いようで、道は続いてるが、本殿前には熊出没の注意書きが有り、今年になってからも目撃されているようで、通行止めの注意書きがある。

 

【屁理屈】災難には自然の災難と、人の災難がある

【屁理屈】今の世の中、人の話を鵜呑みにする人が多い!

 著者の書いたことを再確認しましたか!

道は寺院脇を通り抜け更に山中に続く

 

【屁理屈】

 わたしの前には、朦朧とした道がある。

 わたしは、一雨で消えそうな足跡を遺した。

 これがわたしの生き様だ!

 

【由緒】

 第三十四番 日沢山水潜寺[水込]

埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3522

宗派=曹洞宗

札所本尊=千手観音

開山=旅の僧

開創年代=天長元年(824)

 

 百観音結願の水潜寺へは、菊水寺から札立峠を越える巡礼路がある。二時間半の行程で、今でも歩く巡礼の姿を見ることができる。

 東国が大旱魃にみまわれた天長元年(824)のこと、この峠に一人の旅の僧が訪れ、「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、坂東をかたどり薬師を置き、この観音と合わせて百番の霊場として我が笈摺をここに納む」と里人に告げた。そして、木札に「甘露法雨」と書いて立てると、雨が降り出したという。

 『長享二年秩父観音札所番付』においても、現在と同じく結願所であり、「卅三番 水込 千手観音」の次の行に、この札所に限って「日の沢」と地名が記されている。しかし、長享二年(1488)から当地にあったとすると、横瀬村の第三十二番牛伏から大宮郷を隔てて、かなり離れた日野沢まで行かなければならない。

 そのため、旧地は特定できないが、横瀬村のいずれかから日野沢に移転したものと推定されている。

 札所本尊の千手観音は、両脇に安置される阿弥陀如来、薬師如来とともに伝教大師の作とされるが、熊野三山の本地仏と同一のため、熊野修験者によって祀られたものと思われる。

 別当の水潜寺は大通院の末寺で、同院の二世敬翁性遒

(1571年寂)が開山、阿佐美伊賀守慶延を開基としている。

 水潜寺の境内には、胎内くぐりの洞窟があり、這いつくばって通り抜けることができる。内部は清水が滴り落ちており、「みずくぐり」といわれている。結願した巡礼は、この洞窟を通ることによって、聖なる世界から俗なる日常の世界へと戻っていく。

 

【屁理屈】 この世に普通と云うことは無い!

和讃

 

 

 

  よろずよの

  ねがひをここに

  おさめおく

  こけのしたより

  いづるみずかな

 

御朱印

 

 

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秩父三十四観音巡拝結願しました

板東33観音霊場へ

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