第四十一番札所 稲荷山 龍光寺

 大同2(807)年に弘法大師がこの地を巡錫していると、稲を背負った老人が現れて「私はいつまでもこの地に住んで法教を守り、諸民の幸を守りましょう」と大師に告げると姿を消してしまった。

 

大師は仏法流布を誓いし老人こそこれ五穀大明神の化身ならんと尊像の十一面観世音菩薩を、さらに脇士に不動明王、毘沙門天を刻み、堂字を建立して安置し稲荷山・龍光寺と名付け四国霊場総鎮守の寺として開創し、四国霊場四十一番札所と定めた。

 それらの由緒をもっている寺だが、明治初年の神仏分離でもとの本堂は稲荷社となり、新しく下段に本堂を建て本地仏の十一面観音が本尊となり、脇士の不動明王と毘沙門天が安置され、稲荷明神も大師勧請がゆえに、本尊と一緒に祀られている。

 これが「三間のお稲荷さん」と呼ばれるゆえんである。

 かつては石段のある稲荷神社が本堂とされていたが、明治初年に神仏分離令が発布された。新た建てられた本堂は、ひっそりとした佇まいで世外境地の趣を称えている。また大師堂は、小さいながらも風格を感じさせ、こちらも樹木に囲まれており風情満点。

 

【由緒】

第四十一番札所 稲荷山 護国院 龍光寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗御室派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県宇和島市三間町大字戸雁173

電話:0895-58-2186

 

 宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野。地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺である。

 往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場で、その象徴ともいえるのが、山門は鳥居で、この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。

 境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居していて、縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負った白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。

 大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。

 創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の神仏分離令により旧本堂は稲荷社となった。

 新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。

 

 

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第四十二番札所 一果山 佛木寺

 山沿いの田園道を四`ほど歩むと道沿いに仁王門があり、石段を登ると鐘楼、左の奥まったところに本堂、大師堂があり、本堂左手には、嘗ての通夜堂がある。

 縁起によれば、大同二年、この地を巡錫していた大師は、牛をひいていた老翁に出会い、勧められる儘にこの牛にのった。すると近くの楠の枝に、一つの宝珠がかかっているのを発見した。

 

 この宝珠は大師が唐におられるとき、 有縁の地を選ばれるようにと、三鈷ととも に東へ向けて投げた宝珠であった。大師 はこの地こそ霊地と直感し、楠で大日如来を刻み、その尊像のマユの間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立して一環山仏木 三鈷 寺とし、その後牛馬安全の守り仏として信仰をあつめた。

 宗尊親王の護持仏や西園寺氏の祈頑ならびに菩提所となったこともあり、慶安以降は藩主の保護によって伽藍は再建された。

 旧府六月に行われる「瓜封じ」で有名な仏木寺、これは体の古い部分をキュウリに封じ込め、身代わりに川に流すというもので、寺は本尊が大日如来であることから、大日さんとも呼ばれる。

 本堂は、享保13年に吉田藩主・伊達若狭守によって建立されたものといわれ、建立時の大師堂は現不動堂にされ、現大師堂は比較的新しい。

 また大師堂に安置されている弘法大師像は、檜の寄木造りで、正和4年(1315)の銘が入っているが、これは胎内銘入りの大師像としては、日本最古ではといわれている。

 仏木寺で一極風情を醸し出すのは、茅葦き屋根の鐘楼堂で、元禄年間(1688-1704)に再建された建物である。

 牛馬家畜の守護仏のキュウリは、床の間や仏壇に置き、体の悪い部分を撫でながら祈りを唱え、腐りそうになったら、木の根元に埋めればよい。

 

 毎年、旧暦6月の土用の丑の日と二の丑には、「瓜封じ」の供養が行われている。これは、キュウリを人間や牛馬の身代わりとして病気を封じ込め、川に流すというもので、手順は祈願の内容を口頭で伝えて持参した瓜を渡すと、穴を一カ所開けて祈祷をしてくれ、その穴に御札を詰めて、大豆でふたをしたものを頂く。

 

【屁理屈】

 鰯の頭も信心からと云うが、当に斯くの如し

 

【由緒】

第四十二番札所 一カ山 毘廬舎那院 仏木寺

本尊:大日如来

宗派:真言宗御室派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県宇和島市三間町字則1683

電話:0895-58-2216

 

 牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。

 近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。

 往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。

 大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。

 よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。

 大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

 その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。

 戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。

 

 

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第四十三番札所 源光山 明石寺

 仁王門を入ると右手に「弘法井戸」があって、弘法大師の行場跡だと伝えられている。石段を上ると、宮殿風の屋根の本堂が、山の樹木に埋まるように建っている。

 現在は「めいせきじ」と呼ばれているが、本来の名は「あげいしじ」で、土地の古老たちは「あげいしさん」「あげしさん」と呼んでいる札所である。

 その由来は、昔若く美しい女神が、願をかけ深夜に大石を運んでいるうちに夜明けがきたことに驚き、消え去った。その様子をうたった御詠歌の「軽くあげ石」からきていると伝えられている。

 往古、若き乙女に化身した千手観世音菩薩が大石をいだいて籠ったという霊場であり、欽明天皇の勅願により、円手院正澄という行者が開創したと伝えられている。のち、天平六年(734)役行者小角から数えて五代目に当たる寿元行者が、紀州より熊野十二社権現を観請し十二坊を建てて修験道の中心道場となった。

 さらに弘仁十三年(822)この寺に留錫した弘法大師が、金紙金泥の法華経を納められ、一夜にして堂字を建立、加えて諸堂の再興に貢献され四十三番札所と定められた。

 その後の建久五年(1194)源頼朝が、かって助命してくれた池の禅尼の菩提をとむらうために一寺を建てたことから、それまでの現光山の山号を現在のものに改め、その刺朝の経塚は権現堂の後ろにある。

 現在の本堂は、明治時代に全国の信者の浄財によって建立されたもので、左右が反り、中央が膨らんだ唐破風造りの屋根は、宮殿を思わせる造りで、鬱蒼とした緑を背に、風格を漂わせている。屋根は珍しい赤瓦で、本尊は千手観音だが、これは唐渡来の仏像といわれている。

 大師堂は、本堂に比べるとやや小ぢんまりとした印象で、参拝した人が氏名を書いた納札が、何枚も貼られている。

 本堂裏手の山上には、西国巡拝の婦人が寄進した「しあわせ観音像」が鎮座している。左手に水瓶を持った観音像は、実に慈悲深いお顔をしていて、更に周辺には西国三十三カ所の石像を配置しており、巡拝することができる。

 

 本堂外陣の天井絵は、明石寺の信徒が松に鶴、竹に雀、亀などのお目出たい絵柄の絵馬を描いて奉納したもので、1枚1枚に氏名と年齢が記入されており、それぞれが実に個性的で楽しく、華やかな色合いが、落ち着いた雰囲気の寺に彩りを添える。

 草履は彼方此方の寺で見かけるが

額縁に入った草履は珍しい。

 

【由緒】

第四十三番札所 源光山 円手院 明石寺

本尊:千手観世音

宗派:天台宗寺門派

開基:正澄上人

所在地:愛媛県西予市宇和町明石201

電話:0894-62-0032

 

 この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532?71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。

 天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

 弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ね、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809?23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。

 その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。

 以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

 明石寺が所在する宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町で、明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。

 

【屁理屈】

 人は自分の判断が適切か悩む

 人は自分の判断でなければ悩まない

 人は自分で判断せずに鵜呑みにすることを信ずると謂う

 

 

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第四十四番札所 菅生山 大寶寺

 参道入口脇には、大師堂があり、境内には杉や檜の大木が聳え立ち、高地であるため空気も澄み、木々の聞から射し込む日の光が、幽玄な寡囲気を醸し出している。

 仁王門にある、百年に一度取り替えられる大草履、青い銅板葦き屋根の本堂、山の中にある大宝寺。

 本堂は、青い銅板葺き屋根が美しく、この建物は明治時代の焼失の後、大正時代に再建され、鐘楼は2つあるが、石段を上って右側にある鐘が古いもので、左の鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、これは第2次世界大戦で亡くなった地元の英霊を供養するために建てられた。

 本堂の右側にある大宝寺の大師堂は、昭和59年に再建された比較的新しい総檜造り、宝珠寄棟銅板葺きの建物である。

 仁王門は、納経所横駐車場から参道を下った場所にあり、明治7年に焼失したため、昭和31年に再建し、内部には仁王尊を安置してある。この仁王門には大きな草鞋が吊られ、これは信者から寄進を受けたもので、門に入りきらない程の大きさである。

 この寺へは足摺岬の金剛福寺に次ぐ、約80qの長い旅路で、札掛、下坂場、ひわたの三つの大きな峠を越えるもっとも苦しい道中である。

 札所もちょうど半分。遍路には当に峠の寺でもある。久万という老女が大師と出会い、その名が地名となった久万町は、海抜490メートルの高地にあり、大宝寺の境内は樹齢数百年の杉や桧の老樹が林立していて、用明天皇の時代に、明神右京・隼と人という狩人が、この地で十一面観音を発見し安置した。

 その後、大宝元(701)年に文武天皇の勅願によって、大宝寺の創建となり、弘法大師がこの地を訪れるのは、約100年後で、大師は山中で三密の秘宝を修し、霊場と定めた。

 寺運は開けたが仁平2(1152)年に火災で焼失し、後白河天皇は保元年中(1156〜59)に病気平癒を祈願したところ成就したので、大宝寺の伽藍を再建し、勅使をたてて妹宮を住職とした。

 妹宮の死後は廟墓と五輪塔を建立して、陵権現として祀り、朝廷との縁が深く、また一般民衆の信仰も厚く、寺勢は隆盛だったが、天正の兵火に遭って全山が焼失した。

 元禄年間(1688〜1704)になると、松山藩主加藤義明や家臣の寄進があって住持の雲秀法師が再興する。

【補案内】

 古岩屋 国の名勝にも指定されている古岩屋は、空に向かつて伸びる円錐状の轢岩が20個以上あり、100m以上の巨岩は必見である。紅葉シーズンには特に賑わいを見せ、霧に霞む姿も幽玄な広がりを見せ、素晴らしい。雄大な自然の美に、思わず感激。国民宿舎古岩屋荘からも見られる。

 久万高原ふるさと旅行村 ふるさと感覚で楽しめるレジャースポットで、江戸〜明治時代の民家や土蔵を再現し、うどんやそば打ち体験ができるふるさと館などがある。また、久万高原天体観測館では、星天城でプラネタリウム上映を楽しめ、久万町の星空が一望できる展望台がある。

 

【由緒】

第四十四番札所 菅生山 大覚院 大宝寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗豊山派

開基:明神右京・隼人

所在地:愛媛県浮穴郡久万高原町菅生1173

電話:0892-21-0044

 

 四十三番明石寺からの道のりは約80km、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高四90mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。

 縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。

 ときの文武天皇(在位697?707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。

 仁平2年(1152)、全山を焼失し、直後の保元年間(1156?59)に後白河天皇(在位1155?58)が病気平癒を祈願し成就され、茲に伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。

 このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。

 その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。

 

【屁理屈】 寺は度々火災に遭う

     不審火もあれば、戦火もある

     燃える物があるから燃える

     燃やされる物があるから燃やされる

 

 

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第四十五番札所 海岸山 岩屋寺

 ここは八十八ケ所中一番の難所で、本堂へは266段の急な勾配の石段を登り、本堂は岩にへばり付くように建てられている。

 弘仁六年、弘法大師がこの地を訪れた時、怪岩奇峰の深山に、不思議な神通力をもった法華仙人と称する女がいた。この女は大師に帰依し、一山を献じて大往生をとげた。

 そこで大師は不動明王の木像と石像の二体を刻まれ、木像は本堂へ、石像は山に封じこめ、山そのものをご本尊不動明王として護摩修法され、寺号を海岸山岩屋寺と名づけた。

 それ以来修行の霊地として法灯は継承され、現存の本堂は大正九年の再建で、山麓から六百メートル、急勾配の参道を登り、道中行倒れの遍路の墓もある。

 本堂は巨大な岩石におおわれていて、岩そのものは凝灰岩だが、五十あまりそれぞれ空にそびえ、山容は奇怪そのものである。何れにも名称があり、本堂左右の岩山は胎蔵界峰、金剛界峰とよばれ、大師の行場は「迫割禅定」と称する岩山で、山項には白山権現がまつられ、昭和十九年、国の名勝地に指定されている。

 台風21号で壊れ、現在新しくなったそうである

 四国札所には、どこも本堂と大師堂がある。ところで、この寺の本堂は、大師堂から石段を三、四投下った所にあり、大師堂より小さい。それは、本尊の不動明王が二体あって、木像の方は安置してあるが、石像の方はお山に封じこんである。つまりお山全体がご本尊ということで、これが本堂の小さい理由である。

 岩峰には弘法大師の名残が数多く見受けられ、その1つの穴禅定と呼ばれる洞窟には、弘法大師自らが掘られたという「独鈷の霊水」と呼ばれる湧き水がある。

 大師堂奥の細く狭い山道を300m上ると、かつての弘法大師の修行の場・逼割禅定の入口がある。大きな岩の裂け目には木製の扉があり、普段は鍵が掛かっている。

 そのため逼割禅定に行く人は、あらかじめ寺務所で鍵を借り、ここから落ちて命を失った遍路もいるというので、足元にはくれぐれもご注意が必要。そそり立つ岩の裂け目をくぐり、鎖を頼りに約10mほど岩山を上り、さらに21段のはしごを上がれば、岩の頂上にまつられた白山権現にようやくたどり着く。上ったら下りなくてはならないので、足を滑らせると死ぬかも知れない。

 危険をともなうが、それだけに頂上からの絶景は心に残る。白山権現が祀られていて、この山全体には、七種類の霊鳥が住んでいたといわれ七鳥という地名が現在も残っている。三宝鳥、慈悲声烏、鉦鼓鳥など・・・・・・・・

 

【由緒】

第四十五番札所 海岸山 岩屋寺

本尊:不動明王

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468

電話:0892-57-0417

 

 標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。

 弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。

 大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。

 一遍上人(1239?89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。

 いつの頃からか、四十四番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に第一世の住職が晋山(住職が新たに就任する)したが、同31年(1898)に仁王門と虚空蔵堂を残し諸史料とも全山を焼失した。

 大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建され、その後、昭和2年に本堂、同9年に山門、27年鐘楼を復興、宿坊遍照閣は38年、逼割不動堂・白山権現堂は同53年にそれぞれ建立された。大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。

 

 

 

 

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第四十六番札所 医王山 浄瑠璃寺

 浄瑠璃寺の本尊は薬師如来で、この薬師如来がいる場所の名前が「浄瑠璃浄土」と呼ばれるため、寺名にもなった。こぢんまりとした境内には「仏足石」や「説法石」などが置かれ、七福神の弁天様も祀られている。

 石段を上って境内へ入ると、左側に納経處と本堂がある。本堂前には、大きい蘇鉄とイブキビャクシン(樹齢1000年)の老樹が茂り、このイブキビャクシンは天然記念物に指定されている。

現在の本堂は、天明5年(1785)に再建され、右手には、大師堂仏足石・仏手石・仏手指紋があり、仏足石では健脚・交通安全を祈願。仏手石ではあらゆる知恵や技術の祈願するという。

 そして仏手指紋では心身堅固と文筆達成を祈願でき、寺にはオリジナルのお守りも用意してる。

 浄瑠璃寺の寺号の由来は、薬師如来にある。道後温泉などで有名な松山市には八か寺の札所があり、淨瑠璃寺はその最初の札所で、山深い岩屋寺から松山市まで下りて来る。

 松山市の南部にあたるこの辺は、田舎な雰囲気の町並みで、石段を上って境内へ入ると、たくさんの樹木が生い茂っている。

 浄瑠璃寺を開基したのは行基で、和銅元(708)年に、この地を訪れた行基が薬師如来像、日光・月光の両菩薩像や十二神将像を刻んで安置したことによる。

 薬師如来のいる場所が、瑠璃光浄土ということ、室町時代に荏原城主平岡道和銅元年(708)に、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち仏教布宣のため伊予に来られたとき当地に立ち寄り、行基はこの地が仏法流布の適地であると感得し伽藍を建立した。

 元禄年間に近くで山火事があり、浄瑠璃寺も延焼し、本尊や脇仏が火災から免れたが、殆どは焼失した。寺は復興に力を注いだが、再建は難しかった。

珍しい像が有った!

 そのご尭音(僧侶の名)が復興に精魂を傾け、焼失後80年あまりを経て、見事に再建させたという。尭音はこの村の庄屋出身の僧で、本堂の前にはさすり仏の座が安置きれている。

 さすり仏は胡座をかき、左手の掌に野球のポールほどの宝珠を乗せ、赤や白のよだれかけを幾重にもかけている。

【由緒】

第四十六番札所 医王山 養珠院 浄瑠璃寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

所在地:愛媛県松山市浄瑠璃町282

電話:089-963-0279

開基:行基

 

 浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場で、参道入口の石段左に「永き日や右衛門三郎浄瑠璃寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。

 縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。

 約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。

 江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。

 堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、苦難の末に8つの橋を架けている。

 境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が、信仰を得ている。

 

 

 

 

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第四十七番札所 熊野山 八坂寺

 浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。

 本堂は、鉄筋コンクリート造の美しい建物。戦国時代の焼失以来、再興と焼失を繰り返したため、大師堂とともに近年再建され、一般参詣者も多く、本尊の阿弥陀如来は重要文化財だが、五十年に一度のご開帳のため、滅多に拝観できない。

 本堂の右奥には紀州の熊野大権現、十二社権現をまつった権現堂があり、本堂地下には黄金色に輝く千林仏が安置されていて、この寺の歴史は古い。

 大宝元(701)年伊予の国司越智玉興の創建で、文武天皇の勅願寺であったと伝えられている。創建にあたっては、八つの坂道を切り開いて寺をつくったので、八坂寺という寺号がついたという。

 その後弘仁6(815)年に弘法大師が巡錫して再興し、修験の根本道場として寺運は盛んで、紀州熊野権現や十二社権現を祀り、熊野山八王寺と称し、僧兵を置いていた頃もあるそうだ。

 本尊は座像、御丈三尺の阿弥陀如来であり、恵心憎都の作といわれていて、弘仁六年(八一五)四国を巡錫中の弘法大師が久しく留錫して、堂宇を準えて再興し四十七番札所とされた。

 それらの堂塔も天正年間の長宗我部の兵火にかかって炊失したが、その都度再建している。寺宝に鎌倉初期の石造層や宝筐院塔などがある。

大師堂

【由緒】

第四十七番札所 熊野山 妙見院 八坂寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:真言宗醍醐派

開基:役行者

所在地:愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773

電話:089-963-0271

 

 修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺で、寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697?707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさかにも由来する。

 弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定め、本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942?1017)の作と伝えられる。

 その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して、修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになり、このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。

 

だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りで、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。

 現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせていて、本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。

 

 

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第四十八番札所 清滝山 西林寺

 本堂の横には大師堂があり、反対側には持仏堂、閻魔堂、茶堂が並び、これらの堂宇は総て天平13年(741)に雨乞い祈願が成就したことで、村民が浄財を集めて建立した。また御本尊の十一面観世音菩薩は、秘仏である。

 境内には木々に囲まれた風情満点の池があり、その上に鎮座されているのが一願地蔵。このお地蔵様に祈願すると、1つだけ願いを叶えてくれるという。

 閻魔堂前の「孝行竹」に祈ると、家庭円満の願いを叶えてくれると信仰も厚い。本尊は秘仏で住職でさえその顔を滅多に見たことがないというが、一説には後ろ向きに立っているともいわれる。

 西林寺は、天平13年(741)に行基が開基し、当時、四国を旅していた行基が、伊予の国司・越智玉純に出会い、2人で語り合つた末に徳威の里に一寺を創建し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊としたのがはじまりである。

 それから約六十数年後の大同二年(807)四国を巡錫中の弘法大師がこの寺に留錫され、国司の越智宿称実勝と共に徳威の里の寺を現在地に移して四国霊場四十八番札所に定め、国家安泰を祈願する道場となされた。

 その後、寛永年間の火災で堂宇は焼失し荒廃していたのを、元禄十三年に松平隠岐守をはじめとして奉行、代官など諸役人の手によって一部再建した。

 さらにその後の常永四年に西林寺中興の祖、覚栄法印によって本堂と鐘楼の再建を見、文化十年に大師堂を建立。天保十四年には仁王門を増築した。西林寺の西南一五〇メートルに大帥遺跡の奥の院があり、大師が、「干ぱつで苦しんでいた農民を救った」という故事を内蔵している。

 

【由緒】

第四十八番札所 清滝山 安養院 西林寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:愛媛県松山市高井町1007

電話:089-975-0319

 寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれていて、「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。

 縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。

 その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留し、ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。

 この村が大旱魃のとき、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけ、寺の西南300mにある

「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。

 寛永年間(1624?44)、火災で堂塔を焼失し、元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建し、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。

 

 

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第四十九番札所 西林山 浄土寺

 唐様式の本堂は無駄がなく、美ししい佇まいの浄土寺は、伊予鉄道久米駅にほど近い山裾にある閑静な札所で、空也上人(903〜72)が、この寺で3年間滞在したと伝えられている。

 近くには空也上人の修行の場「空也谷」があり、仁王門は大正11年に建立され、阿像の仁王像は、仁王様の目が空洞になっていて、更にたくさんの草履が奉納されている。

 仁王門をくぐると石段があり、その向こうに本堂が見え、要文化財の空也上人像(昭和11年9月18日松山市指定重要文化財)がある。

 空也上人像は、上人がこの地を去る時に村人が「お姿だけでも…」と懇願したため、自らが彫ったものだそうで、像高123.4mで、胸に金鼓をかけ、右手には接木、左手には鹿杖を握っている。

 この上人像の口からは針金が出ていて、そこには6体の小さな仏像があり、これは、上人が唱えた「南無阿弥陀仏」の6文字の念仏が仏の姿になったことを意味しているとか・・・・・・。空也上人像が安置されているのは国内に2体だけ。このほかには京都の西国六波線密寺にある。

 本堂の背後は竹林で、本堂正面には奉納の水色の幕が張られている。本堂は文明16(1484)年の建築で、重要文化財に指定され、屋根は瓦葺きで唐様式の、壮重にして簡素な建物である。

 本堂と大師堂の間に大師像があり、ほかには阿弥陀掌、愛染堂などの堂宇があって、境内の偶に空也松がある。

 以前は本堂前に巨木の空也松があったらしいが、この松は枯死し、現在の空也松も葉が枯れていて、松の下には石の地蔵が2基ほど立っていて、その前には蜜柑や菊花などが供えられ、大師堂には千羽鶴や絵馬が、たくさん奉納されている。

 浄土寺は、天平年間(729〜49)に孝謙天皇(在位749〜70)の勅願によって恵明上人が創建した。このとき、行基が刻んだ釈迦如来を祀ったと伝えられ、これが本尊となっている。

後に弘法大師が訪れ霊場と定めてから、末寺七力寺を擁する大寺になった。孝謙天皇の祈願所であった頃の寺域は八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもっていたが、応永四年の兵火で焼失した。

 以来寺運は衰退、荒廃するにまかせていたのを文明十三年になって領主、河野家によって再興され、現在の本堂はそのときのもので、唐様式の代表作建物として重要文化財に指定されている。

 

 

【由緒】

第四十九番札所 西林山 三蔵院 浄土寺

本尊:釈迦如来

宗派:真言宗豊山派

所在地:愛媛県松山市鷹子町1198

電話:089-975-1730

 

 境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立ち、浄土寺は空也上人(903?72)の姿がいまに残る寺である。

 腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えると、一言一言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。

 道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。

 この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749?58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668?749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された法相宗の寺院だったという。

 のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。

 空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957?61)の3年間で、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。

 鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469?87)に領主、河野道宣公によって再建された。

 本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。

 

【屁理屈】

 寺運は平坦とは限らない

 衰退すると時の権力者が盛り立ててくれる

 そうでない場合もあるけれど

 

 

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第五十番札所 東山 繁多寺

 繁多寺は、淡路山という山の中腹にある。山門からの展望は素晴らしい。松山城や道後温泉や松山市一帯から、遠く瀬戸内海までを見渡すことができる。

 ここは、地元では「畑寺」と呼ばれている札所で、山門を入って石段を上ると、広い境内がひらけ、正面に本堂がある。丘陵の中腹だけに本堂はこんもりとした森の中にある。

 参道を歩き、本堂正面の石段を上った右手に鐘楼堂があり、石段の下には弁財天を祀った小さい池がある。天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により、行基菩薩が座像三尺の導師如来を刻み、それを本尊として開基した。

 のち弘仁年間、弘法大師が留錫して修行され、現存の山号、寺号を名付けられ四国五十番札所と定められたという。それ以来、寺運は衰退し、境内や伽藍はさびれるにまかせていたのを源頼義が再興し、弘安二年には御宇多天皇のを奉じて聞月上人が、この寺でその祈祷を行なっている。

 さらに天和の頃、龍湖という名僧が出て、徳川家の帰衣を得、四代将軍の念持仏の一つであった歓喜天を付託されて、聖天普に祀っている。

 そのように歴代の皇家の尊崇を得た証しとして、十六弁の菊の紋章瓦が残されている。繁多寺は孝謙天皇の勅願によつて、行基が薬師如来を安置して開基したと伝えられていて、当時の寺号は光明寺だったが、後に弘法大師が巡錫して繁多寺と改めたという。

 応永元(1394)年には京都泉涌寺の快翁和尚が、後小松天皇の勅命で繁多寺の住職になつた。その後は高僧が相次いで住職にあり、天和(1681〜84)の頃には名僧といわれた寵湖が入住した。 この寵湖は徳川家の帰依を得て、四代将軍家網の念持仏三体のうち、一体の歓喜天をここ繁多寺に祀ることになったという。これが、先述の歓喜天堂に祀られているものだ。

 

 将軍家の帰依を得て、寺運は隆盛になり、六十六妨と末寺百余という大寺だったと伝えられている。

 丘陵の中腹という、自然に恵まれた繁多寺。本堂や大師堂の背後には、すぐ後ろにある山の木々が迫つている。まるで、これらの樹木に境内が覆われているように感じられる。広大な寺域に、大寺の面影が偲ばれる札所である。

 薬師如来は、病気を治し安楽を得きせる仏である。左手に薬壺を持ち、右手は施無畏印か与願印の手をしている姿が多いが、統−はされていない。

 日光菩薩・月光菩薩を脇士とし、宮昆羅大将、金毘羅のことや因陀羅、帝択天などの神将たちの協力で、多くの人たちを救うために献身している。四国霊場では一番多い本尊でもある。

 

【由緒】

第五十番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:愛媛県松山市畑寺町32

電話:089-975-0910

 

 寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。

 縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749?58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。

 弘仁年間(810?24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。

 その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274?87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。

 また、時宗の開祖・一遍上人(1239?89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。

 また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382?1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。

 江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。

【屁理屈】

 四苦八苦と謂うけれど

 一番辛いのは、寝たきりで死ねないことだ!

 此を生き地獄という

 

 

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第五十一番石手寺へ