当山は弘法・智証両大師の開基で、弘法大師は、弘仁六年当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られ、かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。
次いで貞観二年十月の頃瀬戸の海上に流木出現し、光明に耀き異香四周に薫じたので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より歸朝して金倉寺に止住していた善知識円珍和尚に尋ねられた。
和尚はかの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁現はれて曰く「吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり。この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に佛堂を建て、佛法を興隆せん。かの流木は補陀洛山のさんざしなり。」 との御神託あり。乃ち流木を山中に引き入れて千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建させた。
その後、保元元年保元の乱に因り、第七十五代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館に三ヶ年後、府中皷ヶ丘木丸殿に移り六ヶ年、都合九年間配所の月日を過ごされて、長寛二年旧八月廿六日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上に荼毘し、御陵が営まれた。
然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武將も怖れ崇め奉り、御府莊園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を盡され、特に第百代の後小松帝は、御廟に「頓証寺」の御追号勅額を奉掲して、尊崇の意を表された。又仁安元年神無月の頃、歌聖西行は四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。
即ち、 松山や 浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな 西行涙を流して御返歌に よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ
と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
その他、崇徳院御笛の師参りて奉った歌、或は平大納言時忠卿御廟参の砌、奉納せられたる詩歌の序文等は本縁起に詳しく載せられている。
抑々往時は塔頭廿一ヶ坊を数へ、長日不断の勤行溪々に谺して殷盛を極めていたが、度々祝融、兵火、の災に遇うも藩侯生駒家、松平家の外護によって再建維持され、明治維新の変革を経て現況を保持している。
【由緒】
第八十一番札所 綾松山 洞林院 白峯寺
本尊:千手観世音
宗派:真言宗御室派
開基:弘法大師・智証大師
所在地:香川県坂出市青海町2635
電話:0877-47-0305
青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の5色山のうち、白峯にある静かな古刹で、弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建した。弘仁6年、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立した。
後に智証大師は、山頂できらめく光を見つけて登頂し、山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられます。
白峯という、まろやかな響きを持つこの寺には、有名な物語が2つある。「啼けばきく きけば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」これは保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇の句である。都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられた。
三年後、上皇と親しかった西行法師が詣でた話は上田秋成作「雨月物語」の伝説で有名で、その後も都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納した。また、悲話を伝える玉章木も佇んでいる。
また白峯山には心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられ、ある夕方、小僧さんが木綿豆腐を買いに出かけたところ、突然、
何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り、元の場所に立っていた。これは、夕方買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと語り継がれている。
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本堂は江戸時代、松平頼重により再建されたもので、コの字型の回廊式前堂「万体観音堂」を歩いていく形式になっている。堂内には信者が寄進した3万体余りの観音像が祀られている。
本尊の千手観音像(重要文化財)は桜材の一木造りで、33年に1度開帳される秘仏である。
大師堂は本堂へ向かう参道の右側にあり、明治から大正にかけて建てられ、お堂と参道の間には、1本の木に5色に染め分けられた葉がつくという珍しい「五色のもみじ」の木がある。
牛鬼の像は駐車場左側にある。今から400年前、この山に牛鬼という怪獣が出現し、人畜を害した。困った人々は弓の名千山田蔵人高清に退治を頼み、高清は当寺の千手観音に願をかけ、見事と牛鬼を射止めたという。
この像は、その時描かれた牛鬼の絵姿をもとにしたもので、牛鬼の角と言われるものも残っている。
本堂は白峰の名は残雪に由来し、音峰は松が多いためといわれ、弘法大師は人唐前にこの山へ登って草庵を結び、霊場としている。天長九年(832)智証大師が青峰の麓へ巡錫したとき、白髪の老翁(市之瀬明神)があらわれ「ここは観世音の霊地で三谷がある。毘沙門谷に行場を、法華渓に本堂を、後夜谷には法華三昧の道場をつくり、また、蓮華谷の香木で本尊の観世音を刻むように」と告げたと云う。
その後智証大師は青峰に登り、老僧と出会うが、この老僧は山の守護神の山王権現であったことから、山を開くにあたり、市之瀬明神と山王権現を鋳守として祀り、香木で観世音の尊像を刻んで先の老翁のいうごとく安置した。この香木の根の香りがあまりにも高いので寺名となり、また、香りが川に流れて香ることから「香川」の県名がつけられたともいう。
智証大師が伽藍を建立後盛んになり、その後幾多の変遷を経て、現存本堂への廻廊には、戦後の勧進による万体観音像が奉安されている。
【由緒】
第八十二番札所 青峰山 千手院 根香寺
本尊:千手千眼観世音
宗派:天台宗単立
開基:弘法大師・智証大師
所在地:香川県高松市中山町1506
電話:087-881-3329
根香寺は五色台の主峰、青峯山に佇ずむ、かつての巨刹、五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峯に「花蔵院」を建立した。
後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけた。
智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置した。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたと云われ、根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めた。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗された。
寺には次のような伝説がある。昔、青峯山には人間を食べる怪獣、牛鬼が棲んでいて、村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治して貰うことにした。然し、高清が山へ入れど、なかなか牛鬼が現れません。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけると、21日目の満願の暁に、牛鬼が現れたので口の中に矢を命中させた。
逃げる牛鬼を追うと2kmほど、西の定ヶ渕で屍体を発見した。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納した。その角は今でも寺に保存されていて、また牛鬼の絵は魔除けのお守りとして親しまれている。
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一宮寺は、一宮駅から5分ほどのところにある札所で、元禄14(1701)年に造立された本堂などが建ち並び。境内の中ほどに薬師如来を祀ってある石堂がある、その台座の下には地獄へ通じている穴がある。この中に頭を入れると地獄の釜音が聞こえると言う。
本堂は元禄14年(1701)に松平家によって再建され、本尊の聖観音像は弘法大師作で、本堂横の3基に石の多重塔は宝治元年1247年で江戸時代に田村神社から移されたものである。
大師堂は本堂に向かって右手にあり、お堂の中には、お守り授与所がある。
一宮寺は義淵僧正が大宝年間(701−704)創建され、当時は大宝寺であった。その後、田村神社を一国一社建立せよとの勅命に行基菩薩が創建したのが讃岐一宮の田村神社であり、寺はその別当寺となって神竜山一宮寺と改号した。
大同年間に弘法大師が来錫し、三尺五寸の立像の聖観世音菩薩を刻んで本尊とし、行基菩薩が建立した堂塔を補修、伽藍を再興、そして四国第八十三番札所と定められた。
この寺も天正年間、長宗我部の兵火に遭い焼失してし、延宝七年(1679)高松藩主・松平頼垂公によって別当職を解かれ、独立寺となつた。
◇近くの観光 栗林公園
国の特別名勝指定の大名庭園。高松藩主生駒家・松平家代々の別邸だつたもので、紫雲山を借景とした75万平方メートルの敷地に池と築山、茶室などが巧みに配置されている。
純日本式の南庭と洋式の北庭に分かれ、太鼓橋の値月橋、江戸時代に建てられた茶室の掬月亭など見所も多い。
【由緒】
第八十三番札所 神毫山 大宝院 一宮寺
本尊:聖観世音
宗派:真言宗御室派
開基:義淵僧正
所在地:香川県高松市一宮町607
電話:087-885-2301
創建は、我国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇り、開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出した。
和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名された。また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの"聖観音" 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗された。
この寺も天正の兵火により灰燼に帰したが、中興の祖とされる宥勢大徳によって再興された。また江戸時代に高松藩主により田村神社の別当を解かれ、此は神仏分離の200年も前の出来事である。
寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があり、これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがある。
一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。昔、近所で暮らす意地の悪いおタネばあさんは、「そんなことはない、試してみよう」を頭に入れると、扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭は抜けなくなりました。怖くなったおタネさんは、今までの悪事を謝りました。すると頭はすっと抜け、それからおタネさんは心を入れ替えたそうである。
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高松駅から国道11号線を徳島にむかうと屋根のような形からその名がついた屋島が見える。頂上は北嶺と南嶺に分けられ、その南嶺の中央部に屋島寺があり、屋島は有名な観光地だけに寺付近には山上水族館、旅館などがあって観光客でにぎわっている。
仁王門をくぐると四天門があり、参道の正面に朱塗りの柱が鮮やかな、国の重要文化財の本瓦葦きの本堂がある。
本堂に向かって右に大師堂があり、その手前に三体堂、千体堂があって、千体堂の前に鐘楼堂がある。鐘楼の梵鐘は、弘応2(1223)年に鋳造されたもので、僧蓮阿弥陀仏が鋳師工師宗支に造らせたという。
梵鐘も重要文化財になっていて、本堂の左には、納経所や宝物館があり、宝物館には源平盛衰記絵巻物、屋島合戦屏風、徳川家康用太刀などが展示されている。
屋島は源平合戦の舞台として広く知られ、観光地としても見るべきものが多く、屋島寺で有名な雪の庭は本堂の左にあり、白い凝灰岩が敷かれ、積雪のように見えることからその名がついた。
また四国狸の総大将、狸太三郎が祀られ、狸は夫婦仲が好いので、夫婦円満、家庭円満、縁結びの神として、信仰を集めている。
源平合戦に縁の深い寺、屋島寺は天平勝宝六年、唐の国より正式に和国に迎えられた鑑莫和上が来朝の際、訪れたのが屋島山上で、和上は山上の北嶺こそ伽藍建立の霊地なりと念誦、開基した。
その後、和上の弟子の恵雲師が登攣し、和上の開創した霊地に堂宇を建立したのが始まりで、恵雲師は第一代目の住職となった。
弘仁六年(815)には、嵯峨天皇の勅願を奉じて来錫した弘法大師は、それまで北嶺にあった伽藍を現在の南嶺に移すとともに、伽藍を現在の南嶺に造営して、中興開山の祖と仰がれた。
境内には650年ほど鎌倉時代後期に建てられた本堂があり、全身に漆を塗り金箔をおいた榧一木造りの本尊・十一面千手観世音菩薩が安置され、光背と御手は制作当初のまま残されている。
本堂と本尊は共に重要文化財に指定され、「平家供養の鐘」と呼ばれる鐘楼の釣り鐘や書院庭園「雪の庭」、弘法大師が宝珠を投げ入れた瑠璃宝池(血の池)などがあり、寺宝に平清盛寄進の鉄灯籠、土佐光信筆源平合戦図、藤原景清の守本尊である千手観世音菩薩像などがある。
宝物館には、源平合戦の遺物や宝物など、当寺に伝わる寺宝を保存・展示していて、土佐造画「屋島合戦屏風、雪舟画「滝見観音「鑑真和上肖像高松藩主松平頼重が寄進した徳川家康所持太刀など貴重なものが多く、屋島と屋島寺の歴史が窺える。
【由緒】
第八十四番札所 南面山 千光院 屋島寺
本尊:十一面千手観世音
宗派:真言宗御室派
開基:鑑真和上
所在地:香川県高松市屋島東町1808
電話:087-841-9418
屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。
屋島寺はその南嶺にあり、屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ五度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。
翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登り、そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建された。
のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。
弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809?23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。
以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれ、また山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947?57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。
現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。
本堂は鎌倉時代に造営され国指定重要文化財であるが、寺運は戦乱によって衰退する。だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築され、鎌倉・江戸時代の風格を現代に伝えている。
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五剣山 八栗寺
八栗寺へは八栗ケーブルに乗るか、車でケーブル山頂駅へ行くの二通り有る。
本堂は文禄年間に無辺上人が再建したものを、寛永19年
(1642)に松平頼重が現在の本堂に再建した。さらに宝永6年(1709〉、松平頼豊が現在地に移築・修復した。松平家の祈願寺であったため、屋根には葵の紋が入っていて、本尊の聖観世音菩薩は等身大で、弘法大師作と云われている。
大師堂は裏参道口から本堂に至る右側にあり、江戸時代、本堂などとともに再建されたもので、横には朱塗りもあざやかな多宝塔も建っている。
古戦場屋島の東、海抜375メートルの切り立つた五剣山があり、天長六年
(827)弘法大師がこの山に登って求聞寺法を修され、その満願日に空中より五柄の利剣が降り、金剛蔵王が示現、山の鎮護を告げられた。大師はその剣を山の中腹に埋め、岩盤に毘盧遮那仏の像を刻み、然る後千手観世音菩薩像を刻んで堂宇を建立し、五剣山と号した。
五剣山の名は五つの峰が剣の尖のように聳え立っていることからつけられたが、元禄十一年の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永三年
(1706)の地震で東の峰が崩れ、現在は四峰になっている。仁王門を入ると正面が本堂で、弘法大師作といわれる本尊聖観世音が安置され、寺は天長六年の創建で、当初は千手観世音の小像を安置し、千手院と称していた。
弘法大師は幼少のころよりこの山に登り、土で仏像などをつくられたが、後に求聞持法を修されているとき五柄の利剣が虚空より降ってきたので五剣山と名づけ、山項からは入ヵ国が見えるので八国寺とし、大師が人唐前に植えた八本の栗の木が、帰国後ことごとく生長繁茂していたので八栗寺に改めたという。
【由緒】
第八十五番札所 五剣山 観自在院 八栗寺
本尊:聖観世音
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:香川県高松市牟礼町牟礼3416
電話:087-845-9603
屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山がる。地上から剣を突き上げたような山で、八栗山はその8合目にあり、多くの遍路はケーブルカーで登る。 天長6年、大師がこの山に登り求聞持法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れた。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけた。
五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことが出来たので、以前は八国寺という寺名だが、延暦年中、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登った。そして仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出る筈のない焼き栗が芽吹いた。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。
この寺も長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼したが、江戸時代に無辺上人が本堂
(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになりました。五剣山は、宝永3年
(1706)に、大地震を遭い、昔は五つの嶺のうち、東の一嶺が中腹より崩壊し、現在の姿になった。
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補陀洛山 志度寺
仁王門の左右には大草履が奉納されていて、木造金剛力士像は、阿・吽とも鎌倉時代の仏師運慶作と伝えられ、県指定文化財である。
本堂は仁王門とともに讃岐藩主・松平頼重が寛文10年
(671)に寄進したもので、本尊とともに重要文化財に指定されている。本尊および両脇侍の不動明王・毘沙門天は、平安初期から中期にかけての作で檜の一木造りである。
大師堂は閻魔堂、奪衣婆堂などとともに、讃岐国主・生駒正俊が建立し、生駒公は房前を祖とする藤原北家の末裔である。
堂の背後に聳える大楠は、弘法大師お手植えと言われ、仁王門を入ると左に海女の墓がある。謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇のころ、藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願し、唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送つたが、志度の浦で龍神に奪われた。
兄の不比等は諦めきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠を取り戻し、不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて志度道場と名づけた。
後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めるのである。寺伝によれば推古天皇の三十三年に志度の浦に楠の霊木が漂着し、園子尼がこの霊木で観世音の尊像を刻みたいと念じたのがそのはじまりという。現在の本堂・仁王門は寛文十年の建立である。
五重塔は昭和五十年、大阪に出て成功した当地出身の竹野二郎氏の寄進である。
推古天皇の御代園の子尼は漂着しに霊木で十一面観音像を刻まんと腐心していると、仏帥姿の男が現れ単日に等身大の像を彫りあげ、「われは補陀落の観音なり」と告げて去った。
堂宇建立の際も閻魔王の出現があったという不思議な縁起を秘めた寺で、事を奉聞された推古天皇は当寺を勅願所に定めた。
◇山門前の常楽寺内に平賀源内のお墓があります
【由緒】
第八十六番札所 補陀落山 清浄光院 志度寺
本尊:十一面観世音
宗派:真言宗善通寺派
所在地:香川県さぬき市志度1102
電話:087-894-0086
基:藤原不比等
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺の開創は推古天皇33年
(625)、四国霊場屈指の古刹である。海洋技能集団海人族の凡園子が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられた。その息子房前の時代、持統天皇7年
(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えた。能楽の作品「海士」の舞台としても語り継がれている。
室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃し、その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興された。
志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館がある。
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志度寺から凡そ七`に88番札所がある。途次長尾の古い町並になり、寺は町中にあり、弘安六年と九年の銘のある石の経幡を拝みながら仁王門を入ると、広い境内に本堂、右に大師堂、左に護摩堂と常行堂が建ち並ぶ。
本堂は松平頼垂により建てられ、葵の紋入りの丸瓦が残っていて、本尊の聖観音像は、度々の火災にも不思議に無事で、秘仏として祀られている。松平頼垂はこの本尊を、讃岐国の主な観音像7体の中でも随一だとして、「當國七観音随一」と指定した。
経幢(坂東編参照)は、写経を埋めた上に立てるもので、仁王門前に左右一対で立っている。東側のものには「弘安九年五月」、西側のものには「弘安六年七月」の銘があり、元寇の役の犠牲者のために立てられたものと見られていて、重要文化財である。
静御前剃髪塚は、静御前が当寺で得度した際、剃髪した髪を埋めたという塚で、静は母の磯野禅尼と共に得度した後、近くに庵を結び、義経形見の薬師如来を安置した。
堂宇の建設は天平十一年(七三九)この地に来錫した行基菩薩は霊夢を感じ、道端の楊柳で聖観世音菩薩像を刻み、小堂を建てて祀って安置した事から始まる。その後、唐の国へ渡られる前、当寺を訪れた弘法大師は求法を祈願、帰朝後は堂宇を建て、大日経を一石に一字ずつ書き写して万霊の供養塔を建立し、年頭七夜の護摩秘法を厳修され、その祈札を衆生に与えたといわれている。
天長二年に伽藍が整備され、永仁六年には伏見天皇の勅により開廃法要がなされた。兵火により堂宇は焼失したが、慶長年間、領主生駒一正の援助で再建され、天和元年松平頼垂公は堂塔を建立し、田畑を寄進し讃岐七観音の一つに定めると共に天台宗に改宗させている。
【由緒】
第八十七番札所 補陀落山 観音院 長尾寺
本尊:聖観世音
宗派:天台宗
開基:行基
所在地:香川県さぬき市長尾西653
電話:0879-52-2041
明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供された寺で、地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれている。
開創は聖徳太子という説もあるが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的で、行基がこの地の道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊として安置し、法相宗を開基した。
その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願した。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されているす。
唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗した。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺だが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰し、江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備した。その時に天台宗に改めている。
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結願の寺、八十八番大窪寺を打つ。弘法大師との「同行二人」の旅がここでいよいよ終わるのだ。寺には、ここまで訪れることができた遍路が奉納した菅笠や金剛杖などが残されている。長い道のりを、無事にお参りできたことを感謝する。
次は、第1番札所へお礼参りして、若しくは高野山参りをして、それから第1番札所へお参りして結願です。
この寺は礼堂と中殿、多宝塔のような奥殿から成り、本尊と三国伝来の錫杖は奥殿に祀られ、本尊はホラ貝を持った珍しい姿の薬師如来で、このホラ貝ですべての厄難諸病を吹き払うという。
大師堂は本堂手前から石段を登った所にあるが、堂内へは地下の内拝口から入る。内部には八十八カ所の本尊が総て祀られ、八十八カ所のお砂踏みもできる。
境内には、結願したお遍路さんが奉納した金剛杖や菅笠が大量に置かれていて、此は88の札所を無事に巡り終えたことの証で、これらの奉納は毎年春分の日と8月20日に催される柴灯護摩供で焚き上げられる。
大窪寺は養老年間(717〜24)に、行基が開基したと伝えられ、その後巡錫した弘法大師が、奥の院の岩窟で求聞持法の修法をして、薬師如来を刻んで安置して、一堂を建立したという。
この時大師が唐の恵果阿闍梨から授かった三国(インド、唐、日本)伝来の錫杖を納め、山の窪地に寺を建てたことから、大窪寺という寺号になったと伝えられている。
錫杖は本尊と一緒に祀られていて、その後多くの尊信を集め、寺観も整備されて、僧坊百を有して、さらには女性の入山を許したので「女人高野」として寺は栄えた。
だが天正の兵火で焼失し、一時は寺勢も衰えていたが、松平頼重が寺領を寄進して再興した。二代目藩主松平頼常も、元禄時代に本堂や仁天門の修築を行っている。
然し明治33年の失火で堂宇を焼失し、現在の建物はその後に再建したものだという。諸堂は山腹に囲まれ、実際に窪地という印象で、本堂や大師堂は山の樹木に覆われている。
【由緒】
第八十八番札所 医王山 遍照光院 大窪寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗大覚寺派
開基:行基
所在地:香川県さぬき市多和兼割96
電話:0879-56-2278
八十八ヶ所結願の霊場「大窪寺」は、徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置する。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われる。
弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立し、等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とした。
また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めた。
本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があり、大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられ、その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくない。
この寺は女性の入山が、早くから認められ、女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていた。しかし天正の兵火や明治33年の火災などで寺勢は苦難を繰り返している。
しかし高松藩主の庇護や歴代住職の尽力により興隆し、結願聖地の法灯を守り続けている。
「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂へ奉納され、これらは毎年春夏の「柴灯護摩供」で供養される。
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空海は、最澄
(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧で、著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。
空海は宝亀5年
(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といい、10代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に入って修行した。延暦23年
(804年)、留学生として唐に渡航し、長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年
(816年)で、空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
【由緒】
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
寺格 総本山
本尊 阿?如来
創建年 弘仁7年
(816年)開基 空海
中興年 長和5年
(1016年)中興 定誉
正式名 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
札所等 真言宗十八本山18番
西国三十三所特別札所
神仏霊場巡拝の道 第13番
文化財 不動堂、仏涅槃図ほか
(国宝)大門、絹本著色大日如来像ほか
(重要文化財)所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山132
世界遺産
空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年
(816年)のことで、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されていて、空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡
(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会い、狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野
(和歌山県かつらぎ町)で土地の神である丹生明神が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。
高野山では狩場明神
(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇している。丹生明神と狩場明神は丹生都比売神社に祀られている。金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。
高野山を賜った空海は、翌年から弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらず、空海の在世中に完成した堂宇はごく僅かで、無論、当時の建築物は現存していない。
空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備し、その後、京都の東寺との確執もあり、正暦5年
(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。荒廃した高野山は、長和5年
(1016年)頃から、定誉によって再興された。治安3年(1023年)には藤原道長が参詣し、平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになり、彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだという。
戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った織田信長と対立するようになり、天正9年
(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し、要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山はなんとか存続することができた。
後に秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺
(総本山金剛峯寺の前身)を建てた。近世に入ると、徳川家が高野山を菩提所と定めたこともあり、諸大名を始め多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。
全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。昭和21年(1946年)からは高野山真言宗を名乗っている。
総勢11名、何事も無く全行程を回り終えました。掲載写真はその都度努めて撮影したのですが、編集するに当たって順番通りに回っていなかったので、どれがどのお寺かゴチャゴチャに成って判別が出来なくなって仕舞いました。
反省しきり!です。だが草臥れてもう一度往く気はしません!
完
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