前置き

 著者は宗教学者でもなければ、哲学を修めた訳でもない。依って神が有るとか無いとか、その様な難しい事は解らない。

 著者はただ仏前には手を合わせ冥福を祈り、神前には日々の感謝を為し、お願い事をする凡夫である。

 興味有ることは先ずは尋ねる事にしている!と謂うより、尋ねることが好きなのかも知れない。

 偶々行った神社でも、取り留めのないことを神職さんに尋ねる。神職さんが居られるのは大きな神社だが、神職さんはみなさん、御祭神の奉仕者、参拝者への奉仕者と謂われた。

この言葉が脳裏に有ったので、小さな神社と大きな神社では、管理などは諸々異なるだろうが、御祭神の本質は異ならないと思え、著者の認識は差ほど間違いでは無さそうなので筆を執った。

 然し“人”にとって純真な心は必要だが、現実の社会では全員が純真とは限らない!と謂うことも知らねばなるまい。

 殆どの人は鳥居を潜ると心が洗われるが、心が洗われないで、幾多の良からぬ根性を、其の儘にする“ひと”も少なからずは居る。

 現実にそんな場所でも、賽銭泥棒や御祭礼を稼ぎ場にする掏摸もいるし、良からぬ相談をしているかも知れない。

 現実の社会には、清らかな空間も、濁り腐った空間もあるので、何れの空間に身を委ねるかは、各々の判断によるが、ただ言えることは、清らかな“ひと”には清らかな“人”が集まり、濁った“ひと”には濁った“人”が集まると謂う現実もある。

 神社は御祭神を祭る民衆と、御祭神のお世話をする神職と、鳥居や神殿など諸施設が配置された神域で構成される。

 大きな神社では常任の神職が、小さな神社では臨時の神職や氏子が、各々の分に応じて、祭りと称する行事を行っている。

 神社で行われているお祭りに、神社自体が行う祭りと、氏子崇敬者の依頼に基づき行われる祭りがある。

 神社自体が行う祭りには、その軽重によって大祭、中祭、小祭、諸祭に分けられ、大祭には例祭や祈年祭、新嘗祭のほか、神社のご鎮座に関わるお祭りが、中祭は歳旦祭、元始祭、紀元祭、神嘗奉祝祭・・・・・・・・などがある。

 氏子崇敬者の依頼に基づき行われる祭りは、入学・卒業や就職や人生の節目に関わる報告祭、祈願祭などが挙げられ、神社によっては諸祭として行われる。

 また家内安全や商売繁盛、安産、病気平癒、厄除けなどの諸祈願、さらにはお宮参りや七五三参りなどもこれにあたる。

 何れも御祭神に神饌を捧げて饗応を行い、神様に喜んで戴き、祝詞を奏上して神様のご神徳を頂き、天下、地域の安寧と発展、更には願い事をする氏子崇敬者の繁栄を祈るのである。

 御祭神に対応する神職には、長年に亘って培われた、身支度と立ち居振る舞いがある。

 神道の基本は、天地の有形無形を問はず、感謝する“ひと”の(民衆の)心と、尊敬の念と、長年に亘って培われた身支度と立ち居振る舞いで、御祭神にお仕えする神職とに依って構成され、これらの行為は御祭神の神秘を具現化するための方途とも言える。

 

 

第一章 概説

 

 

1−1 感謝と崇敬と神秘

 “ひと”には感謝の心と崇敬(尊敬)の心があり、その対象に對して神秘の念を懐く。

 これらの念を懐く身近な存在として、いま茲に居られる貴方自身が挙げられる。貴方は“ひと”であり、“ひと”は地球上に棲息する莫大な生物の一種で、生物にとって最も重要な要件は「種(生命)の継承(種が絶えないこと)」である。

 地球上に生物が誕生してから、僅か40億年しか経ていないが、その僅かな歳月の間に、幾多の生物が誕生と絶滅を繰り返し、人類もその一端を占めているに過ぎない。

 人類が地球上に棲息していられるのは、地球上の環境が偶々棲息に適していたからに外ならず、生息環境が変われば、人類が滅亡することは当然あり得る事である。

 依ってこの地球上で、人類が特別な存在ではなく、幾多の生物と互に争い、共に存する関係である。ただ身の回りに限れば、現在では殆どの動植物に對して、生殺与奪を恣にしているが、この力関係は、何時崩れるかは判らない。

 生物には崩壊(自滅・被捕食・病死・・・・・なと)と、寿命(耐用年数)に依る絶命があり、個体の生命が尽きる前に複製を作って、次代に継承させなければ、種は其の時点で絶えて仕舞う。

 

 

【注】 地球上に生息する生物種の総数は、概ね870萬種と謂われ、「ヒト」は870萬分の1種に相当する存在である。神道の思想は謙虚に多くの生物との共生を基本とし、決して支配する横暴な存在ではない。

 

 有史以来でも、膨大な数の種が継承出来ずに絶滅し、更にこれから先、種の継承が危ぶまれる絶滅危惧種も膨大である。

 生命の誕生が40億年前、人類の誕生は400万年前(何れの数値も諸説有り)と云われており、貴方が此処に生存すると云うことは、膨大な歳月に亘って生命の継承が為された結果である。

 生物にとって最も重要な要件は、個体が絶命する前に新たな個体に引き継ぐことで、即ち継承を為すのに最も重要な要件は、個体の複製を産み出すことに尽きる。

 “ひと”の場合、次代を担う個体の複製を誕生させる(生命を誕生)能力があるのは女性(雌)で、“人”は種の継承能力を有す女性に對し、古来より感謝と崇敬の念を抱いていた。

 

 

“ひと”が地球上で生きて行くには、生命誕生の他にも、日々生きて行く上で幾多の恩恵を受け、感謝すべき事柄は多多ある。

 この感謝と崇敬の念(心に思うこと)を基軸に、“ひと”から“人”へ、更に民衆から社会へ、更に国家へと、多年に亘り遭遇した幾多諸々の感謝と崇敬の念を累積して現在に至る。

【屁理屈】

 この事は古代の古墳から女性像が多く出土している事からも窺える

【補解】

 日本の神様は、女性(女神)が多い。この事は古来より女性が崇敬されていた証で、恐らく“ひと”が獣だった頃からの事であろう。

【註】

 著者は当事者一人の場合と、複数の場合を区別した。

 “ひと”は当事者一人を謂う。

 “ひと”が複数集まると“人”となる

 “人”が更に集まれば、“民衆”となり

 “民衆”が更に集まれば、“社会”となり

 更には“国家”となり、併せて“民族”ともなる

 “民族”は“国家”に収まる場合もあれば、“国家”を跨ぐ場合もある

 

 貴方が此処に居ると云うことは、貴方の先代(生命体としての先祖)は、今に到るまで幾多の艱難に遭遇したにも関わらず、辛うじて命脈を維持できた結果に外ならない。

 幾多の艱難とは、自然災害と食物網の被捕食と自己崩壊・・・・・等があり、これらから漸くに命脈を保った個体は、次いで繁殖に依り次代への継承が為せるのである。

 この事は生命の誕生から現在まで、変わることのない現実で、更に“ひと”の女性(雌)が子孫を誕生させて、種の絶滅を回避(命脈を保つ)しているからこそ、人類の家族や民衆や社会や国家・・・・・は成り立つのである。

【屁理屈】

 夏祭りや秋祭りの行事は、祭神の名の下に、御祭神の名を借りて、互にみんなで感謝や崇敬の情を共有している姿と云える。

 人生で何が愉しいかと云えば、食べて歌って踊って○○して居るときが、理屈抜きで愉しい時だろう。

 

 

 

1−2 穢れ無き純真な心

 日本人にとっての「神」は、“ひと”の棲息に併せて、“人”の生活と共にあり、総ては“人”によって誕生させられた。

 “ひと”の気持ちには、感謝と忌避と希望と崇敬の四っがありこの気持ちは各々“ひと”の胸中にあり、眼に見えるものではない。

 多くの日本人は、古来より便宜を与えてくれた“事象”に對して、純真な心で感謝し、不利益を蒙った“事象”に對して、純真な心で忌避し、便宜を与えて呉れるであろう“事象”に對して、純真な心でお願いし、そして其れ等に崇敬(尊敬)の念を懐いていた。

 この心情は現在でも変わっては居ない。

 だがこれは、“ひと”(個人的な)の心の問題で、眼には見えないし、それら“事象”には、名前もなければ像もない。ただ当事者独りの胸中に宿るだけである。

 山麓での生活に例えれば、山には樹木が繁茂し、落葉から滲み出た肥沃な水は、山裾の田畑を潤し、落葉は堆肥となって果樹や水稲や蔬菜に豊富な稔を齎す。

 

 肥沃な水はやがて海にいたり、山に近い海は豊富な魚介を育み、漁民は山の恵みに感謝するであろう。また漁民は大海原で遥かに山の頂を見付け、歸途を探るであろう。

 手を合わせるかどうかは知らぬが、沿岸漁民が山の恵みを受けていることは確かである。

 山の恵みを受けるのは“ひと”ばかりではない。山には幾多の獣と草木と、菌類が生活し、樹木や菌類は常に崩壊と再生を繰り返し、山に恵を与え且つ恵みを受けている。

 山から受ける恵みは、目に見える物事だけではない。春の芽吹には生命の息吹を感じ、夏には濃緑に心躍らせ、秋には鮮やかな紅葉に感歎し、散り行くものの哀れを感じ・・・・・澱みがちな胸懐を洗ってくれる。これらも山の恵みと謂えるだろう。

 

 純真な強い心で、感謝と尊敬の念を懐くと、胸中に精霊が生まれる。

【屁理屈】 精霊とは

 “ひと”が心に思うことは常日頃の事なので、其れを敢えて取り立てるほどのこともない。然し強い思いの場合は、心に印象深く残り、その後の人生に、良くも悪くも影響を及ぼす。

 この様な経験は誰にでも有り、今でもその思いを胸に秘めている“ひと”は枚挙に暇がないほど多い。

 子供の頃の母の言葉、小学生の時の先生の言葉・・・・・・・恐らく死ぬまで棲み着いている事だろう。この様に心に長く留まるような思いを、通常の思いとは区別して、殊に「精霊」と名付けたのである。

 

 山に降った雨は、砂礫や土や落ち葉に蓄えられ、更には草木の幹や葉にも蓄えられて、自然のダムと成って、一気に大量の雨水が山裾に流れ出なくする。因って山裾の集落は降雨から守られ、安穏な生活が享受出来るのである。

 これは、森林が降雨から山麓を守ってくれる恵みの一つだが、“人”が樹木を伐採すれば、森林の保水や緑が減少し、雨水が山麓に一気に流れ出て“人”の生活圏に多大な損害を及ぼす。

 “人”の都合で山を削り谷を埋め、獣や多くの植物や菌類の住まいを奪うなど、山を軽んじた結果としての、鉄砲水や土石流の災禍は枚挙に暇がない。

 山を粗末に扱った行為が、結果として鉄砲水を引き起こし、集落を押し流し、或いは崖崩れを起こし、人命を失う端緒と成る。

 山の恐ろしさを見せつけられ、誰でも、こんなとにはなって欲しくないと思うはずである。

 “人”は災禍を蒙ってから、“人”の傲慢を悟り、山に對して“勘弁ね! 勘弁ね!”と、手を合わす。

 山を含めた自然界は、常に成長と崩壊を繰り返していて、その時間的なスパンが、“人”の時間感覚と比べて桁違いに長いので、差ほど意識されない傾向にある。(今は自然を軽視する人も多い)

 山は“人”が忘れた頃に噴火を起こし、山麓に甚大な被害を与え、或いは小規模な崩壊によって登山者が被災することもある。

 “人”は山に對して、暴れないでください!と懇願する。

 即ちその思いが、山には精霊が宿るなどと神秘化し、山を恐ろしい忌避する神として誕生させる。

 山を神様として祭り上げたのは、“ひと”の思いである。

 

 純真な強い心で、忌避の念を懐くと、胸中に精霊が生まれる。

【屁理屈】

 嫌な思いは何時になっても忘れない!

 愉しかった思いは何時になっても忘れない!

 

 山には雲が懸かり雨を降らせる。山に降った雨は山裾に多くの恵を与え、雲は山裾にも降雨をもたらし田畑を潤す。

 晴天が欲しいときには晴天が続き、乾燥させる風が欲しいときには乾燥した風が吹く。

 “人”はその降雨に合わせて種を蒔き、晴天に合わせて干し物を為し、乾燥した山風に依って産物を乾燥させる。

 山麓の民は、山の気候を上手く利用して(付き合って)、生活をしているのである。

 だが何時もこの様に好都合になるとは限らない。日照りが続いたり、長雨が続いたり・・・・・・・、大雪が降ったり、山に翻弄されることも希ではない。

 “ひと”は空を仰いで、雨よ降ってくれ!山に向かって、雲を払ってくれ!寒風はもう止めてくれ!

 あれやこれやとお願い事は多い。

 

純真な強い心で、尊敬と願望の念を懐くと、胸中に精霊が生まれる。

 

 “人”に便宜を与えてくれるのは、海や山や川や太陽ばかりではない。鞴も竈もトイレも飛行機も鉄道も・・・・・・などの道具も“人”に便宜を与えて呉れるので、“人”の感謝や忌避や願望の対象となり、既に神様に成っている。

 同様に、生き物も牛や馬や狗や猫や蚯蚓や蛙や・・・・・・探したら際限がないほどの動物も、“人”の感謝や忌避や願望の対象となり、既に神様として祭られている。

 

 

植物では稲や芋や麦や牡丹・・・・・・・など“人”に便宜を与えそうな、腹を満たす食料も、心を和らげる花も、“人”の感謝や忌避や願望の対象となり、既に多くの植物が、神様として祭られている。

(長野県 蚯蚓神社 下に転がっている朱い頭の棒がご神体のミミズ)

 

【屁理屈】

 日本全国を捜すと、牛馬は無論のこと、蛙や蚯蚓や飛行機や機械なども祀った神社がある。

 

 当然ながら“ひと”も神様に祭られる対象で、便宜を与えた人物は、職人も軍人も政治家も文人も、芸人も、探し出したら際限がない。

 “人”に感謝の念を抱かれるのは、日本人でも外国人でも、その区別はなく、外国人なのに、日本人に便宜を与えた!として、神様になっている人もいる。

【屁理屈】

 著者にもアドバイスしてくれる人が居た!ずっと死なないで欲しかった!心の支えで居て欲しかった!

 だけど現実は厳しい!何れかが必ず死亡するか忘れてしまう。

忘れてしまうと、その時の思いは消え失せてしまう

 

 

京都府 飛行神社本社 香川県仲多度郡まんのう町 飛行神社分社

 飛行機神社 二宮忠八は1891年(明治24年 ライト兄弟の飛行機より16年前)に日本で初めて動力つき飛行実験に成功したものの、人を乗せることができる飛行機をライト兄弟が実現したことを知り、飛行機開発から離れる。

 

 この仕事が出来るのは、○○さんのお陰だ!と、伝え聞いて、その見ず知らずの人を神様として祭っている神社もある。

 

 

 

1−3 精霊が生まれるには

 “貴方”がが純真な強い心で、有り難う!と感謝と尊敬の念を懐けば、其の時に貴方の心の中に、先方様の精霊は生まれる。

 “ひと”が純真な強い心で、恐ろしいから止めて!と忌避の念を抱けば、其の時に貴方の心の中に先方様の精霊は生まれる。

 “ひと”が純真な強い心で、頼んでみよう!と願望の念を抱けば、其の時に、貴方の心の中に先方様の精霊は生まれる。

 精霊とは何者か?

 簡単に言えば、先方様の事を思う心である。依って貴方が先方様を忘れない限り、何時まででも貴方の心の中に先方様を思う心は生き続ける。

 常日頃そんなことは幾らでもあることなので、取り立てて考えなければ、何もないことと同じかも知れない。

 然し、思う心が純真で強烈なら、それは其れで、人の心として価値あるものなので、その純真で強烈な思いを、敢えて具象化し「精霊」と名付けた。

 勿論、先方様がご存命なら、実在の先方様と先方様の精霊と、両方が居られることとなる。依って貴方は実在の先方様にも会えるし、貴方の心の中にお住まいの先方様(先方様の精霊)にも会えるのである。

 貴方の心の中で具象化され誕生した精霊は、時空を超越した存在として、貴方が先方様を忘れない限り、思いを寄せた時の儘に、永遠に生き続けるのである。

【屁理屈】

 此処までは、男女の仲でも起こりうる事である。真剣に強い思いを寄せる双方なら、お互いに相手を思う心に依って、男性(女性)の心の中に女性(男性)が棲み着くのである。そして、その姿は、思いを寄せたときの年齢の儘で、例えば女性(男性)が70歳になったとしても、心に宿す女性(男性)は25歳の儘である。

 そして、お互いが心を寄せ合った地は東京だったのだが、彼(彼女)が九州に居ても、即座に彼女(彼氏)に逢えるのである。

 即ち此をして、精霊は時空を超越している!と云う。そしてお互いに相手を忘れない限り、何時までも心の中に住み続け、死ぬまで住み続けることも珍しいことではない!

 此は精霊が誕生した!精霊を宿した!などに置き換えても、全く不都合な話ではない。

 ただ御祭神と違うのは、一般的には思いを寄せる人数の多少であって、幾多の民衆から思いを寄せられた女性(男性)なら、御祭神に成っても不思議ではあるまい。

 

 男女の仲ならいざ知らず、“ひと”は沢山の“人”と関わりを持ち、沢山の“ひと”から恩恵を受ける。そして一生の中には殊に強く印象づけられる思いも幾つかは存在する。

 依って一人の“ひと”が、幾つかの精霊を宿し、更に日本中の人が精霊を生むので、八百万の精霊が居られる訳である。

 だがこの精霊は、“ひと”の心の中に居るだけで、先方様の名前は有るのだが、精霊としての名前もないし姿もない。ただ“ひと”の心の中に居るだけである。

【屁理屈】

 貴方がもし、強く純真な心で

 “あの人(A氏)はいい人だなあ!・・・・”と思ったとき、貴方の胸中には、“あの人(A氏)はいい人だなあ!・・・・”と謂う思いが産まれた。

 その思いには、姿も形もないにも拘わらず、心の中には、確実に何者かが住んで居るのです。

 貴方の心を温かくしてくれるのです。

 この、「姿も形も無いのに、確実に心の中には住んでいる・・・」、此を精霊と謂うのです。

 貴方は、胸中の姿も形もない(A氏の)精霊に対して、感謝の念を懐いたり、尊敬の念を抱いたりもします。

 さて実を謂うと、貴方の胸に精霊となって住まわれた彼(A氏)は、未だ元気溌剌として現世に居られるのです。依って、処処万端を直接ご本人に頼み込む事も出来ます。

 でも、ご本人(A氏)がお亡くなりに成った後はどうするのですか?

幸いにも、貴方が彼のことを忘れない限り、貴方の胸中に彼の精霊はお住まいだから、彼の精霊に頼み事をしてみましょう!

 幸いにも貴方の胸中にお住まいの彼(A氏)の精霊は、時空を超越した存在なので、老い耄れもしませんし、何処にいても立刻に駆けつけてくれます。

 こんなにも面倒見の良い彼(A氏)の精霊なら、孫子の代まで居着いて欲しいものです。だけど貴方は何時かは死んでしまいます。貴方が死んでしまえば、貴方の心と共に、彼の精霊も消滅してしまうのです。

 精霊は、忘れない限り消滅しないのですから、忘れないようにすればよいのです。こんなにも面倒見の良い精霊を消滅させるのは勿体ないことです。だから、祠を建てて、御祭神となって戴き、みんなでお参りすれば、誰も忘れませんから、御祭神はずっと生き続けてくれるのです。