第四章 神道各論

4−1 神道と民衆

 純真な人人が心に秘めた尊敬と感謝の表れが、神霊で、御祭神であり、御祭神と対面する施設が神社で、神道と云われる。

 御祭神を信奉する人人は、個個自立の生き方しており、誰彼にその生き方や信条を指図され、批評される立場ではない。

 強いて云うならば、神道を信奉する一人一人が、自分自身の思想をもつ教祖であるとも云える。

 巷間、神道には教義がない!と云う者が居ると聞くが、神道には教義など立ち入る余地はないのである。

 

 神社は誰にでも建てられますか?

 

 神社の上部組織は有りますが、組織の一員に成るか成らないかは別として、建てていけないと謂う制約はありません。

【注】宗教法人として公的な地位を確立するには、それ相当の制約は  有ります。

 依って犬小屋ほどの社なら日本中に数え切れないほど有ります。ただ新たな御祭神を祀って、社を造っても、同調者がいなければ、寂しい限りです。依ってその多くは、既存の神社の許可を得て、その子か孫か曾孫の神社を造ることが多いようです。

 

 氏子には成れますか

 

 氏子は公的な組織では無く、思想を同じにする個人的な組織です。ですからその神社の氏子達が、仲間に入れる事を許可すれば、思想を同じくする氏子として仲間に入れます。

 氏子は無償奉仕を原則としていますから、無償奉仕の実績がなければ、仲間には入れて貰えないでしょう。

 

4−2 神道系

 だが多年の歳月を経れば、神道系新興宗教団体として、新たに教義を称える宗教者や団体が出て来る。

 また、古来の威儀を称え、我が祀る○○神社は、多くの神社を統括する神社で有る!との論を称える者(吉田神道)も居たが、明治維新を経て消滅し、現在ではその様な神社は無いと聞く。

 また、山岳信仰や個人が興した宗教も幾つかあり、神道の分類に収まってはいるが、これは分類の為せる事で、新たな宗教項目を作って、其処に収めるべきである。

【補解】

 神(神道の祭神ではない)や佛に心を寄せる“ひと”を信者と云うが、この場合は既に神や佛を頂点とする思想(教義)が有って、その思想を踏襲する“ひと”を云う。例えばキリスト教は、キリストの思想を踏襲し、仏教は釈尊の思想を踏襲する者を云う。

 神道では、抑も祭神を祀ると言う行為は、祭神を祀る“ひと”が祭神の名を借りて、自己の純真な思いを具現化する行為で、思想の主は、祭神でもあり、祭神を祀る“人”でもある。

 依って一般に祭神の名を借りて自己の思いを具現化する“ひと”を「氏子」と云い、氏子は創始者の一員で有る。

 各々の氏子は、祭神に対する尊敬と感謝の気持ちは皆同じだが、他のことは皆それぞれで、同じではない。

 

4−3 感謝と尊敬する心

 この世の中に、此が一つと云える物事は全くない。普段人生でぶつかる問題に、抑も正解などは無く、取り敢えずの答えが有るだけである。

 個人の心も多心で、夫婦然り、親子然り、家族然り、近隣然り、社会然り、国家然りである。然しほぼ共通の意思を保有できるのは、妥協する心があるからである。(多元論的)

 ただ己丈でなく、他に對しても、心を同じくする物事はあり、其れは、個個それぞれに事柄は異なっても、便宜を与えてくれた物事に対して感謝と尊敬の心を持つことである。

 (思想を異にする場合には、この文言も妥当とは限らない)

 感謝と尊敬の心は自分の心も、相手の心も豊かにするのである。

 

 この感謝と尊敬の心こそが神道の基本理念と云える。

 

4−4 日本での神様

 日本では、家の中には屋敷神様や、竈神様が居り、泥棒除けの神様や座敷童子という神様も居られる。外に出れば道端には道祖神があり、祠や神社が沢山ある。

【屁理屈】

 新興の都会地には寺院や神社が無いところも多く、新築の家には仏壇も神棚も無い。

 誰の助けも借りずポンと生まれて、誰の助けも借りずにこの歳になったのですか?心が穢れる事はないのですか?

 時時心をリセットして、日々諸々に感謝の気持ちを表現する場所として、神棚は最低限必要な施設でしょう。

 神棚で何を祈るのか?

 感謝と尊敬の気持ちでしょう。

 どんな気持ちで祈るのか?

 其れはご自分の穢れ無き真心でしょう。

 誰に祈るのか?

 生んでくれた母親でしょう。

 育ててくれた父母でしょう。

 愛してくれる妻でしょう。

 健康に育ってくれる子孫でしょう。

 ご自分で、感謝すべきと思う対象を、胸中に祀れば宜しいでしよう!

 日々程々に過ごせるのは、国家の安泰が有るからですね!

 他にも感謝と尊敬を為すべき対象は沢山あると思います。

 

 日本人は日頃、本来別個の対象なのに、神様と仏様をゴッチャにして神様仏様と謂い、それをごく普通に受け入れていて、これが日本人の、八百万の神々の存在を前提とする宗教感覚である。

 神道には特定の教義はない。強いて云えば、自分の良心と同じである。

 依って一億人の氏子(祭神に對して感謝と崇敬の心を同じにする“ひと”)がいれば、一億の思想がある宗教と言える。

 私は氏子ではない!と云う“ひと”が居るかも知れないが、殆どの日本人は新年に神社でお参りをする。旅先でも神前で手を合わせる。外国人観光客も、神社で手を合わせるかも知れない。

 手を合わせる行為は、純真な心で御祭神に挨拶をしている事で、純真な心で御祭神に挨拶をする・・、この行為そのものが、御祭神と心を同じくする!と云うことに外ならない。依って貴方はすでに、祭神に對して感謝と崇敬の心を同じにする“ひと”である。

 お賽銭を供える!お守りを授かる!広い意味で云えば、既に神社運営費の一端を賄っている。

 

 自然界や人間界には、“ひと”に恩恵を成す諸々がある。“ひと”はそれらに對して純真な心で尊敬と感謝の情を懐く。

精霊      貴方には世話になるなあ! 有り難う!と、“ひ        と”が真剣に思った。思った途端に精霊が生ま        れた。

氏子      感謝と尊敬の心を同じくする“ひと”が複数集ま        って、氏子と成った。氏子とは精霊を祭神に任        命した人達で、御祭神に対する崇敬と感謝の情        を同じくする仲間である

祭神      氏子が精霊に、祭神に成って下さいと、お頼み        した。精霊は氏子の意向で祭神に成った。

社      御祭神の普段お住まいで謁見場所である

分社      御祭神を私達の處でもお祀りしたいと云う氏子        が出て来たので、御祭神は分身の術を使って、        分身を其方の社に派遣した。

神職      御祭神のお世話を成し、氏子や民衆の要望を        御祭神に伝える役職

参拝者     御祭神に崇敬と感謝を成し、御祭神に加護をお        願いする民衆

年齢      精霊は時空を超越した存在で、30歳で精霊に        成られれば、精霊が御祭神に成られたのだから、        御祭神は1000年経っても、30歳の若さである。

 

 著者を含めた一般民衆は、日常生活の中では、葬式を為し香を焚き、神社では日々の感謝を為し、ありったけのお願いをする。

 時には、お願い事を全部叶えて呉れますように!など、虫の好いお願いをすることもある。

 日本にある宗教は、外来(仏教以外にも沢山あるが、普及程度は仏教と比較し著しく少ない)の仏教と、在来の神道がある。

 仏教と神道は互に異なる宗教なので、宗教の併立は考えにくいが、殆どの日本民衆は何の違和感もなく、併立(混用と言えるかも知れぬ) している。

 何故かと言えば、多くの日本人は、神道以外の他宗教に對しても、御祭神を崇敬する姿勢と同じように、本来持ち合わせている自分たちの思想で取捨選択して対応している。

 先方の教義はその都度取捨選択し、自分の思想に叶もの丈を取り入れて居るので、神道以外の宗教に没頭して仕舞うことは無い。

 

4−5 神社成立の経緯

 とある處に小高い山があり、山裾には里人が暮らしていた。

 ある人は山で猟をし、

 ある人は山で山菜を採り

 ある人は薪を集め

 里では山からの水で水田を作り稲作をする

 畑では野菜を作り果樹を植える

 

 里人は山から数え切れないほどの恩恵を受けていた

 山は里人に多くの恩恵を齎が、災難ももたらした

 大雨が降ると鉄砲水となって人家を壊し、田畑を荒らした

 

 里人は山に對して尊敬と感謝をすると同時に、暴れないでくれ!と、お祈もした。

 里人は山を擬人化して、○山の神と云った。

 

 

 擬人化すると山に對して、人間界の習俗を流用し、供え物をする。

 供え物をしても山の神が食べるけではないので、気持ちだけで、神様からのお裾分け!と称して、里人が総て食した。

 里人は山の神に對して、崇敬はするが頼み事もする。

 里人は山の神を自分の都合に合わせて、色々と利用した。

 村人は集会場を兼ねて、社を建てた。

 社を建てるには、御祭神を決めなければならない。ただ此処の山の神様!と謂うよりは、何時の世でも言えることだが、それなりの由緒ある御祭神に着任して貰う方が馴染みやすく、自分達も納得しやすい。依って知恵者が、例えば日本書紀に登場する人物のうち、此処の実情に相応しい人物を探して御祭神に祭り上げた。

 勿論民衆から尊敬され感謝された精霊が居られる場合には、祠を建ててお祀りしようとの発議がある。でも新しい御祭神なので補佐役を付けようという事となり、自分達の思想に相応しい既にある神社の御祭神の分身を戴いて、御祭神に加える場合が多い。依って同じ御祭神を祀る神社が複数有ることになる。

 そして社は氏子が建てた御祭神との会話の場となった。年数と共に氏子(感謝の思いを同じくする人)の数も増えたので、氏子が資金を出し合って御祭神専用の社を建てた。

 御祭神との関わりが多くなって、氏子だけでは対応できなくなったので、神職さんを頼んだ。

 

 

 

4−6 御祭神との対話

 神様は沢山居ます。民衆が、この山は崇敬できるなあ!この川は崇敬できるなあ!この人は崇敬できるなあ!と思ったら、手を合わせて崇敬の念を表します。この神様は○○に功績が有ったから、頼んでみよう!と思ったら、民衆は神様に頼み事をします。神道では、民衆が神様を撰んで崇敬し、撰んで頼み事をするのです。

 

 素人が勝手に頼むより、頼み事が上手な“人”に代わって貰った方が効果的です。この頼み上手な“人”が神職さんです。

 

 御札は御祭神の分身で、御祭神も頼み人が多いと多忙なので、分身の術を使って、沢山の分身を誕生させた。

 分身は小柄と雖も、能力はご本尊様と同じで、而も何時も願い人に寄り添っているので、きめ細かに願いを叶えることが出来、何と都合の良いサービスでは有りませんか・・・・・

 御祭神と雖も崇敬の念を懐かれる方々ばかりとは限りません。

 大悪者も居ます。彼奴は大悪だったから、死んだ後でも安心できない。兎に角祭り上げて、静にして貰おう。大悪でも利用価値は有るもので、色々な頼み事を引き受けてくれる。

【屁理屈】

 なまじ生前功績を挙げると、民衆に祭り上げられ、死んでからも頼み事が多くなり、却って忙しくなる!

 

 神道の神様は自分から好きこのんで御祭神に成った訳ではなく、民衆(氏子)が勝手に祭り上げてしまったのである。でも氏子の願い事を優先するような、小さな根性では有りません。何方に對しても分け隔てはないのである。

 神社で、御祭神に話を聴いて貰うには、諸々の経費が掛かります。それは神職さんの手間賃とか、社の管理費とか、お願い事の御札とか・・・・・・、其処で、お願い事を神職さんに取り次いで貰うときにも、経費の負担をお願いすることとなるのである。

 お願い事の御札を授かるにも、皺くしゃ爺さんより若い女の子の方が、参拝者受けも好いので、若い女性が担当する。

 何しろ神道の神様は、何事に依らず滅びるのは好きではないので、出来るならお元気な方が宜しいのである。

【屁理屈】

 神道の御祭神は、神様になる前は元気いっぱいの人間だった訳ですから、当然と言えば当然である。

【屁理屈】

 生きているときの人は、食物連鎖の頂点にあって、遣りたい放題の殺戮をしていた。怨まれるなら、際限なく怨まれて当然である。

 其れなのに宗教や民族によっては、自分の怨みだけは相手が死んでも、孫子の代までも持ち続けると言う!余りにも身勝手ではないのか!

 殆どの日本人は身勝手ではないから、相手が死んでしまえば相手への恩義だけを残して、怨みは総て帳消しにする。自分も又死んでしまえば怨まれなくなる!

 死ねば生きていたときの怨みは帳消しに成る!のは、この事が根底にあるのだろう!

 

 

 

4−7 教義

 仏教では、釈尊が考え出した思想(教義)があり、キリスト教には、キリストが考え出した思想(教義)があり、○○教には、○○が考え出した思想(教義)があ。

 布教とは、この思想(教義)を創出した個人に留めず、多人数に広めようとする行為で、布教に関わる集団を教団と謂い、この思想の創出者を教祖と云う。この思想を広める役目を担う人員をキリスト教では宣教師と謂い、仏教では僧侶と云う。

 見方を換えれば、この思想が既に広範の知るところであれば、布教の必要もなく、依って教祖の必要もない。

 少なくとも日本人には、物事に尊敬と感謝をすると云う気持ちは定着しているので、敢えてこの思想を広める必要がなく、神社には布教を担当する人員は居ない。

 更に言い足せば、布教活動を為すと云うことは、その思想が民衆に広まっていない!と云う一面でもある。

【屁理屈】

 “人”が知っていると云っても、其れには程度がある。全部と云うことは有り得ない事で、何処まで知っているのか?

 常識というが、此も同じ様なことで、ほんの一場面を掠めた丈で、殆どを知っていると勘違いをしていることが殆どである。

 依って共通の認識とか、共通の常識と云う言葉はあるが、実態は無いに均しい。報道などで、公平・客観・中立を標榜する報道も有るが、何処に公平が有るのか、何処が客観なのか、何処が中立なのか、所詮そんなことは有り得ないのである。

 

【屁理屈】

 苦と楽と・・・希望は必ずしも叶えられるとは限らない。この叶えられるとは限らないことこそが、通常の現実で、“ひと”が現実を現実と認める限り、四苦八苦などという苦悩は成立しない。

 四苦八苦は、現実の世界と、希望する世界とに、幾分かの乖離があるときに成立し、言い換えれば、現実の世界と、希望する世界とが、同じであれば四苦八苦は成立しない。

 乖離が有るか?無いか?は、自分以外には判断が出来ない事で、自分が現実と希望が異なると思えば、四苦八苦が芽生え、自分が現実と希望が同じと思えば、四苦八苦は芽生えない。

 四苦八苦の要件を探ると、その根底には未経験への恐れがある。

 何事でも経験したことが無ければ、総てが未経験である。

 経験は一瞬一瞬の積み重だが、これから先は総てが未経験か?と謂えば、殆どは経験済みである。

 

【屁理屈】

 抑も朝顔の蔓のように、一本の根から伸びた蔓草が、一本の棒に巻き付き花を咲かせた形態を、思想面から云えば、一元論的とも云え、キリストやイスラム教も同じ類である。

 それに対してカボチャの蔓のように、一本の根から出た蔓は、四方八方に蔓を伸ばし、蔓の彼方此方から根を生やし、少しずつは独立はしているが、一本の蔓草で、雄花雌花は彼方此方と咲き、ちゃんとカボチャの実を付ける。この様な形態は多元論的で、神道は此に当たる。