第五章 御祭神にご挨拶

5−1 鳥居を潜る

 神社には鳥居が有り、建物があり、・・・・・・・配置がある。これらは一朝一夕に成り立った訳ではない。長い歳月を経て少しずつ改良に改良を重ね、現在の有様に成ったのである。

 今の世の中には、諸々な事があって、穢れ無き空間とは言い難い。これを俗界と云おう。

【屁理屈】

 穢れ無き空間は有るのか?と尋ねられれば、趣味に没頭する“人”は少し頭を突っ込んでいるのかな!秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

【屁理屈】

 言い訳をすると自分の気は休まるが、何も変わっていない

 

(鳥居には幾つかの形状があり、この鳥居は明神鳥居)

 穢れ無き空間は有るのか?と問われれば、深山幽谷はどうかな?と思うのだが、おいそれと深山幽谷に往くことも出来ない。

 

(神社に限らず家庭でも使われる一般的な前垂れ注連縄)

 現代技術3次元映像で深山幽谷を映し出しても、目が深山幽谷に居るだけで、心は俗界を離れることは出来ない。俗から離れるには、身は俗界に居ても、心が俗界から離れれば良い。

 ところが、さほど捜さなくとも

 身近に心が俗界から離れる空間が有った。

 それは、神社で有る。

 清浄な空間と俗な空間との境に、鳥居と云う門がある。鳥居を潜ると、何となく真面目な自分になる。純真な自分になる。

 これこそ鳥居の不可思議な力である。

 鳥居を潜るまでは、邪な心だった著者も、鳥居を潜った途端に穢れ無き純真な心になってしまう!なんと不思議な門だろう。

【屁理屈】

 だが此も全員とは云えない。賽銭泥棒はいるし雑踏に紛れて掏摸をする者もいる。此が現実の世の中というものだが、だからといって諦めてはいけない。そんな悪さをする人はほんの僅かなのだから!

 

 御祭神に対面するのだから、穢れない心で無ければならないのに!と心配するまでもなく・・・・・、鳥居を潜った途端に純真な心に成ってしまうとは、凄い門だ!不可思議な門だ!

 門を潜って少し進むと、手を洗うところがある。鳥居を潜って、心の穢れは除けたけれど、手と足は俗界の儘。

 心の穢れを落としたら、次は身体の穢れを落とそう。聞くところに依ると、水浴びをするところも有るそうだが、身近な神社では、それ程大それた事はしていない。

 

 

 現在多くの神社には、四つ足で屋根の架かった手水舎と云う水を張った手を洗い口を漱ぐ場所があり、其処には柄杓が置いてあり、手と口を洗えるように成っている。

 これで、心と手と口の穢れを落としたので、愈御祭神にご挨拶をしよう。

 多くの社殿は高床式なので、入り口は少し高いところにある。数段の階段を登ると、正面に、賽銭箱と鈴が付いた紐が下がっている。

 御祭神には銭金は要らないが、神社を管理するには、お金が掛かる。因って管理費用の一部を賽銭箱に入れる。

 カランカランと鳴らして、自分が来たことを御祭神に告げる。まずはお礼を言おう!次いで要件を云おう!

 其れも普段使っている言葉で事足りる。

 日本の標準語でも方言でも良い。

 外国人なら、英語でもフランス語でも中国語でも韓国語でも・・・・・・・何でも良い。

 御祭神に挨拶なさるのも、普段近所で挨拶するのも、さしたる変わりはない。

 余所様を訪ねるときは、汚れた手では失礼なので、手は洗うだろう。

 口臭が酷くても失礼なので口は漱ぐでしょう。

 玄関に着いたらピンポンを鳴らすでしょう。

 開口一番、今日は! 昨日はご馳走様でした! この間はお世話になりました!・・・・・・・・必ず以前のお礼を言うでしょう。

 其れから、尋ねてきた趣旨を話すでしょう。

 言葉も、普段使っている言葉で話すでしょう。

 

5−2 穢れ無き心でご挨拶

 神社でのお参りも、近所の家への訪問も、全く同じである。ただ俗世での訪問と、御祭神への参拝とでは、異なるところがある。

 俗世では、時と場合によっては恨み辛みや算盤勘定も有るが、御祭神への参拝では、総ての行動が純真な穢れ無き心で無ければならず、恨み辛みや算盤勘定は御法度である。

 

 神輿を担ぐ若衆と、其れを見物する老若男女、誰も彼もみな純真な心である。

 新年にお参りする老若男女、誰も彼もみな純真で、御祭神に関わるときは、誰も彼も心はみな純真で有る!

 水浴びする御輿

 

新年参拝

 御祭神に参拝するときは、必ず真心で無ければ成らない。因って、御祭神に参拝すれば、俗世で汚れ付いた穢れた心が、参拝した途端に、純真な心にリセットされる。

 心が純真にリセットされれば、今まで持っていた穢れた思いが、消え去るのである。

 

 誰しも少しは、怨みや妬みや怒りや自惚れや・・・・・などの情を持っていると思うが、此の情は自分の心を傷つけるだけでなく、周囲の“ひと”の心も傷つける。

 同様に誰しも、歓びや感謝や尊敬や・・・・・・などの思いを持っていると思うが、此の情は自分の心を豊にするばかりでなく、周囲の“ひと”の心も豊にする。

 

 鳥居を潜り御祭神に対面し、怨みや妬みや怒りの情を総て捨て去れば、自分の心が傷つくこともなく、周囲の“ひと”の心を傷つける事もなくなる。

 同様に鳥居を潜りご神前に対面し歓びや感謝の思いを心に満たせば、此の感謝や歓びの情は自分の心を豊にするばかりでなく、周囲の“ひと”の心も豊にする。

 これで、心が明るくなり前向きに成らぬ筈はない。

 自宅の神棚で御祭神に、真心でご挨拶をすれば、その穢れ無き心は暫くは続く。

 町内の神社で御祭神に、真心でご挨拶をすれば、その穢れ無き心は暫くは続く。

 近くの神社で御祭神に、真心で新年のご挨拶をすれば、その穢れ無き心は暫くは続く。

 

5−3 女性の愛情

 “人”社会を突き詰めれば、男(雄)と女(雌)しか居ない。於是神秘としか云いようがないが、人類の存亡は女性に係っている事は確かな現実である。

 この事は“人”が獣だった頃から古代へ、それから現代に到るも全く変わっては居ない。惟は紛れもない事実で、古代社会に祀られた御祭神にも女性は多いのは、女性は尊敬されていたからである。

 

 

木花咲耶姫

 伊耶那美命 伊邪那岐命 

 

天鈿女命

 神社の由来から女性の御祭神を捜したら大勢居られたが、手元にお姿が有った神様だけ載せた

 

 この世の中は、女性の愛情に因って成り立っていて、女性が家族と関わる思いに、算盤勘定は全くない。

 女性は我が子の生命の爲ならば、自分の生命を投げ出しても良い!と云うほどの愛情を持っている。

 その愛情は我が子ばかりではない。夫にも親にも社会にも、女性の心は愛情を根幹にして居ると云っても過言ではあるまい。

 古来幾千年変わることのない御祭神を祀る神道の歴史は、無償の愛に感謝する民衆の心を具現化したものであるとも謂える。

 

 幸せは愛と感謝と尊敬の心から生まれ、財物からは生まれない。

【屁理屈】

 “ひと”が存在を確認しているこの現実は、幾つかある認識の一場面である!とも言える。

 其れには二つあり、大部分の人が認識する場面と、極めて少数の人が認識する場面がある。

 大部分の人が認識する場面とは、総ての“ひと”とは言えないが、殆ど総ての“ひと”が現実の場面として認識している場面である。此は神道の普遍性に通じる。

 次いで極めて少数の人が認識する場面がある。此は大多数の“ひと”から見れば、虚構と判断される。

 虚構の場面で、仮定を述べれば、虚構の虚構で、實構に成るかと云えば、その様には成らないのに、實構と勘違いをする。

 更に深い虚構へと進んでゆくのである。即ち虚構の虚構は更に深い虚構となるのだが、往々“ひと”は虚の虚は実と勘違いし、戻ることが難しい虚構の認識に填り込む結果と成りかねない。此は○神教に通じる。