第9日目

 飛行機の中で紀行を整理してみよう。ヨーロッパと聞くと日本より文化の進んだ國との認識だったが、この二國に限っては期待ほどではなかった。近世の植民地政策による膨大な利潤使途の一端を垣間みた様な気がする。

 宗教と政治と庶民との関わりの一面を見た。政治は宗教を利用し、宗教は政治を利用した。庶民は政治と宗教に翻弄された。

 森林がなければ雨が降らない。雨が降らなければ農作物が出来ない。農作物が出来なければ土地を酷使する。酷使すれば雨は降らない。この悪循環がなぜ数千年ものあいだ放置されてきたのか。

 なぜ強大な権力と財力がありながら、政治も宗教も目先の事ばかりに奔走して、この世に生を受けた多くの生き物のことを考えてやらなかったのか?

 慈悲を説く宗教に慈悲の心が無かったのか?自分の足下の大地を大切に慈しむことに心を注がなかったのか?人は萬物の霊長などと云う奢り高ぶった精神が、この様な荒廃を招いたのでしょう。

 今からでも遅くはありません。国土の半分に何の役にも立たない(人の役には立たないが多くの生命の役に立つ)実のなる樹を植えて百年放置(キリストが2000年放置した年数と比べれぱごく僅かである)してご覧なさい。(樹木の育つことはオリーブ畑で実証済み)そこは小動物の住処となり、今迄寄せ付けて貰えなかった多くの生命が宿ることとなります。

 土地は肥え五風十雨美味しい作物が沢山取れるようになります。(林が有れば水が蓄えられることは、ポルトガルでの水たまりで実証済み)今の面積が半分になっても収量が2倍になれば、収益は今以上になるのです。あのバサバサで牛馬もNOと云う(牛馬に外麦と内麦を与えると、内麦の方を選んで食べる)穀類と、虫も不味くてそっぽを向く野菜や果菜や果物などなど皆過去のものとなります。

 話は逸れるが、外国人が日本人に対して、信仰心がないと云う言葉を時折聞くが、宗教の本旨に慈悲心が有ると云うのなら、無信仰云々を云う人たちより遥かに日本人の方が慈悲の心が豊富である。日本人なら誰でも、森や林には多くの動物や沢山の虫が住んで居る事を知って知る。

 都会地では住宅事情も有るけれど、郊外では犬や猫や小家畜は、ただ好きだからと云う理由だけで沢山飼われている。ごく一部のペット愛好者を除けば、殆どの人は家畜に対して主従や上下の意識は持っていない。家畜の側もその様な意識はないようで、「引っ張り犬」が実に多い。

 犬猫に限らず日本人は多くの生物に対して主従や上下の意識は持っていないし、自分たちと同等の生き物だと思って居る。だから、無闇に捕らえて殺したり巣を荒らしたりはしない。ましてやスペインの闘牛のように観衆の面前で虐待し、ついには殺戮するなどは以ての外である。