【由緒】

 第二十六番 万松山円融寺[岩井堂]

埼玉県秩父市下影森348

宗派=臨済宗建長寺派

札所本尊=聖観音

開山=恵心僧都

開創年代=不詳

 

 現在、第二十六番と称している円融寺は、宗猷大光(1508年寂)が創建した。それが、いつのころか札所観音の管理に乗り出して、江戸時代には別当寺となっていた。

 今では奥の院とされている山頂近くにある観音堂が、長享二年(1488)当時に第六番札所だった岩井堂である。

 別当の円融寺本堂は、間口八間の大きな建物で、札所本尊の他、鎌倉時代の作とされる勝軍地蔵を祀る。また、堂内には、明和五年(1764)奉納の鳥山石燕筆「景清牢破り」の額や、安永五年(1775)石燕の門人十三歳石中女筆と記された紫式部の石山秋月の絵馬などが掲げられている。

 円融寺から昭和電工工場の敷地を通って、太子堂の左から石段を登ると、仁王門の跡や、小庵が建てられるぐらいの空地がある。

 岩洞を背にした観音堂は、懸崖造の美しい建築で、札所本尊は管理の都合のため円融寺の本堂に移されているが、現在も多くの巡礼が参拝している。

 縁起によると、弘法大師が当地に巡錫して、岩の上に護摩壇を設け、二十一日間修法したとされ、後に、恵心僧都が霊異を感じ、里人とともに堂宇を建立して、自作の観音像を安置した。

 さらに、秩父太郎重弘は、この観音を篤く信仰して堂舎を再建、代々の子孫が崇拝した。また、仏国禅師は、当地の閑寂を愛して、禅定に入ったとされる。

 弘法大師の護摩壇石や、仏国禅師の坐禅石などが、山内に現存し、正徳四年(1714)の銘がある銅造聖観音坐像や、天狗を祀る祠などもあって、江戸時代から変わらない姿を留めている。

 

和讃

 

 

 たずねいり むすぶしみずの いわいどう

 こころのあかを すすがぬはなし

 

御朱印

 

 

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第十二日

平成25年3月15日(金)

第二十七番札所 龍河山大淵寺 [月影堂]

第二十八番札所 石龍山橋立寺

途次

 武蔵野線を使っても首都圏内だと謂われて、それならちょっとの間なら安心だろう!と勝手な言い訳を付けて、上野駅から高崎線で行くことにした。

 秩父巡礼もあと数回で達成されるから、950円払って普通グリーン車に乗っていけば大分楽である。実を謂うと第11日(前回)から往復共に普通グリーン車を利用したのである。

 此までは熊谷駅に到着すると、先ず構内売店で、オーイお茶とお握りと肉まんを買った。悠長に食堂で食事をする時間が惜しくて、やむなく車中で昼食を済ませた。

 上野経由で来ると大分時間が短縮されて、熊谷駅ではオーイお茶だけにして、巡礼当地で昼食をする余裕が出来た。

 27番への案内板

 

 今日は熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えて、影森駅で下車し、自動車道を秩父方向へ二丁ほど行くと左側に目指す27番大淵寺がある。

大淵寺門前石柱

 

 

 大淵寺の石柱の右側には、駐車場があり、左側には商店がある。

 真っ直ぐ進めば寺の門前に到る。

大淵寺門前

 手前から石柱、寺門、寺門の屋根辺りの高さに本堂、その上の樹木の途切れ凹んだ辺りに、護国観音像がある。

 門を潜ると急な石段が続き、既に市街は暖かいというのに、石段の脇には未だ残雪がある。

護国観音像登り口

 

 

石段を登り切ると正面に本堂がある。本堂脇の木木の切れ間から護国観音像が望める。

 狭い境内には、案内板と佛足?がある。

 

護国観音像

 

 護国観音 身の丈は五丈    本堂脇に掲げられた

 昭和10年開眼 絵額

 左手で掲げているのは劒

 

【屁理屈】

 人生は一瞬先のことは判らない。

 判らないのに、先のことを当てにする。

 

【由緒】

 第二十七番 龍河山大淵寺[月影堂]

埼玉県秩父市上影森411

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=宝明

開創年代=不詳

 

 第二十六番岩井堂から、琴平ハイキングコースと名付けられた尾根づたいの道が続いており、小さなピークを越すと、高さ十五メートルの大観音像が現れる。

 秩父第七番法長寺の町田兼義住職によって、昭和十年(1935)に開眼された、コンクリートの護国観音である。高崎、大船とともに、関東の三大観音といわれている。

 長享二年(1488)当時、第七番札所で「大圓菴」と記され、旧地の特定はできていないが、この山の中腹にあって、風景が清らかで美しいため、月影堂と呼ばれていたという。

 江戸時代末期に、別当の大淵寺境内に移築。大正八年(1919)汽車の煤煙がもとで本堂とともに焼失し、その後は本堂に札所本尊を安置していたが、平成八年(1996)に月影堂が再建された。

 別当の大淵寺は、下吉田村清泉寺の六世長山賢道(1616年寂)によって創建、または中興された曹洞宗寺院である。

 縁起によると、昔、当地は霊場が多いところなので、宝明という回国の僧が、七年間留まった。ところが、思わぬ足の病のため、歩くこともできなくなり、ただ祈念するのみの日々が続いていた。

 そこに弘法大師が巡錫してきて、回国できない宝明のために、観音像を刻んで与えた。歓喜した宝明は、一人で拝むものではないとして、里人とともに堂宇を建立したという。

 山門の前を流れる細い溝は、影森用水の跡で、安政四年(1857)水源が不足して苦しむ村人のため、名主の関田宗太郎が私財を投げうって築いた水路で、周辺の田畑の開墾に利用された。

 

和讃

 

 なつやまや しげきがもとの つゆまでも

 こころへだてぬ つきのかげもり

 

御朱印

 

 

 

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往事

 第二十八番石龍山橋立寺へ行くには27番大淵寺から、一旦国道140号へ出て秩父方面へ向かい、鍾乳洞の案内道標に従って進むと、28番橋立て寺に辿り着いた。

 半里ぐらい歩いた気がするが・・・・・・、熊に注意の看板があった。

 

 

 

 橋立鍾乳洞はの橋立寺の手前に有ったので、橋立寺へ行くには鍾乳洞の案内板を通り過ぎて先に進む。

 隧道を通ると殺風景な駐車場に出る。付近は昨今の不景気のせいか、既に人気のない茶店と売店のみである。

石龍山橋立寺全景

 

 

辛うじて庫裏にはお人が居られた。

 前方には覆い被さるような断崖絶壁があり、その真下に本堂と庫裏がある。

 

 

 寺の脇を望むと斯くの如く、人家から離れている様子が歴然。

 営業中の看板は有るが、何方も居ません。お店のご主人は、中々の器用人で、欅の間伐材で創った鹿や猪が幾つもあった。

 

 奥の院は鍾乳洞内に有るそうだが、付近に人気がないので、立ち寄らなかった。

 

【屁理屈】

 人間社会では金銭を払えば、財貨的な欲望と生活の欲望は手に入れることは出来る。

 然し物事の本質に逼る欲望は手に入れることは出来ない。

 物事の本質に逼る欲望を手にするには、修養以外に方法はない。

 

 

【由緒】

 第二十八番 石龍山橋立寺

埼玉県秩父市上影森675

宗派=曹洞宗

札所本尊=馬頭観音

開山=弘法大師

開創年代=不詳

 

 境内に入ると、高さ二十丈の切り立った大岩壁が迫ってくる。その下部は、えぐれた形になっていて、およそ十二万年前の古代人の住居跡とされており、岩陰遺跡と呼ばれている。

 朱塗りの観音堂は、この大岩壁の下に建っていて、本尊の馬頭観音は、随身像とともに鎌倉時代の作である。

(馬頭観世音と謂われていたので堂内を覗いたが、堂内安置の仏様が馬頭観世音なのか?著者には判らなかった)

 また、本尊に由来して、観音堂の右の小堂には、左甚五郎作と伝えられる馬の像が納められており、観音堂脇には馬の銅像も立てられている。

 『秩父回覧記』によると、弘法大師は高野山にいたころ、わが国には必ず金胎両部の浄土があるはずだと考えていた。ある日、金色の老人が現れて、「秩父の橋立という山に行くように」と告げた。

 さっそく当地に来たところ、再び老人が現れ、その案内で岩洞のなかに入ると、金胎の諸仏の姿を感得することができた。大師は、この地こそが金胎両部の浄土だと感じ、馬頭観音を刻んで、堂宇を建立したという。

 縁起に現れる岩洞は、橋立鍾乳洞と呼ばれており、当寺の奥の院になっている。長さ六十間余あり、古くから胎内巡りと称して、西から入って東へ抜けるコースをとる。

 洞のなかには、鍾乳石や石筍、石柱があって、大黒、弁天、仁王の足などの名前がつけられている。

 橋立観音は、修験者によって創建されたと推定され、長享二年(1488)では、第八番札所だった。江戸時代には、大宮郷の本山派修験である今宮坊の持堂とされており、明治の修験道禁止まで、修験者が管理し続けた札所である。

 

和讃

 

 

 きりのうみ たちかさなるは くものなみ

 たぐいあらじと わたるはしだて

御朱印

 

 

 

 

 

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第十三日

平成25年3月19日(火)

第二十九番札所 笹戸山長泉院 [石札堂]

第三十番札所  瑞龍山法雲寺 [深谷寺]

往路

 既に平成25年2月21日(木)に、31・32・33・34を巡拝しているので、秩父三十四ヶ寺巡拝は、今回で畢業する。

 上野から高崎線に乗れば、熊ヶ谷まで乗り換え無しで来られる。乗り換え時間が短縮されたので早めに着いた。熊谷駅ではお握りを買わず秩父鉄道に乗った。

 三峰口の四つ手前の浦山口駅で下車し、国道140号線へ出て、途中秩父鉄道の跨線橋を渡り三峯方面へ向かう。

 

 浦山口駅を出てから29番長泉院までは約半里。道標に従って進むと寺の紅い幟があるので直ぐに分かる。

 

 

 入り口の両側に石仏が祀られ、左側に古木の枝垂れ桜が覆い被さっている。この景観は有名で、観光案内にも載っている。

 枝垂れ桜の下の石畳は正面の本堂に続いて、石畳の端にはビニールシートに掩われた、恐らく睡蓮で有ろう水瓶が並ぶ。

写真は本堂左側にある観音堂

本堂正面

 

本堂側面の千社札と絵額

 

境内の景観

 それ程珍しい物でもないのに、寺域で見ると何となく感銘を受ける。杉に寄生したした宿り木と銀杏の樹を低く刈り込んだ生垣。

 

 

寺の境内から撮影した入り口にある枝垂れ桜の古木。観光パンフレットの写真にもなった由。

【由緒】

 第二十九番 笹戸山長泉院[石札堂]

埼玉県秩父郡荒川村上田野557

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=慈恵大師

開創年代=不詳

 

 現在では、敬翁性遒(1571年寂)が創建した別当の長泉院本堂に、札所本尊が安置されている。長享二年(1488)当時、第九番札所だった笹戸観音は、長泉院の南方にある笹戸山の山頂に近い岩壁の下にあって、懸崖造の観音堂が建っていた。

 しかし、『松本家御用日記』によると、寛保三年(1743)正月の野火のため類焼し、堂地の岩山が焼き崩れて再建が困難なため、現在地に移されたという。

 『秩父回覧記』に記された縁起では、夜中光を放って『観音経』を読誦していた杉の霊木で、慈恵大師が観音像を刻んで安置したとされる。

 また、『秩父三十四所観音霊験円通伝』によると、凡僧とは見えない巡礼十余人が、麓の里人をともなってこの山に登り、岩洞の口に茂った小笹を押し開くと、なかに慈恵大師作の観音像が祀られ、その上の巨岩を開くと金色の阿弥陀如来が坐していた。

 里人は、堂宇を建立して観音を安置し、阿弥陀如来を奥の院の本尊としたという。

 巡礼十余人は、秩父巡礼開創十三権者を指すと思われる。十三権者の一人、播磨国書写山の性空上人は、文暦元年(1234)秩父巡礼開創の折、その記念として当寺に石札を納めたという。本尊の前には、その時のものとされる黒色長方形の石が安置されており、石札堂とも称している。

 文字の読み方には諸説があるが、「石札定置巡礼」とするのが一般的である。

 本堂正面の欄間には、咲き誇る桜を描いた『法楽和歌』の板額を掲げていて、葛飾北斎が『北斎燈火』の下図に描いたものとされ、文化八年(1811)と記されている。

和讃

 

 

 

わけのぼり

むすぶささのと

おしひらき

ほとけをおがむ

みこそたのもし

御朱印

 

 

 

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往路

 熊谷駅に到着したと、未だ早かったので、偶には食堂で食べようと思い、昼飯のお握りを買わなかった。

 依って未だ昼飯に有り付いていないので、取り敢えず浦山口まで戻ることにした。都合良く秩父行の電車が来たので、昼食を取るために「三峰口」まで行った。

 三峰駅前で昼食に有り付いた。巡拝に来て13日、食堂での昼食は3度目である。

 三十番法雲寺は三峰口の一手前の「白久」駅の近く、約十丁、徒歩二十分の處にある。

 秩父盆地の平地のドン詰まりが三峰口なので、一つ手前の駅とは謂え既に山は直ぐ傍まで迫っている。

 

 駐車場は右手にあるが、寺は直進した右手にある。

 

 

 

 案内看板に従って直進すると、道は二手に分かれ、そのまま直進すると少し先で道は途絶えていて、寺は右手の少し高まったところにある。

 

 

 寺に向かって更に進むと「三十番入り口」の石標が立つ。

 

 

 寺に向かって進むと、石段の道と自動車用の道の並列となり、無論石段を踏みしめて登った。

30寺院境内

 

 石段を登ると寺の境内に入り、登り初めて三十尺以上も高台なのに、清水を張った池があり、橋が架かり築山があり・・・・・付近とは趣を異にした別世界である。

本堂

 石段の正面には観音堂があり、築山を右に回り込むと本堂と庫裏がある。

 

 

 

 

 築山の先に本堂がある。

 

本堂と其れに続く庫裏

 

 

 駅から僅か二十分程の處なのに、既に深い山の中である。

 境内から望む市街の景観

 

 帰途市街を見下ろすと霞みに翳んでいた。

 

【由緒】

 第三十番 瑞龍山法雲寺[深谷寺]

埼玉県秩父郡荒川村白久432

宗派=臨済宗建長寺派

札所本尊=如意輪観音

開山=道隠禅師

開創年代=元応元年(1319)

 

 刈り込みが美しい境内に、観音堂(本堂)が建っている。現在では山裾に境内を有するが、『新編武蔵風土記稿』には、奥院と称する岩穴が山中にあった。

 この岩穴に観音像を祀ったと思われ、第十番札所とされた『長享二年秩父観音札所番付』では、深谷寺と呼ばれていた。深谷という地は、谷津川沿いに熊倉山への登山口にあたるが、その途中の七ツ滝には今も不動尊が祀られている。

 熊倉山は、秩父三山の一つ三峰山に連なっており、修験者によって深谷の岩穴に札所観音が奉祀されたと推定される。

 別当の法雲寺は十五世紀の創建とされ、釈迦如来を本尊としていた。江戸時代に入ると、金仙寺の末寺となり、深谷寺の管理権を獲得して観音堂を建立した。札所観音を境内に引き入れ、現在では札所本尊が法雲寺の本尊となっている。

 縁起によると、玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うため制作し、不空三蔵が開眼供養した如意輪観音を、宋僧の霊山道隠禅師が請来。元応元年(1319)に、当地に草庵を建てて、安置したという。縁起に由来する楊貴妃の鏡や、天狗の爪、龍の骨などの寺宝が、現在も伝わっている。

 これらの寺宝とともに、享禄四年(1531)から天文二十四年(1555)までの巡礼札が六枚、観音堂に展示されている。

 なかでも、天文五年(1536)に奥州葛西住赤荻伊豆守平清定が納めた札には、「西国坂東秩父百ケ所順礼只一人」と記されており、秩父が三十三所から三十四所になった年代を知る上で貴重な資料である。

 

【屁理屈】

 若いときは、少し背伸びをする

 年老いてからは、一歩引く

 年寄りが背伸び過ぎると腰砕けになる

和讃

 

 

 

 いっしんに なむかんのんと となうれば

 じひふかたにの ちかいたのもし

 

御朱印

 

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神先頭へ戻る八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

秩父観音霊家道徳場巡礼板東観音巡礼四国霊場巡礼神社参拝人生社会国

第三十一番 鷲窟山 観音院へ