
四国八十八霊場巡礼
徳島県(阿波)の霊場 発心の道場 1番札所から23番札所
高知県(土佐)の霊場 修行の道場 24番札所から39番札所
愛媛県(伊予)の霊場 菩提の道場 40番札所から68番札所
香川県(讃岐)の霊場 涅槃の道場 69番札所から88番札所
高野山 金剛峯寺
【注】
88霊場巡礼の記事は、巡拝の際に収集した観光案内や寺院案内、寺院縁起などを、ほぼそのまま転記したものです。
記事には誤謬や虚構(現実には存在しない物事)も記されています。記事を信ずるか否かは、ご自分の責に因ります。
徳島県(阿波) 1〜23 発心の道場

| 第1番 竺和山 霊山寺 第2番 日照山 極楽寺 第3番 亀光山 金泉寺 第4番 黒厳山 大日寺 第5番 無尽山 地蔵寺 第6番 温泉山 安楽寺 第7番 光明山 十楽寺 第8番 普明山 熊谷寺 第9番 正覚山 法輪寺 第10番 得度山 潅頂院 |
第13番 大栗山 大日寺 第14番 盛寿山 常楽寺 第15番 薬王山 国分寺 第16番 光耀山 観音寺 第17番 瑠璃山 井戸寺 第18番 母養山 恩山寺 第19番 橋池山 立江寺 第20番 霊鷲山 鶴林寺 第21番 舎心山 太龍寺 第22番 白水山 平等寺 |
| 第11番 金剛山 藤井寺 | 第23番 医王山 薬王寺 |
| 第12番 摩盧山 焼山寺 |
☆ 阿波
(発心の道場)徳島県にある 1〜 23番までの寺院竺和山 霊山寺
仁王門をくぐって境内に入ると、多宝塔、泉水池、奥には大師堂があり、直ぐの処に縁結び観音がたつ。
正面本堂には弘法大師が彫ったという釈迦如来の本尊があり、納経所は本堂の横と大師堂の裏手にあり、巡礼用品は全てここでそろえることが出来る。

【由緒】
第一番札所 竺和山 一乗院 霊山寺
本尊:釈迦如来
宗派:高野山真言宗
開基:行基
所在地:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126
電話:088-689-1111
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。縁起によると、聖武天皇
(在位724?49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年
(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りされた際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘て、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を日本に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけた
このときの念持仏が釈迦誕生仏像で、本尊の前に納めたことから四国札所の第一番札所とし、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな鋳造で、往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。
しかし天正10年
(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には失火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。【屁理屈】
割れ鍋に綴じ蓋と言うけれど、何れにせよそれ相当だ

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日照山 極楽寺
本尊は40段ほどの階段を登った所の本堂内に安置されている阿弥陀如来坐像で、重要文化財に指定されている。伝承に依れば、この仏像から差す光が遠く海まで達し、それに魚が驚き逃げてしまったので不漁続きとなり、漁師たちは困り果ててしまった。
そこで漁師たちは阿弥陀様にお願いして、本堂の前に小山を築いて光を遮ったので、ここから山号が由来している。
極楽寺の大師堂は安産大師とも呼ばれ、子宝に恵まれない人には子宝を授けてくれ、妊娠した女性には安産させてくれるという。逸話に依れば、明治の頃大阪の女性が大師の夢のお告げによって四国遍路を始めたが、ここにくると急に産気づいてしまった。
しかし大師の再度のお告げによって、最後まで巡礼を続け帰宅し、無事男の子を出産。その後お礼詣りをしたことから、安産祈願の人が絶えないそうだ。
樹齢1100年以上の杉巨木は、弘法大師がこの地での修法を修められた時に、この寺を末永く守護せよとの祈りをこめ、大師自らお手植えされたと言われる。
台風や火災など、もろもろの困難にも耐え抜いた大杉だけに、幹に触れれば長寿に、またその手で自分の悪いところをさするとたちまち平癒すると言われている
【由緒】
第二番札所 日照山 無量寿院 極楽寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:高野山真言宗
開基:行基
所在地:徳島県鳴門市大麻町檜字段の上12
電話:088-689-1112
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で、三七日間『阿弥陀経』を読誦し修法され、その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。
この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。
その後、天正年間(1573?92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。
弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。

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亀光山 金泉寺
山号でもある亀光山は、亀山法皇
(1274〜87)が勅願所として、堂塔の再興や三十三間堂などを建立したことに由来し、以来皇室との縁が深く、南北朝時代には南朝の長慶天皇(1368-83)が晩年をこの寺で過ごし、応永5(1398)年3月15日、53歳で崩御されたと記録にあり御陵が境内にある。一方民衆の尊信を集めて寺勢が強かった金泉寺も、天正の兵火で大師堂以外の諸堂が焼失した。その後再興されたが、規模は小さく
なった。寺の裏の庭園に、弁慶石と呼ばれている岩石がある。

六角堂
伝説によると、屋島攻めに向かう源義経がこの寺で一服した時、力試しとして弁慶に持ち上げさせた大石だという。海上を見張っていた平家の意表をつき、阿波に上陸して陸路から屋島を攻めた義経は、阿波にさまざまな事蹟を残し伝説を生んでいる。
本尊は三尺の釈迦如来で、脇士の薬師、阿弥陀の三尊とも大師の作で、聖武天皇の勅願により、天平年間に行基菩薩が開基したもので、その当時は金光明寺と称されていた。
のち、当寺に来錫された弘法大師は、井戸の水が涌き出る様を讃え、そこに堂字を建立し、寺号を金泉寺と名付けた。
後年、亀山法皇がこの寺をご信仰になり、三十三間堂を建立、千手大悲の観世音菩薩像を安置して山号の亀光山を賜号し、また勅願道場として経蔵を置き、遠近の学侶などの講演もあって大いに栄え、その頃の規模を知る縁として、金泉寺東門、南門などが残っており、この地方を大寺と呼んでいることからも窺い知れる。
【由緒】
第三番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺
本尊:釈迦如来
宗派:高野山真言宗
開基:行基
所在地:徳島県板野郡板野町大字亀山下66
電話:088-672-1087
聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。当時の本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。
弘仁年間(810?24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘り、この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。
その後、亀山天皇(在位1259?74)が法皇になり、弘法大師を篤く信仰して各地の霊跡を巡拝、金泉寺にも暫く滞在した。
その後、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀り、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。
この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368?83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。
本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。

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開創年代は定かでないが、弘法大師が長く滞在して修法し、一尺八寸(約55m)の大日如来を彫って本尊にしたという。
この本尊の大日如来は、八十八カ所中六寺しかなく、真言宗では「宇宙の中心、万物の根元とされ、人々にあまねく、慈悲をもたらす最高の仏」(はじめに、に詳細)とされている。
大師は本尊に因んで寺号を大日寺にし、第四番札所に定め、その後、寺は何度も廃寺になったが、その度に再建されている。

天和・貞享年間(1681〜1688)に再建された後は、大日如来が当時の阿波藩主・蜂須賀家の守り本尊であったことから帰依され、元禄年間1688〜1704)には堂塔を修理するなど手厚く庇護するようになった。
その後は大きな被害もなく現在に至っている。朱塗りの山門は上部が鐘楼になっている“鐘楼門”だが、一階部分が角柱、二階部分が丸柱という変わった造りになっていて、山門からは石を敷きつめた参道が通っていて、正面に本堂、右手に本堂と回廊でつながれた大師堂がある。
本堂と大師堂をL字型に繋いでいる回廊には、33体の観音像が安置されていて、これは西国三十三カ所の木造観音像と謂われ、江戸時代の明和年間(1764〜1772)に大阪の信者が奉納した。
先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。境内は、板野町史蹟に指定された防災区域で、霊地にふさわしい幽玄な雰囲気を漂わす。
【由緒】
第四番札所 黒厳山 遍照院 大日寺
本尊:大日如来
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県板野郡板野町黒谷字居内5
電話:088-672-1225
弘法大師が42歳の弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名した。
また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。
寂本(1631?1701)の『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)によると、嘗ては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。
然し、歳月と共に伽藍は風化し、応永年間(1394?1428)に松法師の夢に託言があって修復されたという旨が記されている。
伽藍は再び荒廃し、天和、貞享年間(1681?88)に再興され、また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊として、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間(1751?64)には手厚い保護をうけ寺塔の大修理が為されている。

【ご案内】
紙面には多少の誤りがあります。気づき次第書き換えましたが、見落とし有ります。坂東巡礼記や巻頭の記述と照らして適宜訂正して下さい
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無尽山 地蔵寺
本尊の勝軍地蔵菩薩は弘法大師の作で、多くの武将や阿波藩主などの信仰により広大な土地を獲得した。弘仁十二年
(811)嵯峨天皇の勅願を受けた弘法大師は、この寺を開くと共に、勝軍地蔵菩薩を刻んで(随分と小さい)本尊とした。その後、紀州熊野権現の神霊を遷し、勤めを仰せつかった浄函上人が、権現のお告げと霊木を授かって下向し、二尺七寸の延命地蔵尊を刻み、その胎内へ大師の刻まれた勝軍地蔵菩薩を納めた。
寺は嵯峨、淳仁、仁明天皇のご帰依をはじめとして、なかでも義経、蜂須賀家などの武将たちの信仰が厚く、寄進により領域は宏大であった。
また、境内の裏山には五百羅漢があり、この地は「羅漢」とよばれているが、寺の境内へ入ると弘法大師お手植えの銀杏の巨木があり、左に本堂、正面が本彷、右に大師堂と淡島堂がある。
ご本尊は地蔵菩薩。胎内に弘法大師が刻まれた勝軍地蔵が納められていて、かつては三百の末寺をもつ中本寺で、高野山の管長、大覚寺、仁和寺門跡を出した名刹であった。
本堂裏手の石段を上ると、コの字型の羅漢堂がある。正面に釈迦如来、左に弥勧菩薩、右に弘法大師を奉安し、廻廊に等身大の五百羅藻が安置されている。
実名、実開の二憎が生涯を通じて諸国を行脚し、それによって得た浄財で羅漢像をおさめて堂字を建立した。
本堂左の参道をとおり、石段を登ったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていたが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。
その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は40,000平方メートル(12,000坪)にもおよぶ古刹である。境内の大銀杏は樹齢は800年を超え、母なる大木につつまれ歴史が刻まれている。
【由緒】
第五番札所 無尽山 荘厳院 地蔵寺
本尊:勝軍地蔵菩薩
宗派:真言宗御室派
開基:弘法大師
所在地:徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
電話:088-672-4111
嵯峨天皇(在位809?23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創した。大師は、勝軍地蔵菩薩(約5.5p)を彫り、本尊に安置したと伝えられる。その後、淳和天皇(在位823?33)、仁明天皇(在位833?50)の3代にわたり天皇家が篤く帰依えされた。
さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。
この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。
しかし、天正年間(1573?92)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。

【屁理屈】
私の謂うことが正しいとは限らない。
君の謂うことも正しいとは限らない。
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安楽寺は宿坊があり、巡礼の方に大変人気があり、寺は嘗て2Kmはなれた安楽寺谷という場所にあり、温泉山という山号からもわかるように、温泉のある寺として人々に親しまれている。
四国巡錫中にこの地を訪れた弘法大師も、この土地が病疫から人々を救う薬師如来と深い因縁で結ばれていると直感し、坐像を刻み堂宇を建立し、この寺を札所と定めた。
元禄時代の古記録によると、当時その安楽寺谷の周辺一帯は鉄錆色の熱渇が涌き出、湯は諸病に特効あり、と記されている。

その後、天正年間の長宗我部の兵火に焼かれたが、万治年間に、遍路寺であった瑞運寺を併合して現在の地に移転再建された。
本堂と大師堂の間にある「願い棒修行」は、京都の東寺(大師のお寺と言われている)でも行われているもので、願い方は、大師像前にある願い棒を、年齢分を手に握り(65歳だと6本+5本の11本)、願い事、年齢、氏名を言い、般若心経を咽えながら、右回りに修行大師の周りを回る。
その後正面にくると願い棒1本を宝前に置いて残りは戻し、南無大師遍照金剛を7回唱えると願いごとが叶えられるとされている。
昭和37年のこ、愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病に罹り病床にあった。当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。
二人は遍路を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。
【由緒】
第六番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺
本尊:薬師如来
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県板野郡上板町引野8
電話:088-694-2046
『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘の響き絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。
その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598)は今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。

茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。
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現在の場所より3Km余り奥に十楽寺谷に堂ケ原という所がある。四国霊場開創の行脚中の弘法大師は、その十楽寺谷に阿弥陀如来を感得し刻んで本尊として開基した。
この地に留錫された弘法大師が、阿弥陀如来をご本尊として安置したのが寺のはじまりで、人間のもつ八つの苦難(生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛)を離れ、十の光明に輝く楽しみ(極楽浄土に往生する生が受ける十種の快楽)が得られるようにと、寺号を光明山十楽寺とした。

そのころは現在地から離れた十楽谷の奥に広大な伽藍を擁していたが、天正年間の長宗我部元親の兵火ですべてを焼失した。
このとき住職の真然は本尊を背負い、大門ケ原の小屋に仮安置し、弟子に経本を背負わせて避難したが、途中で矢に射られた弟子は経本を置いたまま逃がれたので経本も焼失し、現在は経塚として残っている。
寛永十二年に現在地に再建され、本堂は明治の再建で、本堂左前の「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。
尊像の前には熱心に祈る人の姿が屡々あり、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられる。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多い。
【由緒】
第七番札所 光明山 蓮華院 十楽寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県阿波市高尾字法教田58
電話:088-695-2150
寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定され、大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。
その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。
創建から暫くは、阿波の北方に広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。
竜宮門は明治時代に、次いで本堂、大師堂、書院などを再建し、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。

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弘仁六年(815)に弘法大師が熊谷寺で修行中、紀州熊野権現が出現し、この像を安置せよ!と告げて、一寸八分(5.5p)の金の観世音菩薩像を大師に授けた。

そこで大師は、自ら等身大の千手観世音菩薩を刻み、その頭髪の中へ百二十粒の仏舎利を人れ
(何れにせよこういう話は口伝が多い)、金の観音像を胎内へ納め堂塔を建立した。本尊として祀って第八番札所と定めた。昭和2年火災に遭い本堂・本尊とも焼失し、昭和15年に本尊を安置する奥殿と拝殿が、昭和45年に供養殿と本尊が再建された。
本堂から更に階段を上った所にある大師堂は、宝永4年
(1707)に建立され、安置されている大師像も永享3年(1430)の作で、寺宝になっている。境内にある二重の塔は、安永三年頃に剛意上人が建て、納経所前の池に浮かんでいる弁天島は、もとは大師堂の池にあったものだが、昭和六年に移建した。
【由緒】
第八番札所 普明山 真光院 熊谷寺
本尊:千手観世音
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県阿波市土成町土成字前田185
電話:088-695-2065
四国霊場のなかで最大級の仁王門を構え、縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた時、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5pほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。
大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられる。
元禄2年
(1689)の寂本著『四國禮霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」という意の記述がある。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。元禄のころ
(1688?1704)まで幾度か火災にあった説もあり、昭和2年(1927)の火災では本堂と共に弘法大師作のご本尊も焼失している。その後、歴代住職の尽力により本堂は昭和15年に再建されたが、第2大戦で工事が中断、ようやく同46年に堂宇の全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。前述の仁王門は、貞享4年
(1687)の建立で、徳島県の指定文化財で、和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル、2層目の天井や柱には極彩色の天女の姿などが描かれ、大師堂に安置されている弘法大師坐像は、室町時代の作で、県指定の文化財である。

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正覚山 法輪寺
永禄12年
(1569)長宗我部元親は土佐を平定し、次いで四国を平定して京に上る意志を抱き、先ず攻めたのが阿波であった。天正三年
(1575)に大西城が落ち、そして拠点であった勝瑞が落城したのは七年後である。この戦乱で寺々は兵火にあい、そのほとんどが焼失した。(兵火に遭遇する事は、寺院が軍事拠点、並びに権益拠点であった事による)
法輪寺もこの時堂字を焼失したが、当時寺院は山麓の法池ケ渓にあり、白蛇山法淋寺と称し、広壮な寺域を有していたが、後の正保年間に山号を正覚山法輪寺に改め現在地に再建した。その後、安政六年に火災にあい、現存の建物は明治以降の建立といわれる。
ご本尊は弘法大師が刻まれた釈迦如来捏磐像で、頭を北に、顔は西に向け、右脇を下にして涅槃に入られ、周囲には悲歎にくれる大衆の姿が刻まれている。本尊の浬槃釈迦如来は、身の丈二尺五寸あり、大師の作と伝えられている。霊場中、唯一つの涅槃像であり珍重な存在。もとは白蛇山・法林寺と号して、現在地より北約十町はどの山あいにあった。現在の堂宇は明治時代に建立されたものである
昔、松葉杖なしでは歩けない人がこの寺に参拝に釆た。参道の真ん中辺りで足が軽くなり、松葉杖なしでも歩け、ついには足が完治したという。そのため現在でも本堂にはたくさんの草鞋が奉納され、健脚祈願の願をかけた草鞋が売られているので、足腰の悪い人へのお守りとして購入して帰る人も多い
【由緒】
第九番札所 正覚山 菩提院 法輪寺
本尊:釈迦如来
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県阿波市土成町土成字田中198-2
電話:088-695-2080
古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。その礎石や焼土が残っており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。
縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教された弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いで有ると謂われる事から、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。
涅槃釈迦如来像は、北枕で西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されていて、開帳は5年毎である。
この寺が現在地に移転し、再建されたのは正保年間(1644?48)で、当時の住職が、山号と寺名を「正覚山法輪寺」と改めた。
しかし、安政6年(1859)にまたしても罹災している。これは村人が浄瑠璃芝居の稽古をしていた際に、堂内から出火したと伝えられ、鐘楼堂だけを残して全焼した。
明治時代になって再建されたのが現在の堂塔で、寺宝に「弘法大師御おころも衣」が伝えられていて、高野山奥の院で入定されている御衣替えの恒例にちなんで、明治15年(1882)、明治天皇が法輪寺に下賜されたものである。
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切幡寺は切幡山の中腹にあるため遍路は333段の急な階段を上らなくてはいけない。苦しい石段だ!
弘仁6年(815)、大師が四国巡錫中に出逢った娘の願いで千手観世音菩薩像を丁夜で刻み、娘を得度させ秘密潅項させたところ、娘の身から七色の光明が放たれ、千手観音に化身したという。
そこで大師は嵯峨天皇に奉請して一寺を建立したのが切幡寺の開基となった。そのため本堂には本尊が二体あり、大師作の千手観世音菩薩を南向きに、もう一体の娘が化身した女人即身成仏の観音菩薩を北向きに安置している。

境内にはその他、大師堂、はたきり観音の銅像、鐘楼、大塔、不動堂が建っている。
国の重要文化財に指定されている大塔は、徳川2代将軍秀忠が大阪の住吉神宮寺に再建寄進したものを、明治維新の時、神宮寺が廃寺となったため、第45世住職天祐上人が東西両塔あった中、当時残っていた西塔を買い取り、明治6年(1879)から15年かけて移築した。
普通二重の塔は三間四面のものが多いが、この塔は五間四面と大きく、初重、二重の間という様式をなす大塔になっていて、明治42年(1909)祝融の災に遭い、寺は23棟の伽藍を一夜にして失ったものの、この塔のみは火難を免れた。
そのため現在でも元和4年1618年の再興時のままの姿が残り、歴史的にも日本における重要な建造物になっている。
【由緒】
第十番札所 得度山 潅頂院 切幡寺
本尊:千手観世音
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
所在地:徳島県阿波市市場町切幡字観音129
電話:0883-36-3010
切幡山の中腹、標高155メートルに境内がある。国指定重要文化財である大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なる。
古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。
大師は、この厚意に感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関わって遠島となり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受けるが、どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。
大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女は忽ちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。

得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。麓には遍路宿があり、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。
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