第十一番札所 金剛山 藤井寺

 弘仁年間、弘法大師四十二歳のとき、この地に立ち寄られ、渓流の水清き仙境に心を惹かれた。自他ともに厄難を除こうと薬師如来像を刻み、飯尾の郷に堂宇を建立して本尊とされた。

 現在の境内から更に山中に入った処にある八畳岩の上に、護摩壇を築き、金剛不壊の道場として、17日間の修行をしたといわる。

 そして境内に5色の藤をお植えになり、この寺は金剛山藤井寺の寺号となった。建立した藤井寺はその昔、七堂伽藍が建ち並んで荘厳を極めたと伝えられる。

 然し天正の兵火、さらに天保三年の火災に罹り、堂塔寺宝の悉くを焼失した。これら両度の火災の都度本尊だけは不思議にも厄難をまぬがれている。

 

現在の伽藍は万延元年の再建で、また前記の八畳岩には弁財天を祀り、さらに百メートル奥には奥の院があって、そこには大日如来を本尊として安置している。

 本堂の天井に描かれている雲龍は必見で、本堂を全面改修した昭和52年に描かれたもので、地元鴨島町出身の画家林雲渓の作でる。30畳ほどの大きさがあり、睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。

 境内に入ってすぐに目に入る立派な藤棚で、見頃は4月下旬からゴールデンウイーク中で、紫のノダ藤、八重咲きで濃い紫のレンゲ藤に、ピンク小豆色などの藤の花が見事に咲き競う。

 藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。

 

【由緒】

第十一番札所 金剛山 一乗院 藤井寺

本尊:薬師如来

宗派:臨済宗妙心寺派

開基:弘法大師

所在地:徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525

電話:0883-24-2384

 

 全長236q、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流し、阿波中央橋を南に渡り、凡そ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見る。

 三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられ、大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。

 その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、十七日間の修法をされ、その堂宇前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称される。

 寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展したが、天正年間(1573?92)の兵火により全山を焼失し、江戸時代初期まで衰微した。

 その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めた。

 

天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもので、本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。

 

【屁理屈】

 他人のことは見えるのに、自分のことは見ようともしない

 

 

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第十二番札所 摩盧山 焼山寺

 開基は修験道の開祖役小角といわれ、小角が焼山寺山を道場として拓き、蔵王権現を祀ったことに始まり、のちに弘法大師が訪れた時、焼山寺山の台地に大蛇がいて、火を吐いて山を焼くなど、村人を困らせていることを聞いて、水輪の印を結んで退治に出かけた。

 襲いかかる大蛇を虚空蔵菩薩の加護を得て退治し、岩に閉じ込め三面大黒天を祀り、前に虚空蔵菩薩像を安置したという。

 山号はこの縁起に由来し、奥の院はさらに大師堂右側から1Kmほど登る途中に、大師が護摩を修した大岩があり、その岩上には蛇伏せと称される大師爪彫りの三面大黒天が残されている。

 焼山寺は古くから修験道の修行地として名高い山岳寺院で、『阿波国太龍寺縁起』には、弘法大師の修行地として、中世には武士や庶民の信仰を集め、足利尊氏は鎮西下向の折に、この寺を祈願所とした。一時は戦国の戦乱に巻き込まれたこともあったが、江戸期には藩主蜂須賀家の帰依を得て発展した。境内は樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び、巡礼者を迎えている。

 

【由緒】

第十二番札所 摩盧山 性寿院 焼山寺

本尊:虚空蔵菩薩

宗派:高野山真言宗

開基:役小角

所在地:徳島県名西郡神山町下分字中318

電話:088-677-0112

 

 焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所で、剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがり眺望はすばらしい。

 四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。

 いまは山上まで車道があるが、縁起には、飛鳥時代に役行者が山を拓いて、蔵王権現を祀ったのが寺の始まりとされるが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでいて、屡々火を吐いて農作物や村人たちを襲っていて、弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。

 目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。

 大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと、大蛇を岩窟に封じ込め、自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。

 山は「焼山」となったので大師が「焼山寺」と名付け、「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来して、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138?39)の勅願所となっている。

 

 

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第十三番札所 大栗山 大日寺

 開基は弘法大師。本尊彫刻は行基菩薩で、弘仁六年(815)この地を巡錫中の弘法大師が「大師が森」で護摩修法をされていると、空中に紫雲と共に大日如来が出現し「この地は霊域なり、心あらば一宇を建立せよ」と告げられた。

 感得した大師は尊影の大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して安置した。

大日如来像が本尊となっていたが、明治初年の神仏分離令により、一宮の本地仏だった十一面観音が大日寺へ移された。そのため、もともとこの寺にあった大日如来が脇仏となり、十一面観音が本尊になったという。

 またこの寺も天正の兵火に焼かれて、興亡を重ねていて、門を入ると、左手に本堂、正面に大師堂、本堂の脇手には合掌をしている観音像がある。合掌しているその両手の中に、小さい観音像がある。これは「しあわせ観音」と呼ばれている由。

 その名の通り幸せを祈ると好いとされ、多くの参拝客に親しまれている。しあわせ観音の裏側には小さな池があり、竜王像を取り囲むように七福神像が建って居り、境内には水子地蔵、子安地蔵尊なども祀られている。

 大日寺より1kmほど12番札所方向に向かい交番を過ぎて200メートルほどの所に橋がある。これを左折(看板有り)し、山中には十三番札所の奥の院とされる建治寺がある。建治寺はもと修験の祖として知られる役小角が開いた修行の地とされているだけあり、深山幽谷といった雰囲気が療う。

 

 

【由緒】

第十三番札所 大栗山 花蔵院 大日寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗大覚寺派

開基:弘法大師

所在地:徳島県徳島市一宮町西丁263

電話:088-644-0069

 

徳島市には5ヶ所の霊場がある。大日寺はそのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。

 開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。

 寺名の由来もこの縁起による。境内は老木が繁茂し、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。

 その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守、一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。

 

ただ、一の宮の本地仏(坂東編・・・を参照)は行基菩薩作の十一面観音像とされ、同じ境内なので、江戸時代には一の宮神社が札所で、納経所として参拝されていた。

 このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と、もとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。

 

 

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第十四番札所 盛寿山 常楽寺

 記憶を頼りに案内を試みると、駐車場からゴツゴツした石段を60段ほど登る。足の弱い人は、池横の駐車場から少し離れたところに自動車の通れる坂道がある。

 この寺では、石段の参道や境内に剥き出しの岩が沢山あり、境内は自然のままの石畳で、歩きにくいほどに断層がある。本堂も、岩石上に建っている。

 ここのお寺の本尊弥勒菩薩は、五十六億七千万年後、兜率天という所からこの世に下られ、釈迦の救いが得られなかった人々を救済するといわれているが、弘仁六年、弘法大師がこの地で修行されているとき、弥勒菩薩を感得され、ただちに尊像を刻み、堂宇を建立して安置した。

【屁理屈】

 ビックバンが137億年前、地球誕生が46億年前、太陽の寿命があと50億年、地球は其れより短い、人類の誕生が6千万年前、其れなのに今の世の中はこの有様、なのに56億7千万年人類が生存するのか?・・・・

 そして「私が目をとじたならば必ず弥勒菩薩のおられる理想の世界に往生して、五十六億余年後に、弥勒菩薩に従ってこの世にまいり、私の歩いた跡をたどりたい」といわれたという。

 大師が弥勒菩薩を信仰されていたことは、高野山麓にある九度山慈尊院に本尊として安置されていることからも窺い知れる。後に、大師の弟子真然僧正は、常楽寺に金堂を建立し、祈親法師は講堂・三重塔・仁王門など増築したが、天正の兵火で焼失し、万治二年に再建し、文化十五年に現在地へ移建された。

 四国霊場の中で弥勒菩薩を本尊としているのはこの寺だけで、この弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7千萬年後この世に下生し衆生を救済すると言われる有り難い未仏像である。

 常楽寺から少し離れた場所(徒歩5分程)にある奥の院慈眼寺は十一面観音を祀る。この観音様は別名子安観音と呼ばれ、安産祈願に訪れる人も多い。

 

【由緒】

第十四番札所 盛寿山 延命院 常楽寺

本尊:弥勒菩薩

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:徳島県徳島市国府町延命606

電話:088-642-0471

 

 四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊と為し、衆生の救済を考え続けて出現すると謂われる未来仏で、京都・広隆寺の片膝を立てて頬を右手でささえて考える、半跏思惟の弥勒像は、その優しいお顔の表情が美しい。

 縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。

 

大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。

 56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。

 後に、大師の甥・真然僧正は金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立され、七堂伽藍が聳える大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなったが、「天正の兵火」により焼失した。だが、江戸時代初期には復興し、後期の文化15年(1818)に、低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移り、奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」は、自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。

 

 

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第十五番札所 薬王山 国分寺

 天平13年(741)聖武天皇が天下泰平を祈願して建立した全国66国分寺中の一つで、当時の規模は寺領二町四方、鎮護国家の祈願所として七重大塔を備えた大寺院として知られていた。

 しかし天正年間(1573〜1591)、兵火に遭い鳥志沙摩明王堂だけを残し焼失した。その後長く廃寺となっていたが長年月をかけて再興が為され、まず寛保年間(1741−3)に本堂が建ち、さらに年月を経た天保年間(1830〜43)に大師堂が完成している。

 境内にある鳥瑟沙摩明王堂は、不浄除けの仏様で、弘法大師が十七日間にわたって修せられたのち刻んだもので、一つの願いは必ず叶えてくれるということで尊信されている。

 また、本堂には聖武天皇、光明皇后の位牌を祀って、本尊は薬師如来で、寺に祀られる鳥瑟沙摩明王堂は、眼と体の下半身の病に霊験があるそうだ。

 家に竈の神様や風呂の神様が祀られるのと同じように、便所の神様として信仰され、不浄金剛とも呼ばれている。

 なおこの寺域からは塔の礎石などが発掘され、徳島県の史跡に指定されている。境内の遺跡から往時の栄華がしのばれる。

 

【由緒】

第十五番札所 薬王山 金色院 国分寺

本尊:薬師如来

宗派:曹洞宗

開基:行基

所在地:徳島県徳島市国府町矢野718-1

電話:088-642-0525

 

 四国は四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724?49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建し、奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。

 縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。

 開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊とし、創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。

 弘法大師が弘仁年間(810?24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰しており、境内は相当に衰微していた様子が寂本著『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)からも知ることができる。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されて以来、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。

 

【屁理屈】

 物の豊かさは比較によって成り立つ

 心の豊かさは修養に因って成り立つ

 

 

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第十六番札所 光耀山 観音寺

 聖武天皇第四十五代が諸国に命じ、国分寺、国分尼寺を創立し、同年の天平13年(741)に、聖武天皇の勅願道場として創立された。

 その後、弘仁7年(816)に弘法大師がこの地を訪れ、等身大の千手観世音菩薩を刻んで本尊としして開基した。

 大師はさらに、鎮護国家に毘沙門天を、更に悪魔降伏の意を含めて不動明王を、自刻して安置し、両脇侍に不動明十土と毘沙門天を安置した。

 

これは観音菩薩の功徳と不動明王の威力、毘沙門天の授福に肖るといい、焼山寺の三面大黒と共通した様式である。寺はその後天正年間の長宗我部元親の兵火で焼失し、以後衰残の日々が長年月に及んだが、万治二年(1659)になって宥応法印が中興した。

 ただし、現在の堂塔は、阿波藩主の手によって再建立されたもの…。なお、この寺には弘法大師の御筆跡を刻印したと伝えられる光明真言の印版を宝蔵してある。

 大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納した話が語りつがれている。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。

 

【由緒】

第十六番札所 光耀山 千手院 観音寺

本尊:千手観世音

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:徳島県徳島市国府町観音寺49-2

電話:088-642-2375

 

 寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。

 その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。

 この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724?49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。

 弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。

 その後、他の阿波各地の霊場と同じように、栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573?92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至る。

 

 

【屁理屈】

 無駄遣いを沢山して沢山働けば国は豊になる

 無駄遣いを沢山して沢山働けば人は貧しくなる

 

 

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第十七番札所 瑠璃山 井戸寺

 天武天皇が白鳳2(674)年に勅願所として建てた妙照寺が、その前身といわれ、本尊の七仏薬師如来は、聖徳太子の作といわれている。

 その後、弘法大師が弘仁6(815)年、巡錫中にこの地を訪れて十一面観音を刻んだという。この十一面観音は檜材で、高さは192cmの一木造り。右手には錫杖を持っていて、国の重要文化財の指定を受けている。

 そのほか、藤原時代の秀作の日光菩薩があり、徳島県の文化財になっている。また2度にわたって兵火に遭ったが、そのたびに再興された。

 さらに昭和四十三年には、これも不慮の火災にあって本堂を全焼したが、その後三ケ年で再建した。

 

本堂の手前左側にある日限大師堂の中に井戸がある。大師が自分の杖で一夜にして掘つたといい、寺号の由来でもある伝説の井戸である。覗き込んで自分の姿が映れば無病息災、だが、もし映らなかった場合は3年以内に不幸が訪れるといわれていて、この水は持ち帰ることができる。

【補案内】

 この辺りは徳島有数の古墳地帯に位置し、古代ロマンを想像しながら自由に触れ、学び、楽しめる阿波史跡公園がある。

 古代の邑には、文献や吉野ケ里遺跡を参考に復元された高床式倉庫や竪穴式住居が並ぶ。すぐ近くには卑弥呼の墓があると言われる神社もある。

 

【由緒】

第十七番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺

本尊:七仏薬師如来

宗派:真言宗善通寺派

開基:天武天皇

所在地:徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1

電話:088-642-1324

 

 世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制も漸く芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673?86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であ。

 当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。

 本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。

 のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置した。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。

 

大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出し、付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

 ただ、南北朝時代以降の寺史は、まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。

 江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。

 

 

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第十八番札所 母養山 恩山寺

 この寺はもと大日寺、福生院、密厳寺などと号し、請人の災厄を除く道場で、女人禁制の聖地であった。聖武天皇(在位七二四〜四九)の勅願により行基が開いたという。

  この寺に弘法大師が滞在していたとき、母の玉寄(玉依)が訪ねてきたが、女人禁制なので上ることができなかった。大師は母のために山門辺りで十七日間の秘法を修し、女人開禁を成就して母を入山させて孝行の限りを尽くした。

 そして山号を母養山恩山寺としたという。以後寺運は栄えたが、天正年間(1573〜92)に兵火に遭って焼失し、江戸時代には蜂須賀家の保護を受けて栄えた。

 境内には玉依御前の剃髪所がある。寺号の由来となった大師の母君、玉依御前をまつったお堂で、廷暦年間、息子に会うためにはるばる讃岐の地から旅をして辿り着き、ここで髪の毛を剃られたという。お堂の中にはその時の髪の毛が納められている。

 

【屁理屈】 親子の縁は生命体の本質で絶ちきることは出来ない

【由緒】

第十八番札所 母養山 宝樹院 恩山寺

本尊:薬師如来

宗派:高野山真言宗

開基:行基

所在地:徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40

電話:08853-3-1218

 

 縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。

 本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていなかった。

 延暦年間(782?806)、弘法大師がこの寺で修行をしていた頃、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。

 やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われ、弘仁5年(814)ころのことと伝えられる。

 寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804?30)ころに建立された由緒ある建造物である。

 境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。

 

 

 

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第十九番札所 橋池山 立江寺

 仁王門を入ってから「立江寺は、四国霊場に四つある関所の一つで、心がけの悪い人は、この山門から先へ進めなくなります・・・・・」と、先達から知らされた!

 無事、進めてよかったと胸をなでおろす。因みに、他の三ヶ寺とは二十七番神峰寺、六十番槙峰寺、六十六番雲辺寺である。

 境内には、本堂、大師堂、観音堂、多宝塔、書院等が建ち並び、立江寺は聖武天皇の勅願所として、行基が開基した寺といわれ、創建当時は、今の場所から400mほど西のところにあったという。

 行基は光明皇后の安産祈願として一寸八分の金の地蔵菩薩を刻み、白鷺が飛び立ったことで啓示を受けたこの地に寺を開基した。

 その後の弘仁六年、弘法大師が留錫して、約1.8メートルの大像を刻み、金の仏像を体内に納め、立江寺と命名して十九番札所と定めた。

 その頃から巨刹であったといわれているが、天正の兵火で本尊以外はことごとく焼失してしまい、秀吉の四国征伐後、阿波に入国した阿波藩主の蜂・須賀家政が再興して、現在地に移したという。

 本堂は昭和49年に本尊を残して焼失し、52年に再建している。また、行基が刻んだ地蔵菩薩が光明皇后の安産を祈願して刻まれたものだったため、「子安の地蔵尊」とも呼ばれて信仰を集めている。

 立汀寺はまた、阿波の関所寺として知られていて、請人の理非曲直を見分ける関所であるために、不義常通とか、あるいは邪悪の心を抱い亡者には天罰をくだすといわれている。

 本堂は昭和49年の火災で焼失したが、その後昭和52年に再建された。左側に観音堂、右側に護摩堂を有する立派な建築である。

 東京芸大の教授や助教授ら40名余りが描き上げた絵天井は、金色に輝き見事の一語。また、びんずるそんじゃと寿老人の像もあり、息災延命などの願い事を叶えてくれるといわれでいる。

 

【由緒】

第十九番札所 橋池山 摩尼院 立江寺

本尊:延命地蔵菩薩

宗派:高野山真言宗

開基:行基

所在地:徳島県小松島市立江町若松13

電話:08853-7-1019

 

 高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。

 縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願で行基菩薩によって創建され、勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈り、念持仏として5.5センチ程の黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。

 これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。

 大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。

 このときに寺名を「立江寺」と号し、当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

 「天正の兵火」(1575?85)では立江寺も逃れられず(重要な軍事並びに権益拠点)、壊滅的な打撃を受けたが、本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建された。

 また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されていて、昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により花鳥風月などが描かれ、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財であると高く評価されている。

 寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品で、邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれている。

 

【屁理屈】

 形有るものはマッチ一本で灰になる

 

 

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第二十番札所 霊鷲山 鶴林寺

 この寺は規模が大きく300人も収容できる宿坊が有る。寺院は高台にあって、目を翳すと鶴林寺から南東方向に21番札所太龍寺が見える。

 桓武天皇(701〜806)の勅願寺と謂われて居るが、弘法大師が夢告を受けてこの地へ釆たときに、雌雄の鶴が小さな地蔵尊を羽に包んで守っているのを見つけた。

 大師は自らも地蔵菩薩を刻んで小さい地蔵菩薩を胎内に納め本尊とし、堂宇を立てた。そして付近の山容が、釈迦が説法されたインドの霊鷺山に似ているところから、山号を付けたと伝える。

 大師は、先に地蔵菩薩を彫られ、その残木で五種の鈴を刻み、爪彫りの堅額を適された。前述の本尊降臨の彬は本堂左側にあり、大師お手植えの菩提樹もある。

 寺は歴代皇家、武将の尊信を得、わけても阿液藩主は鶴林寺を祈願寺と定め、多くの山林、寺領を寄進した。

 本尊は地蔵菩薩で、国の重要文化財。寺宝の網本着色釈迦三尊は、国の重要美術品と認定されている。

 さらに、地蔵来迎図は徳島県の文化財で、本堂脇の石段を上ると、美しい三重塔が建っていて、文政10(1827)年に建立された塔で、総素木造りの建造物となっている。鶴林寺は難所ゆえか、天正の兵火を免れている。

 境内には地蔵尊と大師の像を納めた六角地蔵堂や、忠霊殿、護摩堂、三重塔などがある。仁王門の仁王像は、運慶の作であると伝えられている。お鶴さんと地元の人々に親しまれるこの寺は標高570mの山頂にある

 二十一番札所の太龍寺と向かい合う位置にあり、太龍寺は金剛界道場、そしてこの鶴林寺は胎蔵界道場となっている。

 

本堂の右手上にある三重塔は文政6年(1823)江戸末期に建てられたもので、各層は和様、唐様と、それぞれに異なった建築手法を見ることができる。

 この塔は江戸末期における代表的建築物であり、藩政時代に建て、残っている貴重な三重塔である。

 本堂御本尊の近辺から、11基の丁石(道路の距離標識)が確認され、1丁は約30mで、鶴林寺への参道を知る貴重な資料で、南北朝時代に建立され、徳島県では最古のものといわれる。頭の部分に鉢巻きを巻いたように印があるものが、特に古い。

 

【由緒】

第二十番札所 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺

本尊:地蔵菩薩

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14

電話:08854-2-3020

 

 寺は標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。

 寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781?806)の勅願により、弘法大師によって開創され、大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。

 この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。

 また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。

 阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573?92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。

 

【屁理屈】沢山の寺があると、似通った寺傳は頻見るする

 

 

 

 

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