第二十一番札所 舎心山 太龍寺

 この寺へ行くには先ず鷲敷側からロープウエーに乗り込むことから始まり(大人往復2400円)、巡礼後頂上駅でお茶の接待や売店もある。

 阿波の三難所の一つと言われるこの寺は、標高約600mの山頂付近にあり、今では鷲敷町からロープウェイで山頂に楽に行け、鮎山頂駅に着けば、本堂へ続く長い石段迎えてくれる。

 

 この寺は桓武天皇勅願の寺で、延暦十二年、帝の勅命により、弘法大師が開基した。本尊の虚空蔵菩薩も大師作で、大師十九歳のとき太龍ケ嶽によじ登り、南舎心嶽で求聞持法を修された。

 周囲に老杉が茂る境内には、多宝塔、大師堂、求聞持堂 護摩堂 六角経蔵がある太龍寺は四国山脈の四南端に位置し、海抜六百メートルの山頂近く、巨形に囲まれた霊域である。

 山号の由来は舎心の霊蹟にちなんで舎心山と号し、寺号は求持法の修行中の大師を守護した大龍「龍神守護」の意から生じたもので太龍寺と命名したといい、太龍寺は西の高野といわれている。

 

【由緒】

第二十一番札所 舎心山 常住院 太龍寺

本尊:虚空蔵菩薩

宗派:高野山真言宗

開基:桓武天皇

所在地:徳島県阿南市加茂町龍山2

電話:08846-2-2021

 

 四国山脈の東南端に位置し、西の高野とも称される、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにあり、樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。

 弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約6メートルの「舎心嶽」という岩上で、1日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、大師が24歳のときの著作『三教指帰』に記されており、よく知られている。

 虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしていて、縁起によると延暦12年、桓武天皇(在位781?86)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。

 

 山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

 皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。だが、「天正(1573?92)の兵火」からは逃れられなかった。

 また、江戸時代になっても幾たびか罹災し、荒廃の途を余儀なくされているが、その都度ときの藩主の保護をうけ再建されている。

 仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興している。四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの山岳寺院にロープウエーが開通したのは平成4年で、徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要していた。

 1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、風格をそなえた古刹である。

 

 

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第二十二番札所 白水山 平等寺

 大師が廷暦11年(792)41歳の時、母君が厄年にあたるため、一心不乱に厄除祈願をしでいた。すると、空中に五色の瑞雲がたなびき、その中にあらわれた梵字が金色に輝きを放ったという。

 

 やがてその梵字は薬師如来に婆を準え、光明が四方に輝いた。そこで大師が加持水を求めて杖で井戸を掘ると、乳白色の水がわき出したのである。

 その霊水で身を清められた大師は100日間の修行の後に薬師如来像を刻み、本尊として安置した。この乳白色の水によって、人々が平等に救済されますようにと寺号を平等寺と定めたのだという。

 以後、寺は大規模に栄えたが、天正年間に土佐の長宗我部の兵火にあって焼失。その後、江戸時代中期に再興された。

 平等寺の襖給金地着色秋草拭四面は、狩野内膳の筆で県の文化財に指定されている。

 本堂から南へ11Km離れた月夜峠の下に、月夜の大水大師があり、大師の湧き水伝説によるもので、大師がつき立てた杖が大杉になったという「さかさ杉」の巨木がある。

 本堂まで行く石段の左下に、万病に効くという「白水の井戸」があり、今なお水が湧き出ている。

 瑞雲の中の金色の梵字から薬師如来が現れた時に、大師が杖で掘った井戸は、現在では無色透明。今でもどんな日照りにも枯れることなく、こんこんと沸き出ている。

 万病に効くという「弘法の霊水」として知られている井戸には、薬師如来と地蔵菩薩のご真言を書いた札が貼られている。

 男坂を登った処の本堂に入つて頭上を見上げると、天井には沢山の草花を描いた天井画を見ることができる。長い年月を経た今でも、緑、赤、黄色などの鮮やかな色彩を放っている。(鉱物顔料は変色しにくい)

 

【由緒】

第二十二番札所 白水山 医王院 平等寺

本尊:薬師如来

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:徳島県阿南市新野町秋山177

電話:0884-36-3522

 

 弘法大師がこの地でご修行のとき空中に5色の霊雲がたなびき、そこに黄金の梵字が現れ、大師が歓喜して加持すると薬師如来の尊像が現れて光明が四方に輝いた。大師がさっそく加持水を求め杖で井戸を掘ったところ、乳のごとき白い水が湧き溢れた。

 その霊水で身を清めた大師は100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、人々が平等に救済されるようにとの願いをこめて山号を白水山、寺号を平等寺と定められた。

 以後、寺は大規模に栄えたが天正年間に長宗我部の兵火によって焼失し、江戸時代中期に再興されて現在に至っている。大師が杖で掘られた霊水は男坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなくこんこんと湧き出ております。

 現在は無色透明で、万病にきく「弘法の霊水」として全国に知られ、容器が用意されているので持ち帰ることもできます。

 

 

 

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第二十三番札所 医王山 薬王寺

 日和佐へは平等寺から三つの峠を超え、薬王寺は日和佐の町を一望する山の中腹にあり、仁王門から33段の女厄坂本堂までの42段の男厄坂がある。女33歳、男42歳が厄年で厄年の人は厄銭を落としながら登り、四国一の厄除けの寺だけに年間百万の人が参拝し、特に1月に多い。

 弘仁六年、弘法大師四十二歳のとき、自他の厄除を誓願してご本尊の薬師如来を刻み、大師の奏聞により、平城・嵯峨・淳和の各帝は厄除の勅使を下して官寺とした。

 

 文治四年(1188)の災火でご本尊は玉厨子山へ一旦移られたが、再建後は新しい尊像、が造顕されたため、後向きに本堂へ入られ「後向薬師」とよばれている。

(軒の四隅に相輪のような物が立っていて、著者には皆目不理解)

 現在の本堂は明治36年の建立で、本堂右のゆぎ塔へは61段の還暦の坂を登り、塔内には五智如来が奉安され、階上は寺宝の展示室、また、塔からは美しい日和佐の町並や大浜海岸が望まれる。

【案内】厄の落とし方

 厄坂の石段の下には薬師本願経の経文を小石に一字ずつ書いて埋めてあるので、自分の厄年にあたる坂の石段を踏み、一段ごとにお賽銭を置いて上がる。又、絵馬堂の中に厄除けの臼があるので、自分の年の数だけ杵でつき鳴らす。

 更に、広場には厄除けの小さな鐘があるので、これも年の数だけ打つと厄が鳴り落ちるという。

 また正月にはお賽銭として供えながら上るそうで、この時も一円玉で石段が埋まってしまうそうだ。

 特に2月12日の初会式は、格別の人出で混雑し、本堂裏には霊水が湧いている。この水はラジウムを含み、肺の病気に効くといわれているため、肺大師としても信仰されている。

 

【由緒】

第二十三番札所 医王山 無量寿院 薬王寺

本尊:薬師如来

宗派:高野山真言宗

開基:行基

所在地:徳島県海部郡美波町奥河内寺前285-1

電話:0884-77-0023

 

「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。

 各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登る光景が見られる。縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。

 

 弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。

 大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされている。

 文治四年(1188)、火災で諸堂を焼失したが、このとき厄除け本尊は、光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。

 のちに嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。

 以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされ、境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』に登場した石碑がある。

 

 

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高知県(土佐) 24〜39 修行の道場

二十四番室戸山へはこちらから

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24番 室戸山 最御崎寺

25番 宝珠山 津照寺

26番 龍頭山 金剛頂寺

27番 竹林山 神峯寺

28番 法界山 大日寺

29番 摩尼山 国分寺

30番 百々山 善楽寺

31番 五台山 竹林寺

32番 八葉山 禅師峰寺

33番 高福山 雪蹊寺

34番 本尾山 種間寺

35番 醫王山 清滝寺

36番 独鈷山 青龍寺

37番 藤井山 岩本寺

38番 蹉?山 金剛福寺

39番 赤亀山 延光寺

 

 

【注】

 88霊場巡礼の記事は、巡拝の際に収集した観光案内や寺院案内、寺院縁起などを、ほぼそのまま転記したものです。

 記事には誤謬や虚構(現実には存在しない物事)も記されています。記事を信ずるか否かは、ご自分の責に因ります。

☆土佐(修行の道場) 高知県にある24 - 39番までの寺院

 

 

第二十四番札所 室戸山 最御崎寺(東寺)

 仁王門を潜ると右手に地蔵が並び、左手には大師堂がある。本堂は参道の正面突き当たり、その左手には納経所がある。宿坊は本堂からさらに奥に入った処にあるから、境内がかなり広い。

 最御崎寺は嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開基した寺で、本尊は大師が刻んだ虚空蔵菩薩で秘仏になっていて、寺宝の木造薬師如来像は平安末期の秀作といわれ、木造月光菩薩立像、石造如意輪観音半伽像とともに、国の重要文化財となっている。

 歴代天皇の勅願所として栄え、江戸時代初期には、最勝上人が入山し、土佐藩主山内忠義の援助もあって寺勢も強かったが、明治初年の廃仏毀釈で荒廃した(廃仏毀釈 坂東編を参照)

【補案内】

 大正3年に復興し、現在に至り、指定を受けた国宝には薬師如来、月光菩薩、如意輪観音などがあり、場内には大師の奇跡とされている明星石、くわず芋がある。

 最御崎寺への登山道の途中には、弘法大師ゆかりの場所が幾つかある。大師が一夜のうちに建立したと伝わる「一夜建立の岩屋」から少し登ったところに、「捻り岩」という洞窟がある。

 ここには、大師の母君である玉依御前が、大師の身を案じて男装して訪れた際に、嵐が巻き起こったため、大師が真言を唱えて風を静め、岩を念じ伏せた、という伝説が残っている。このことから女人禁制となったと言われる。

 宝物館には数々の寺宝を保管していて、特に大師が唐から持ち帰つたといわれる、大理石丸彫りの石造如意輪観音半伽像、藤原時代作の薬師如来座像、月光菩薩立像の3体の足利時代の柄入りがある国指定の重要文化財である。

 室戸岬灯台は明治32年(1899)の完成以来、休むことなく海の安全を守り続けている室戸岬灯台。日本−の大きさを誇る直径2m60cmのレンズは、光度190万力ンデラ、光遠距離は56km。毎年7月20日の海の日と灯台祭りの日(11月1日の灯台記念日に最も近い日曜日)の2回、無料公開されている。

 室戸青年大師像は23番札所から24番札所に近づくと、先ずこの巨大像が出迎えてくれる。弘法大師が青年時代に修行の地として選び、多くの語りを開いた場所で、昭和59年に創ったこの像は、高さ21m(内台座5m)の巨像で、台座内部にはステンドクラスで表された胎蔵界蔓陀羅の諸尊が祀られ、木片に残された大師の手形も安置されている。

 室戸岬の先端、遍路道を登って行くと歴史を感じる石段を登ると荘厳な本堂が目の前に現れる。ここ最御崎寺(通称「東寺」)は大同2年(西暦807年)に、唐から帰国した 弘法大師が嵯峨天皇の勅命を受けて開いたという歴史のあるお寺で、本尊は虚空蔵菩薩で空海一刀三礼の作と伝えられており、霊宝 殿には、国指定重要文化財の薬師如来坐像、月光菩薩立像、如意輪観音半枷 像が安置され、中でも如意輪観音半枷像は日本で唯一大理石で作られていることで有名である。

 室戸岬周辺では空海の伝説が多く残され、空海の七不思議とも云われ、今でも語り継がれている。

一 くわずいも 昔土地の者がいもを洗っていると、一人の遍路(弘法大師の事)が通りがかり、そのいもを 乞うたけれど、その者はこれを惜しんで「これは食えない芋だ」と言って遍路に与えなかった 所、それが本当に食べられなくなったと伝えられている。

(最御崎寺本堂右に自生)(どちらの根性が小さいのかな?)

二 鐘石 石質は安山岩で、叩くと鐘のように音を発し、この響きは冥土まで届くと言われ、俗に鐘石を呼ばれ 現在、最御崎寺境内にある。

   「仮初のいしにてあれど且つ打てば

               金かとまがふ音の高くも」

三 観音窟(一夜建立の岩屋) 弘法大師が一夜にして建立したという伝説によって「一夜建立の岩屋」とも言われている 弘法大師修行ゆかりの場所である。この観音窟内に安置されていた大理石の如意輪観音半枷像は藤原時代の名作で、国の重要文化財に 指定され、現在は最御崎寺に保存されている。

四 明星石 弘法大師が修行している時、毎夜海中より毒龍が現れ、異形の者どもを集め、行法の妨げをするので、弘法大師が真言を唱え海に向かって唾を吐くと、これが海岸の石につき星の如く輝き始め、 毒龍と異形の類がその光を恐れ皆逃げ去ったと言われる。

五 行水の池 弘法大師が修行中この池で行水をされたと言われている。この付近は奇岩怪岩に囲まれ とても素晴らしい景色を見ることができる。

六 目洗いの池 昔弘法大師がこの地の水を加持し、衆生の眼病を治したと言われている。

七 ねじれ岩  弘法大師が修行中、女人禁制であった室戸山に男装で身を隠した母が訪れた。それに気づいた仏様が火の嵐を起こし、男装を剥ごうとした。すると弘法大師が大岩を念じて捻りその中に母を避難させられたと伝えられる。

 

【由緒】

第二十四番札所 室戸山 明星院 最御崎寺

本尊:虚空蔵菩薩

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県室戸市室戸岬町4058-1

電話:0887-23-0024

 

 「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。黒潮の飛沫にあらわれて鋭角になった黒い岩礁。そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。

 延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。

 「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」

 大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。

 当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。

 

【屁理屈】 二宮翁の逸話に 水に浸かる水車がある

 水から離れた水車は、自分の爲だけで他人様の役には立たない

 どっぷり浸かった水車は、何の役にも立たない

 程々に浸かった水車は、自分の爲にも他人様の爲にも役立つ

 

 

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第二十五番札所 宝珠山 津照寺(津寺)

 室津港を見下ろす、小高い丘の上に佇む津照寺。山門をくぐると右手に大師堂と方丈がある。本堂は正面の125段の石段を登りきった所で、室津の港町を見下ろすように立つ。

 勾配はかなり急で石段の途中には朱色の仁王門がある。本堂は昭和50年、大師堂は昭和38年完成の建物で、大師堂右側に納経所があり周囲を万体地蔵が取り囲んでいる。

 

 地元では津寺と呼ばれ、大同2年(807)にこの地を巡錫した弘法大師によって開基され、海で働く人の無事と豊漁を祈願して延命地蔵菩薩を刻み堂宇に安置したと言われる。

 大師作といわれる本尊・別名揖取地蔵菩薩は秘仏で、長宗我部の庇護を受けて寺領は増大、藩政時代には藩主山内公の祈願所として栄えたが、明治初年の神仏分離令で一時、廃寺となっていたが、その後再興された。

 本堂に向かう石段はまっすぐ255段、石段沿いには深い緑に覆われた、何処か可愛い造りの鐘楼門があり、その清々しさが疲れを忘れさせてくれる。

 かなり急勾配なので、真ん中にある手すりに縋りながら登るお遍路さんもあり、この石段の途中にある朱塗りの鐘楼門は、カラフルな造りで、別名、「仏の灯台」と呼ばれている

 

【由緒】

第二十五番札所 宝珠山 真言院 津照寺

本尊:楫取延命地蔵菩薩

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県室戸市室津2652-イ

電話:0887-23-0025

 

 室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」は、通称「津寺」と呼ばれ、弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号された。

 はじめ長宗我部氏の庇護をうけ津寺村と称して、七町余の地高を有し、その後山内氏が国主として入国してより、更に一町五反余の田地を寄附され、寺院の運営も全て藩営とされ、中老格をもって遇され隆盛を極めていたが、明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり、寺は廃寺とされた。

 荒廃にまかすこと約十数年、明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったのだが、寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなく、只本堂が地蔵堂として残り、御殿と申された庫裏の一角が当時は小学校として残っていたが、その後小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築された。

【楫取地蔵の由来】

 

 御本尊延命地蔵を楫取地蔵という由来は、慶長七年秋の頃、山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。

 ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないが、ともあれ探して津寺へ参詣してみると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった。

 之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになった。この霊験記は、旧記南路史に明記されて居る。

 また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも、かじとりじぞうと呼ばれている。

 

 

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第二十六番札所 龍頭山 金剛頂寺(西寺

 金剛頂寺は大同2(807)年、嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師が開基し、当時は女人禁制の寺だったという。嵯峨天皇が金剛頂寺の勅額を奉納したことから、金剛頂寺と改められた。

 西寺といって24番の東寺と並称され、女人禁制の霊地で、本尊は大師の手のよる座像の薬師如来が安置されていて、薬師如来像は完成すると自ら本堂の扉を開けて鎮座したと伝えられており、その後は嵯峨、淳和天皇の勅願所として栄えたが、文明11(1479)年火災のために焼失した。

 だがたちまち復興し、同18年に新しく金堂が建ち、金剛頂寺が全盛のころは、3500石を領有し、長宗我部氏、山内氏と代々の藩主の寄進もあったが明治32年の火災により、一時寺勢は衰えていた。

 海に向かって建っている大師堂の横には、大師が三合三勺の米を入れて炊いたら万倍に増えたと謂う「一粒万倍の釜」が置いてあり、本堂横には正倉院様式の霊宝殿がある。

 ここにある本造阿弥陀如来像は平安末期の寄木造りで、高さは88cm。さらに板彫真言八祖像八面、朝鮮鐘、鋼造観音菩薩立像、平安時代の密教法異ならびに弘法大師が背負って歩いたという金銅旅壇具、南部大経十巻がある。

【補案内】

 大毘塵遮那経、金剛頂経が重要文化財になっていて、毎年12月31日から1月8日まで開帳さてれいる秘仏がある。寺の宝物殿には、国宝指定の朝鮮鐘をはじめとして阿弥陀如来像、板彫八祖像などがあり、一般公開している。

 正倉院を思わせる校倉造りの宝物殿がある。中には多くの文化財が収蔵されていて、中でも大師の金銅旅壇具、朝鮮高麗時代の銅鐘、平安末期の作という木造阿弥陀如来座像、白鳳時代の作という銅像観音菩薩立像、鎌倉時代の作という真言八祖像などは国の重要文化財に指定。(貴言八狙とは、真言密教伝法の師8人のことをいう。)

 大師堂の横にある一粒万倍の釜は、弘法大師が3合3勺の米を入れて炊いたところ、万倍にも増えたという伝説を持つ。

 

 

【由緒】

第二十六番札所 龍頭山 光明院 金剛頂寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県室戸市室戸町元乙523

電話:0887-23-0026

 

 室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯を産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上に、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が、金剛頂寺で、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。

 当寺から4kmのところに女人堂と呼ばれる不動堂があり、若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地で、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。

 縁起によると、大師が平城天皇(在位806?9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられる。 創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。

 次の嵯峨天皇(在位809?23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823?33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれて、以後、16世のころまで全盛を誇った。

 室町時代に堂宇を罹災したこともあったが、復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。

 昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品で、重要文化財が数多く収蔵されている。

【屁理屈】

 日本銀行券は冥府でも通用する?

【屁理屈】

 益有りと思われれば援助され

 害有りと思われれば潰される

 老若男女貴賤を問はず

 

 

 

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第二十七番札所 竹林山 神峯寺

 仁王門から本堂までは、約150段の石段を上りつめる。石段の両脇には美しい日本庭園が整備されていて、お遍路さんの疲れを癒してくれるよう。石段を登り切ったら本堂と大師堂へ,境内からは、土佐湾が一望できる。

 寺のある山頂までは3qあるが、宮地某氏の奉仕で自動車道が開通し、歩かずして山門までゆけるようになった。

 三菱王国を築いた岩崎弥太郎の母は、幕末のころ弥太郎の開運を祈願して、この急坂を登り、二十一日の間二十`離れた井ノロから神峰寺へ日参し、やがて弥太郎は大成し後に山林を寄進し、報恩を感謝している。

 寺の縁起によれば、当初天照大神、その他諸神が祀られ、後に行基菩薩が自ら十一面観音を刻んで安置し、神仏を合祀した。

 大同四年には聖武天皇の勅令によって観音堂と名づけられ、廷暦年間に四国霊場に定められ、明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治十七年再興された。

 本堂、大師堂は急な山の斜面に建てられていて、境内には清澄な霊水が湧き出てる。

 鐘楼の裏手に湧く石清水がある。この水は病気平癒に霊験あらたかであるという言い伝えがあり、この水には一つの伝説が残されている。

 北海道在住の女性が病の床につき、危篤状態の時に夢に弘法大師が現れた。大師は女性に鐘楼の後ろから湧く水を飲ませてくれたが、目覚めた後に女性は一命をとりとめた。

 昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

【由緒】

第二十七番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:高知県安芸郡安田町唐浜2594

電話:0887-38-5495

 

 神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がり、幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から、急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている。

 

 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201?69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。

 聖武天皇(在位724?49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。

 その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。

 明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。

 

 

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第二十八番札所 法界山 大日寺

 境内は四季折々の花が咲き、巡拝者の目を楽しませてくれる。早春にはサンシュユの花、3月彼岸ごろにはしだれ桜、本坊前のコブシの花、10月中旬から十月桜や万両が咲き誇る。

 天平年間(729〜748)、行基が開基し弘仁6年(815)、弘法大師によって再興された寺で、大師は楠の大木に爪で薬師如来を刻んだと伝えられ、その霊木は本堂から少し離れた奥の院に現在安置されている。楠の木は明治初年に倒れ、爪彫り薬師と呼ばれる由来で、特に首から上の病に霊験ありといわれ信仰されている。

 この奥の院は山門から一丁ほど奥にあり、また、その堂の左側の岩窟より涌き出る清水は大師加持水として知られている。明治初めの神仏分離令により廃寺となったので本堂を大日寺と改称して、本尊はそのまま祀っていた。

 再興されたのは明治十七年になってからで、本堂に安置されている本尊・大日如来は四尺八寸二分(約145m)の座像で四国では最大級の大きさである。

 脇仏の聖観音像と共に国の重要文化財に指定されていて、本堂の屋根は端が反っているが、これは平安時代の特徴をこ示したものである

【補案内】

 江戸時代のころ土佐の国へ入るには、国手形(身分証明書)や添手形(通行許可書)や指定された道の通行、期間、一定の旅費を所持した者などこまかい制約があった。

 遍路は大師の遺跡を苦行して歩く求道者であるが、このころは社会の敗残者がまぎれこみ、きぴしい取締りとなった。

 現代は自由で物資も豊富、交通機関も発達し、それだけに信仰の旅が観光になりかねないけれど、土佐は修行の霊場、精進したい人もおり、神峰から野市を経て大日寺までおよそ四十`、小高い山の中腹までの参道を登ると、こじんまりとした本堂がある。

【観光コース】

 約1億7,500万年もの歳月が造り出した龍河洞は、日本三大鍾乳洞のひとつに数えられ、国の重要文化財に指定されている。全長約4kmのうち見学コースは約1kmあり、洞内は1年を通して17℃とひんやりしている。

 様々な自然の造形美を楽しめ、中でも高さ11mもある天降石は洞内最大の鍾乳石がある。

 坂本龍馬の33年の生涯を180体のろう人形で再現。龍馬の誕生から、最期となつた近江屋の惨劇までの、歴史的な26場面を臨場感たつぷりに見ることがでる

高知県野市町大谷928−1  0887・56・1501

 

【由緒】

第二十八番札所 法界山 高照院 大日寺

本尊:大日如来

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:高知県香南市野市町母代寺476-1

電話:0887-56-0638

 

 縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創されたと伝えられる。その後、寺は荒廃したが弘法大師が四国を巡教された弘仁6年(815)、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。

 以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間(1596?1615)からは土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。

 しかし、明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっていて、行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが約146cmの寄せ木造りで、四国では最大級。また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172cmと大きく、ともに国の重要文化財に指定されている。

 

 また、大師が楠の立木に爪で彫られたという霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされ、その楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂を建て、霊木として安置している。この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされ、薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧く。

【屁理屈】

 求める事は結構だが、受け入れられるには、相手の要求に応えられなければならない

 

 

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第二十九番札所 摩尼山 国分寺

 国分寺は後免駅から北西へ約四`入った国分川の北にあり、こんもりとした樹木におおわれ、その周囲には往時を物語る土堤が残っている。

 承応二年(1558)の仁王門を入れば、寄棟造りの本堂があり、外観は天平様式を伝え、内部は室町末期の作風が見られ、優雅でしっとりとした感じの建物がある。

 聖武天皇の勅願により、天平13年(741)に行基が建立した寺で、天皇自らが金光明景勝王経を書写して納め、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を願う祈願所とした。

 本尊は千手観世音菩薩、後に弘法大師が真言宗の寺として中興。招福・除災の星祭の秘法を修めて、四国霊場に定め、歴代天皇からの信仰が篤かったほか、長宗我部氏や土佐藩主・山内氏からも信仰を集めた。

 数多くの史跡が残っていることから、境内地全域が史蹟として国の文化財指定を受けていて、また、昭和52年から行われた寺の発掘調査では、弥生時代の住居跡も見つかっている。

 寺宝は大小2つの木造薬師如来立像。約1mの像は平安後期の檜の一本造り、もう1つの約35珊の像は、鎌倉時代の寄木造りで、いずれも重要文化財に指定されていて、寺の北東には紀貫之が赴任した屋敷跡もある。

 寛永11年1634に建立された大師堂は、文化年間(1804〜1809)と明治17年に修復され、また昭和35年には屋根の大修理が行われており、それまで柿葺きだった屋根が銅板葺きになった。

【余談】

 この「柿葺き」は板葺きの一種で、「こけら=薄い木片」を重ねて敷き詰めた屋根のことを指します。小さな薄い板を上下左右に何枚も重ね合わせて屋根を葺くことにより、雨水の浸透を防ぎます。

 また、切妻屋根しか葺くことができない板葺きに比べ、入母屋・寄棟屋根にも葺くことができる自在性が特徴で、室生寺金堂に見られるように、平安時代には既に屋根材として確立されていたようで、歴史のある屋根材といえます。

 ちなみに劇場の初興行を「こけら落とし」といいますが、この「こけら」と柿葺きの「こけら」は同じ意味で、木屑または木片を指し、「こけら落とし」とは、舞台が完成した時に木屑を掃き落としたことに由来します。

 

 仁王門は明暦元年(1655)、土佐二代藩主・山内忠義公が寄贈したといわれ、豪壮な二層造りで、門の左右を金剛力士が固めている。昭和62年には解体修理が行われ、階上には創建当時の梵鐘が架かっていたが、現在は金堂の中に収められている。

 口径47cm高さ63・8cm重さ225kgの梵鐘は、その形状から平安時代前期のものとされ、国の重要文化財指定さた。

 法燈1200年余年。こんもりと緑繁静閑な森の中、悠久の歴史を抱い土佐国分寺は、「諸国で最も良い土地を選んで建てよ。」という45代聖武天皇の勅願によって、高僧行基(西暦668〜748年)が天平13年(西暦741年)に創建しまし、金光明四天王護国之寺とも呼ばれてきた。

 土佐日記の作者、紀貫之(西暦868〜945?年)が国司として4年間滞在した国府の地としても知られていて、歴代天皇の尊信厚く保護され、のち長宗我部氏、山内藩主より寺領が与えられ代々伽藍の維持が計られた。

 

【由緒】

第二十九番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺

本尊:千手観世音

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:高知県南国市国分546

電話:088-862-0055

 

 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868?945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名で、貫之が国司として4年間滞在した国府は、国分寺から北東1kmほどで、「土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・文化の中心であった。

 聖武天皇(在位724?49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年の頃、土佐では行基菩薩が開山し、天下泰平と五穀豊穣、万民豊楽をねがう祈願所として開創され、歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。

 縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置し、その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められ、以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。

 本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部元親が、永禄元年に再建。柿葺き、寄棟造りで外観は天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、室町時代の特色が見られて国の重要文化財に指定されている。

 また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で豪壮な二層造りである。1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史蹟に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。

 

【屁理屈】

 色即是空 実で有れ虚で有れ 認識の問題ですが、この世にいる限り、実での認識から逃れることは出来ない

 

 

 

 

 

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第三十番札所 百々山 善楽寺

 安楽寺は延喜年間(901〜923)に、この地に配流された菅原道真の息子である朝臣・高視が、父の菩提を弔うため一時は七堂伽藍が建ち並び、境内周辺に12坊を数える大寺院となった。

 然し、応仁年間(1467〜1469〉には兵火で焼失。江戸時代中期には、僧・栄俊の手で再興され、明治時代には廃仏毀釈で廃寺となるが、明治9年に再興された。

 国分寺から高知の市街へ入る手前に土佐一宮があり、かつては神辺郷といい、土佐では最も古く開けたところで、桓武天皇のころ、弘法大師がこの地に巡錫し、土佐一ノ宮の別当寺として善楽寺を建立した。

 三十番の霊場とした以来、神宮寺とともに一ノ宮別当寺として法灯を維持してきたが、明治の廃仏毀釈で神宮寺に続いて、廃寺とな

った。(別当寺:秩父編を参照)

 一時ご本尊は安楽寺、大師像は国分寺へ移されたが、昭和四年、大師像や寺宝がもどり、三十番善楽寺は復興した。ところが安楽寺へいったご本尊は、かえらないばかりか、安楽寺は三十番の札所を主張し、一歩も譲らないため、三十番を名乗る寺が二カ所になり、遍路迷わせの札所になった。

 しかし、四国の札所は大師の霊跡が主体で、遍路はその霊跡を一途に慕い歩くのである。「いちのみや、むかしもいまも…」とご詠歌にもあるが、近年善楽寺の本堂は新築されている。

 本堂は昭和57年に建立され、その左側には歴史を感じさせる大師掌がある。この大師堂は、大正時代に建てられたが、もともと域内他地にあった堂をそのまま移動させた。

 そばには、修行大師像の姿が見られ、本堂向いには、子安地蔵堂、梅見地蔵があり、優しい顔をしたお地蔵様が鎮座していて、子宝祈願にご利益があるといわれている。

 また、この寺にはフェルト地の可愛い地蔵絵馬があり、願い事を書き込んで水子供養堂の璧にかけて帰ったり、そのまま持ち帰ったりする。請願成就に霊験あらたかと伝えられているが、特に安産、子育て、水子供養の祈願に人気だ。

 

【由緒】

第三十番札所 百々山 東明院 善楽寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

竹林寺

所在地:高知県高知市一宮しなね2丁目23-11

電話:088-846-4141

 

 高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmというこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。

 縁起によると、桓武天皇が在位(781?806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。

 以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。

 

 が、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。

 本堂左隣の大師堂は大正時代の建立で、ここの大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。

 また、境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作といわれる地蔵尊が祀られている。難産で苦しんでいる妊婦を、大師が祈祷し安産させたという伝説があり、安産や子宝祈願にご利益があるといわれる。さらに水子供養の祈願にも参詣する人が多い。

 

 

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