第三十一番札所 五台山 竹林寺

 よさこい節で歌われている僧、純信がいた寺である。ここは風光明媚な五台山の頂上にあり、楼の名所にも成っていて、寺内には、本堂と大師堂、客殿、宝物殿、五重塔などがある。

 また文殊堂は入母造りの古い建築物で、国の重要文化財に、そして本尊の文殊菩薩は四国霊場唯一のもので、国宝の指定を受けている等、この寺には多くの文化財が残つていて、文殊菩薩は知恵の仏として嵩められ、50年に一度一般公開される。

 聖武天皇は夢枕で、唐の五台山で文殊菩薩を拝まれたそうで、我が国にも五台山に似た霊地があるに違いないと、行基菩薩に探し出すよう命じられた。

 

 神亀元年(724)行基菩薩は五台山に似た山容を見つけ、ここに寺を建立し、栴檀の木に文殊菩薩を刻んで安置した。

 これが竹林寺のはじまりで、後に弘法大師が巡錫され、札所に定められた。

 五台山は市の中心から約六`。海抜百十五メートルの山頂から、高知市街や浦戸湾、桂浜も一望でき、高知第一の景勝地である。

 現存の本堂は文殊堂ともよばれ、文明年間の建立で、単層入母屋造り柿葦で、堂内には秘仏の本尊文殊菩薩が安置され、本堂向いには大師堂、一段高いところには総高三十二メートル朱塗も鮮やかな五重塔もあり、塔は昭和五十五年に建立され、夢窓国師の庭園や宝物館もある。

 土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」で知られる純信・おうまの悲恋物語の純信は、寺の脇坊妙高寺の僧で、その寺跡は牧野植物園になっている。

 

【由緒】

第三十一番札所 五台山 金色院 竹林寺

本尊:文殊菩薩

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:高知県高知市五台山3577

電話:088-882-3085

 

 学僧・名僧があつまる「南海第一道場」で、学問寺院としても知られ、鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師(1275?1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。

 また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士(1862?1957)の記念館と、県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。

 慶長6年(1601)に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛し、「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財である。

 

 この他、山門左手の宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての国指定重要文化財の仏像17躰が収蔵されており、まさに県内きっての文化財の宝庫といえる。

 眼下に高知の市街が眺められ、瓢箪形に食い込んだ浦戸湾が美しく広がって見える。

 

【屁理屈】

 生老病死・・・生はお袋と親爺任せだが、老病死は生きていれば当然有ることで、何も恐れることではない。

 何時も牛馬を殺し、蟻を踏みつけ、卵を横取りし今更何を慌てるんだ! 生殺与奪を縦にしているのに、何様のつもりだ!

 

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第三十二番札所 八葉山 禅師峰寺

五台山をあとに、下田川を渡り、トンネルを抜けると、目前に100bあまりの小高い山があらわれる。この山容が観世音の補陀治山(坂東編参照)さながらで、八葉の蓮台に似ているので、大同二年(807)弘法大師が巡錫して八葉山の山号をつけ、霊場とした。

 山麓から頂上の寺までの急な坂道を登り、仁王門へ辿りつくと、奇怪な岩石があり、幽寂な空気がただよう。ここからの景色は高知市及び太平洋を一望でき、境内からは遠く桂浜がみえる。白砂青松の美しい砂浜で西に龍王、東に龍頭の岬があり砂浜は弓形に、ながくのびている。

 土佐湾に面して立つ本堂は、潮風にさらされて表面が朽ち果てている部分も見受けられ、堂の扉は開かれており、中のきらびやかな装具が目の当たりに。漁民の安全を願う寺らしく、本堂前には、「木枯らしに岩吹き尖る杉間かな」の松尾芭蕉の句碑もある。

 山の姿が観音の浄土、天竺補陀洛山のように八葉の蓮台に似ているので、大師が山号を八葉山と名づけたとも伝えられている。大同二年大師がこの山で虚空蔵求聞持法を修されたことにちなんで、求聞寺院と号した。

 本尊の十一面観世音菩薩は、土佐沖を航行する諸船の安全を願って大師が刻んで安置したものである。のちの藩主山内一豊公が浦戸港出帆のときは必ず、当山の本尊に海上の安全を祈願したことから、俗に「船霊観音」と呼ばれ、船人たちは祟敬している。

 この寺の仁王門に立つ仏法護持の金剛力士二体は仏師定朝の作で国宝に指定されているし、寺宝には徳治三年と銘のある鐘、さらに永禄十三年銘の鰐口などがある。

 

【由緒】

第三十二番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:高知県南国市十市3084

電話:088-865-8430

 

 太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近く、小高い山、とはいっても標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。

 また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいて、漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みなこの寺に寄り航海の無事を祈った。

 縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位724?49)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。

 その後、大同2年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。

 このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。

 以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。

 仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財である。堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている。 

 芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」は、本堂前の奇岩の間にある。

【ご案内】 紙面には多少の誤りがあります。気づき次第書き換えましたが、見落としもあります。坂東巡礼記や巻頭の記述と照らして適宜訂正して下さい

 

 

 

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第三十三番札所 高福山 雪蹊寺

 この寺は弘法大師が開基したと伝えられ、当時、雪蹊寺は少林山高福寺と云ったが、鎌倉時代に仏師運慶と長男湛慶が来山し慶運寺と改め(現在、運慶、湛慶、及び一門の作による主要文化財が16体ある)、その後は廃寺となっていたのを、天正の未に月峰和上が住職になり、長宗我部元親の援助を得て、臨済宗として再興した。

 月峰和上が住職になった経緯は、歌詠み幽霊の伝説があり、「四国霊場三十三番札所に幽霊が出る」という噂が立っていた。

 廷暦年間、弘法大師が開基したときは、少林山、高福寺と号して真言宗であった。その頃のものとして、大師自作の御座大師像が現存しているが、それ以後は寺を管理する者がなかった為、荒廃の長い年月を過ごしていたのを月峰和尚が中興した。

 慶長四年、の元親の死後、寺はその菩提寺となったのを機に、元親の号をとって雪けい溪寺と改め、この寺も明治初年の神仏分離令で廃寺となったが、その後の同十二年に再興された。

 宝物としては、運慶作の本尊、薬師如来、日光月光の両菩薩があり、ほかに湛慶作の毘沙門天、脇士の吉祥天女があり、さらに海覚作の十二神将十体もある。

 運慶晩年の作といわれる薬師如来は、鎌倉時代の作風を今に伝える名品で、国の重要文化財に指定されていて、境内に入ると右手にある梵鐘には「朝破無明夢 夕闇清浄智」の銘がある。この詩は三島龍沢寺の老師で、山本玄峰の弟子である中川宗淵より贈られたものである。

 広々とした境内正面に本堂があり、この本堂には一つの額が奉納されていて、中には眼鏡が入っているが、太玄と玄峰のエピソードから眼病祈願を行い、平癒した人が奉納したと思われる。

【由緒】

第三十三番札所 高福山 雪蹊寺

本尊:薬師如来

宗派:臨済宗妙心寺派

開基:弘法大師

所在地:高知県高知市長浜857-3

電話:088-837-2233

 

 土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所とされ、幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色がある。

 一つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。

 弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。

 元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。

 二つ目は、鎌倉時代の大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首を傾げる可愛い善膩師童子像を彫造して安置したとされる。

 一時、慶運寺と名乗ったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。 

 三つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。

 雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。

 

【屁理屈】

 美味いものを幾ら食べても、明日の分まで食べられない

 

 

 

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第三十四番札所 本尾山 種間寺

 四国霊場の中で修行の道といえば、歩く道のりが長く、また、太平洋や険しい山や、自然の脅威が感じられる処を指すだろう。然し、この種間寺は、周囲に田圃が広がる、のんびりとした、寺である。

 境内は広々していて、昭和45年に台風の被害を受け、鉄筋コンクリートの本堂として再建されたという。本堂の手前には、持仏堂、大師堂、観音堂が建っている。

 用命天皇の御代のことである。百済の国の皇子の推挙により仏師、工匠たちが我が国を訪れ、それぞれの職務を果たしたのち、大阪の四天王寺の落成を期に帰国の途についた。

 帰航途中、暴風雨に襲われて寄港したのが当山近くの秋山の港であった。仏師たちは、これからの長い海上の安全を願い、四尺八寸の座像の薬師如来を刻み、秋山郷の本宅山項に安置し、安んじて船出した。

 これが寺のはじまりであり、その後に来錫した弘法大師が、その薬師如来を本尊として祀り寺を開創し、現在の寺号を名什けられた。

 山門はなく、駐車場から細長く延びた境内には、本堂、大師堂、本坊があり、伽藍は、すべて昭和45年の台風の後に再建されたもので、それまでは歴史のある堂宇が並んでいたそうだが、今はコンクリート造のモダンな堂宇となっている。

 そのため本堂は明るく、開放的な雰囲気で、本堂には春野町指定文化財(木造薬師如来立像を保存。高さ32・3m、一木造)が有るが、この像は、残念だが非公開。

 百済の仏師が彫ったとされる本尊の薬師如来像は、国宝にも指定された貴重な仏像で、旧暦1月21日は一般にも御開帳される。

 観音堂には「子育て観音」の額がかかり、観音像のまわりには、底の抜けた柄杓がずらりと奉納されていて、観音様の左手には、かわいらしい赤ん坊の像が立っている。

 

 本尊の薬師如来は、安産の薬師として有名で、妊婦は柄杓を持って寺へ詣でる。寺ではその柄杓の底を抜き、3日の間安産の祈願をして、お礼とともに柄杓を返す。

 妊婦は底の抜けた柄杓を床の間に飾り、出産後は柄杓を寺に納める。そのため底のない柄杓が寺に集まっているという。

 

【由緒】

第三十四番札所 本尾山 朱雀院 種間寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県高知市春野町秋山72

電話:088-894-2234

 

 土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようで、種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。

 6世紀のころ敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。

 彼らが渡来したのは用明天皇(在位585?87)の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中、土佐沖で強烈な暴風雨におそわれ、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。

 彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。

 その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。

 大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創した。その折に唐からもち帰った種子の、米・麦・あわ・きび・豆またはひえの五穀を、境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。

 天暦年間(947?57)には、ときの村上天皇(在位946?67)が「種間」の勅額を下賜され、また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈された。

 堂舎の修築も行われているが、やはり廃仏毀釈の難では、容赦がなかった。

 

【屁理屈】

 喋らぬ親爺も、喋りすぎる親爺も、宜しくない

 

 

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第三十五番札所 醫王山 清瀧寺

 清滝寺は医王山の山腹にあり、この札所へは、流汗坂と呼ばれている参道を登る。参道の両側が、みかん細と竹林から、深い木立に変わって、細くて急な石段を登った奥に、仁王門が現れる。

 仁王門の天井いっぱいに竜の絵が描かれていて、仁王門からまた石段を上ると、海抜400mのところにある閑静な山寺である。

 境内でまず目につくのは、本堂前に立つている薬師如来の、高い台座の上に立っている立像である。養老七年巡錫中の行基菩薩がこの地に霊気を感じ、薬師如来を刻んで本尊とし、景山密院釈本寺と名付けて開基したのがはじまりである。

 その後の弘仁年間当山に留錫した大師は、寺の北方三百メートルの岩上に壇を築き、七日間の修法を行い、その満願の日に金剛杖で壇前を突くと清水が涌きでて滝となり、溢れて鏡のような池ができた。

 そこで大師は閼伽片権現、龍王権現を勧請し、それまでの寺号を現在のものに改められ、四国第三十五番札所と定められた。なお、この寺には平城天皇の第三皇子にあたる高岳親王の逆修塔がある。

 薬子の乱に連座したとして皇子の任を解かれ、白観三年土佐の国へ下国し、当寺で修法された後、さらに求法行脚を唐に求められたと伝えられる人物である。塔は親王の節が幾久しく当山を守護すべしとして建立されたという。

 本尊の薬師如来は、一木造りの彩色像で平安時代の作といわれていて、寺宝の鋼造鏡像(かけ仏)は平安後期から鎌倉時代にかけての作品で、県指定の文化財になっている。

 山門には龍の絵が描かれていて、この龍は明治23年に土地の画家・久保南窓が描いたというが、どこに立っても目が合うことで有名である。

 ここから石段を登っていくと、正面に唐破風の本堂と大師堂が並んでいて、重要文化財に指定されている薬師如来像は、本堂裏手の宝物殿に安置されている。

 厄除けの薬師如来像本堂の前には、高さ15mの薬師如来像が鎮座しており、ご真言を唱えながらこの像の胎内くぐり(戒檀巡り)をすれぼ、厄除けにご利益があるとされ、お参りする人はひきもきらない。台座の中には大人1人が通れるくらいの狭い階段がある。

 

【由緒】

第三十五番札所 医王山 鏡池院 清瀧寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:高知県土佐市高岡町丁568-1

電話:088-852-0316

 

 土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。

 縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。

 弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810?24)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。

 満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩下から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。

 この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。

 寺伝では、平城天皇(在位806?09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名乗った。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。

 大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。

 

 厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。

 

 

【屁理屈】

 死ぬのが恐ろしいのではない!死ねないのが恐ろしい!!

 

 

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第三十六番札所 独鈷山 青龍寺

 青龍寺といえば、空海が恵果阿闍梨から密教のすべてを伝授された寺として有名である。

 空海は中国に滞在中に、「霊地にとどまりたまえ」と念じ独鈷杵(護身・供養の法具)を投げた。独鈷は東へ大きく飛び、この地の松の枝に引っかかった。

 大師は和上の恩に報いるため和国に一寺を建立せんと誓願し、杵は空高く舞い上がり、紫雲に包まれて東方へ飛翔した。

 その後、帰国した大師が四国を巡錫中、この地の山上の老松に杵があるのを見、このことを嵯峨天皇に奏聞したのち一寺を建て、山号を投げた杵にちなんで独鉢山と号し、寺号は恩師をしのんで青龍寺と名付けられ、四国三十六番札所に定められた。

 本尊の波切不動明王は、人唐の折、暴風雨に遭遇したとき、風波を切り静めようとして大師が梵字象の波切不動尊を刻んだもので、それはいまも海上の安全、豊漁等に絶大のご利益を施している。

 当寺の奥の院は、寺の南四百メートルの横浪半島突端が太平洋に落ちそうな場所にある。

 仁王門から本堂までは170段の急な石段が続き、漸く辿り着いた境内には本堂、大師堂、薬師堂が一直線に並んでいるが、これは伽藍配置といい、唐の青龍寺を模している。

 本堂には本尊の波切不動明王とともに、寄木造りの愛染明王像も安置され、愛染明王は家庭円満、縁結びの信仰を集めていて、鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。

 仁王門の左手前には恵果和尚を祀った恵果堂がある。さらに三重塔奥の山道の途中には恵果和尚の墓があり、すぐ横には滝が流れている。

 納経所横の石段を上ると、仁王門が見え、仁王門をくぐると左手に滝があり、そのそばには、平成4年建立の赤い三重塔が、緑の木立の中に建っている。

 

 本堂には海上安全を祈願する職や絵馬がたくさん奉納されていて、土佐藩主山内氏は青龍寺に帰依し、藩費によって諸堂の修造が行われたと伝えられている。

 明治の頃までは土佐七大寺の中に数えられていた大寺で、末寺四か寺、脇坊六坊を有していたという。石段を上りきったところには本堂と大師堂が並んでいる。

 向かい側には三十三観音の石像があり、どの石像にも、赤や黄の、前かけのような布がかけてある。そのため石像にもあたたかみが感じられる。

 

【由緒】

第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺

本尊:波切不動明王

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県土佐市宇佐町竜163

電話:088-856-3010

 

 青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残していて、その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。

 弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。

 帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上した。

 大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。

 明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。

 

 

 

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第三十七番札所 藤井山 岩本寺

 嘗ては福円満寺といい、天平年間に聖武天皇の勅願を奉じた行基菩薩が、七難即減、七福即生を祈念して仁井田に天の七星を象取って七ケ寺を建立し、その根本寺として福円満寺と名付けた。

 その後の弘仁年間に来錫した弘法大師が、更に五社五寺を増建して仁井田五社、十二福寺と称し大師自ら星供養曼尊茶羅を書き写し、三国相承の星供秘法を修せられ、当寺を四国三十七番札所と定められた。

 この寺には子安桜、戸たてずの庄屋、筆草、尻なし貝、三度栗、口なし蛭、桜貝など現実と法益を交ぜた七不思の伝説がある。

 本堂には天井絵と五つの本尊か祀られ、本堂が新しいだけに、すっきりした明るい雰囲気がある。

 本堂の内陣格天井絵はおもしろい。仏様や花があれば、マリリン・モンローもいる575枚。個々の存在の輝きが、天井にはめ込まれている岩本寺は、嘗ては嵯峨天皇の勅願所として御領地を賜り、信徒もたくさんいたという。その後兵火で焼失したが、幡多の一条公の力により再興 明治の廃仏毀釈で一時は廃寺となったが、同22(189)年に再興されている。

 そういう経緯があって、岩本寺には五体の本尊が祀られ、本堂では五体それぞれのご真言を唱える

 平成8年に落慶したお堂は、木造でありながら円形という珍しい建物で、本尊は大聖歓喜自在天で、歓喜天や大聖歓喜天と言つた名前でも知られている。この歓喜天は元はインドの神主であったが、仏道修行の誘惑者として様々な悪事を働いたとか。

 だが、後に仏に帰依し、財宝の神様、博愛の神様として信仰を集める。一般には商売繁盛、夫婦円満、子授け祈願、病悩祈願、盗難退散、財宝成就の民間信仰の対象として有名である。

 頭は象、体は人間の姿をしており、単身と双身がある。双身のものには夫天が象頭、婦天が猪頭という珍しいものもあるそうだが、この寺に安置されているのは双方とも象頭の双身のものである。

 一人の信心深い狩人が、岩本寺の観音様に深い信仰を寄せていた。ある日、獲物が見つからず絶望した狩人は、自らの体を矢で射抜くが、一体のお地蔵様に命を救われる。

 そのお地蔵様は「矢負い地蔵」と呼ばれ、岩本寺奥の院の本尊となっている。

【由緒】

第三十七番札所 藤井山 五智院 岩本寺

本尊:不動明王 聖観世音菩薩 阿弥陀如来

   薬師如来 地蔵菩薩

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:高知県高岡郡四万十町茂串町3-13

電話:0880-22-0376

 

 清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。

 仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。

 大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。

 歓喜天(聖天堂)天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまうが、再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。

 戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。

 再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至る。

 

【屁理屈】

 肉体が生きているのと

 人間として生きているのとは違う

 

 

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第三十八番札所 蹉?山 金剛福寺

 足摺岬は四国の最南端にあり、太平洋と向かい合っていて、黒潮の影響を受けるところで熱帯の植物が繁茂する景勝地である。その突端には白亜の灯台が立っている。これは大正3年に出来たもの以来、海の安全を見守り続けている。

 灯台のあたりは断崖絶壁で、潮風が強く、岩にくだける白い波頭や雄大な太平洋の風景は圧巻で、金剛福寺は、背後の高台に建っている。

 足摺スカイラインを行くと、岬に着くと右手に灯台、左手に金剛福寺があり、足摺宇和海国立公園になっていて、寺のまわりは老樹が鬱蒼としていて、ビラン、アコウ、椿など亜熱帯植物も繁茂し、椿の咲く頃はたいへん美しい。

 灯台や展望台へ行く途中の自然遊歩道は、椿のトンネルや足摺七不思議といわれている「一夜建立石鳥居」「亀石」「潮の満干岩」「竜の駒」などの伝説や事跡があって楽しめる。

 弘法大師が爪で「南無阿弥陀仏」の文字を彫ったと、この寺の寺宝である愛染明王座像は、平安後期の作といわれており、県指定の文化財である。

 また、弘法大師の一生を絵巻にした高野大師行状図画・全10巻のうちの5巻もこの寺にあり、高野山の僧・柘宝が応永22年(1415)に描かせたものといわれている。

 本堂に向かって右手にある不動堂のそばには、多宝塔がある。これは源氏一門の多田満仲が建立したと謂われ、多宝塔の後方には、和泉式部が自らの黒髪を埋めて供養した逆修塔がある。

 (逆修塔は、生前に建てる供養塔のこと)

 嵯峨天皇より「補陀落東門」の勅願を賜わった弘法大師は、弘仁十三年(823)足摺岬に来錫し、三面千手観世音菩薩を刻み、それを本尊として寺を開創され日輪山・金剛福寺と号し四国第三十八番札所に定められた。

 その月輪山の山号を現在のものに改めたのは金峰上人が住職をしていたときのことである。その頃、岬周辺で暴れ狂っていた天魔を上人が法力をもって蹉柁して退かせたことにちなんで現在の蹉蛇山と改号した。

 当山は嵯峨天皇以来、代々の天皇の勅願所となり、室町時代には京都の尊海法親王が下向されて住職をしていたこともあり、また、武将たち、とりわけ源家一門との縁が深く、多堂塔をはじめ諸堂の建立を受けている。

 ちなみに、境内の広さは三万六千坪、それは岬一円を覆っていて、突端周辺と寺内には次のような大師七不思議の遺跡がある。ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩などである。

 

【由緒】

第三十八番札所 蹉蛇山 補陀洛院 金剛福寺

本尊:千手観世音

宗派:真言宗豊山派

開基:弘法大師

所在地:高知県土佐清水市足摺岬214-1

電話:0880-88-0038

 

 四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000平方メートルを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。

 ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。

 岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音の浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。

 前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。

 縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに三面千手観音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名、金剛杵ともいう。

 

 また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となっていたが、武将からも尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。

 戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。

 大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。

 

 

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第三十九番札所 赤亀山 延光寺

 神亀元年(724)、聖武天皇の勅願を受け行基が開基し、本坊と12坊を建立願所となり、弘法大師が巡錫の地である。

 日光・月光の両脇侍を安置し寺を再興し、山号を薬師の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺号を宝光寺と名付けた。

 のちの廷暦十四年(795)当地へ来錫した弘法大師は、当寺の霊域を天皇に秦答し勅願所として増再建、日光月光の両菩薩を刻んで脇侍とされたという。

 更に大師は、中山郷の里人たちが飲み水に苦しんでいるのを見、錫杖で地面を突き、清水を涌出させて里人の苦境を救ったという故事もあり、この水は(目洗い井戸)と呼ばれて本堂の横にある。

 眼病に御利益があると伝えられ、信者は井戸水で日を洗って眼病治癒を祈願している。

 延喜11年(911)の銘が入った梵鐘は、国の重要文化財に指定された寺宝で、赤い亀が背中に乗せて、竜宮城から持ち帰ったものであるといわれている。この時より寺の山号はこの伝説にちなんで、赤亀山廷光寺と改められたと云う。その奇蹟躇を愛で、それまでの山号院号寺号を現在のものに改写し、寺宝に梵鐘、帰勢金岡筆の笑不動の軸などがある。

 中世に入って寺は大いに栄えたものの、近世には寺運は衰退し、一時廃寺となるが、間もなく再興された。広々とした境内に建つ堂宇は本堂と大師堂のろいずれも500mほど離れた場所には奥の院、南光院がある。

【由緒】

第三十九番札所 赤亀山 寺山院 延光寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:高知県宿毛市平田町中山390

電話:0880-66-0225

 

 土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。

 僧たちは早速これを寺に奉納して、此までの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。

 縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724?49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。

 当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。

 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782?805)で、桓武天皇(在位781?806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。

 このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

【屁理屈】

 人が去り、僧が去っても、寺は残る

 寺が残り、人が来たれば、僧も来る

 僧来たれば、利益を求めて人来る

 

 

 

愛媛県(伊予) 40〜65 菩提の道場 

40 平城山 観自在寺はこの先にあります

 

 

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40 平城山 観自在寺

41 稲荷山 龍光寺

42 一果山 佛木寺

43 源光山 明石寺

44 菅生山 大寶寺

45 海岸山 岩屋寺

46 医王山 浄瑠璃寺

47 熊野山 八坂寺

48 清滝山 西林寺

49 西林山 浄土寺

50 東山 繁多寺

51 熊野山 石手寺

52 瀧雲山 太山寺

53 須賀山 圓明寺

54 近見山 延命寺

55 別宮山 南光坊

56 金輪山 泰山寺

57 府頭山 栄福寺

58 作礼山 仙遊寺

59 金光山 国分寺

60 石?山 横峰寺

61 栴檀山 香園寺

62 天養山 宝寿寺

63 密教山 吉祥寺

64 石?山 前神寺

65 由霊山 三角寺

 

【注】

 88霊場巡礼の記事は、巡拝の際に収集した観光案内や寺院案内、寺院縁起などを、ほぼそのまま転記したものです。

 記事には誤謬や虚構(現実には存在しない物事)も記されています。記事を信ずるか否かは、ご自分の責に因ります。

 

☆伊予(菩提の道場)愛媛県にある40 - 65番までの寺院

 

 

第四十番札所 平城山 観自在寺

 大同二年、平城天皇の勅願所として弘法大師によって開創され、後に平城天皇は落髪し弘仁十二年には弘法大師から潅項を授けられたと云う。

 大師は一木に本尊薬師如来、脇仏阿弥陀如来、十一面観世音の三体を刻まれ、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた。この宝判は、大師が諸人の病根を除くことを祈願したものといわれ、現在もこの宝判でおかげをうけた人が多く、盲目や心臓病が治ったという。

 昔は七堂伽藍が整い、四十の末寺を有したが、その後火災で灰焼に帰し、延宝六年に再建されたが、昭和三十四年の失火で本堂が焼失し、現存の本堂はその後の建立された。

 今から約200年前に建立された山門は、威風堂々としたたたずまいで、御荘町の文化財にも指定されていて、天井の方位盤は特に有名である。仁王像は下久家の大工の作で、また現在の額は高野山401世座主の筆によるものである。

 

 八体仏十二支守り本尊は、昭和53年に四国霊場巡拝者の希望により十二支守り本尊が彫刻されたものである。

 かつてこの寺には、平城天皇手植えの松といわれる古木があったが、昭和19年に台風で倒れたため、現在はその切り株の中に昭和天皇の御手植えを頂き、古の面影を今に伝えている。

 

【由緒】

第四十番札所 平城山 薬師院 観自在寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗大覚寺派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県宇和郡愛南町御荘平城2253-1

電話:0895-72-0416

 

 愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。

 縁起を紐解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806?09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。

 このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。

 平城天皇は、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809?23)とともに親しく行幸され、御朱印を下賜され『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わし護摩供の秘法を修された。

 こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。

 寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かった。この頃は七堂伽藍が聳え、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。

 だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

 

 

 

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