第六十一番札所 栴檀山 香園寺

 「これが札所?」 初めて参詣をする人なら誰も驚くのが、ここ61番香園寺である。なぜなら、遍路を迎えるのは鉄筋コンクリート建ての大きな大聖堂で、2階大師堂へは右左側から上がります!

 大師堂へ行き驚き! 

 1F若しくは2Fでお努めいたします

 2階 本堂 大日如来

 寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈って聖徳太子が創建し、このとき金衣白髪の老翁が飛来してご本尊を安置したという。天平年間には行基菩薩も留錫し、大同年間になると弘法大師が巡錫され、この地で身重な女が苦しんでいたが、大師のお加持で安産した。

 この勝緑によって大師は唐から奉持した大日如来の金像をご本尊の偶に納め、栴檀の香をたいて護摩修法された。

 これにちなんで栴檀山香園寺と号し、大正のはじめ、住職の山岡瑞園師は子安講を創始し、難産で苦しむ女性の祈祷をされた。子安講は発展し、「子安の大師」で知られる。

 寺は小松町のはずれにあり、山麓の一万坪の境内には、昭和五十一年建立の大聖堂(本堂、大師堂)、五百名収容の宿坊、庫裡などが建ち並んでいる。

 それだけに大きな団体や、巡拝日程の変更などで宿泊に因っている遍路など、受入れ体制が整っているだけに安心して参籠を願うことができる。

 昭和51年に建てられた大聖堂は、本堂と大師堂を兼ねた建物で、1階が大講堂、2階が本堂と大師堂になっており、正面に本尊がまつられている。大聖堂は正面から拝むことができるほか、横の入口から内陣に入ることもできる。

 堂内・正面には黄金色の巨大な大日如来(本尊)、脇侍の不動明王、子安大師がまつられている。

 本堂だけでも600余りの固定席があり、まるでコンサートホールのような広さである。通称は「褐色の大聖堂」。

 子安会館・遍照会舘は所謂宿坊で、冷暖房完備の建物は、ホテル並みの豪華さを誇っている。収容人数は250名。子安大師像境内の一隅にある子安大師像は、背中にゴザを背負い、右手に錫杖を持っている。

 左手に赤ちゃんを抱かれた姿は、優しさいっぱいで、安産・子育てに関する信仰を集めている。

 三十一代用明天皇が御病気の砌、霊夢をご覧になり即ち,七彩の雲,天より降り金衣白髪の老翁現れ、二名の島(現在の四国)に霊地あり、梵舎一宇を建立せば病脳忽ち平癒すべし!と、聖徳太子は命を受けてこの地に渡り、あまねく霊地を探される時、林の中で一夜を過ごされし暁方、霊鳥に乗って金衣白髪の老翁飛来し、仏法有縁の霊境なりと告ぐ。

 よって、ここに七堂伽藍を建立し、竣工の折彼の老翁ふたたび飛来し一七日の間御堂に篭り本尊を安置す。天皇の御病気平癒し、教王院の山号をたまわり、祈願寺となされる。

 後、天平年間に行基菩薩御止錫され、堂宇を建立して十方信徒を済度されしというも詳らかならず。

 

【由緒】

第六十一番札所 栴檀山 教王院 香園寺

本尊:大日如来

宗派:真言宗

開基:聖徳太子

所在地:愛媛県西条市小松町南川甲19

電話:0898-72-3861

 

 香園寺は聖徳太子(574?622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構え、また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20.000人を超えている。

 縁起によると、用明天皇(在位585?87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。

 のち、天平年間(729?49)には行基菩薩(668?749)が訪ねている。弘法大師が訪れたのは大同年間(806?10)であった。

 ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。

 本堂・大師堂以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚はもとより、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。

 

 

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第六十二番札所 天養山 宝寿寺

 香園寺から、国道11号に沿って1KM先の、国道沿いにあり、山門をくぐると、右手に大きいチシャの木があって、枝を広げる樹の下に大師堂が建っている。

 短い参道の正面に本堂があり、境内に子安観音の石像が立っていて、目尻の下がった観世音像は、慈愛に満ちてやさしそうな表情をしている。

 大師堂には赤い柄の涎掛けがたくさん奉納されていて、この寺も若い母親の尊信を集めている。境内には鐘楼もあり、宝寿寺は天平年間(729〜48)に聖武天皇の勅願により、伊予国一の宮の御法楽所として建立された。

 このとき聖武天皇は金光明最勝王経を納めたと伝えられ、当時は金剛宝寺と称していたという。場所も現在地でなく、近くを流れる中山川下流域にあったらしい。

 その後、弘法大師が巡錫したときに、光明皇后をイメージして十一面観音を刻んで安置し、寺号を宝寿寺と改めたという。このころ国司だった越智氏の夫人は難産で、大師に祈念を頼んだ。

 大師は宝寿寺境内の玉ノ井の水を加持して、越智夫人に与え、夫人は玉のような男子を安産し、生まれた子供に玉澄という名前をつけた。

 本尊の観音は守り神として親しまれ、多くの人たちの信仰を集め、寺は栄えたと伝えられている。その後数度の洪水で堂塔に被害を受け荒れ果てていたが、天養2年(1144)に再建されたのでその年の年号にちなんで天養川と改号した。

 

【由緒】

第六十二番札所 天養山 観音院 宝寿寺

本尊:十一面観世音

宗派:高野山真言宗

開基:聖武天皇

所在地:愛媛県西条市小松町新屋敷甲428

電話:0898-72-2210

 

 寺はJR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100mと近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。

 往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。

 縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724?49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(??744)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。

 このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806?10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。

 これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。

 ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。

 以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の神仏判然令に遭い、一時衰退したが明治10年に再建されている。

 

【屁理屈】

 人は夢を持てと謂う

 夢は醒めれば消え失せる

 

 

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第六十三番札所 密教山 吉祥寺

 宝寿寺から国道十一号線を1.3`行くと道沿いに吉祥寺があり、ご本尊は毘沙門天で脇士は吉祥天と善膩師童子である。弘法大師が人々の貧苦を救わんものと一刀三礼して刻まれた。

 そのころ寺は坂元山にあり、寺域も広く塔中二十一坊を有する大伽藍であったが、天正の兵火で全山焼失し、万治二年(1659)末寺の檜木寺と合伴して現在地に建立された。

 ご本尊と大師堂の参拝が済んだ遍路は、本堂前の成就石に向かって歩き、目をつぶり、願いごとを念じながら、金剛杖を下段に構え、石の穴に金剛杖が通れば願いごとが成就するという。

 

寺宝にマリア観音像がある。高麗焼の純白な像(高さ三十センチ)は長宗我部元親がイスパニア船サン・クユリッペ号の船長バードレから託されたもので、その後家臣の秦備前守が秘蔵し、家族に不幸が続いたので吉祥寺へ預けたという。

 仏仁年観、仏法大師がこの地を巡錫中、光りを放つ桧をご覧になりこれこそ巾霊木なりと感得し、ただちに毘沙門天 四国霊場唯一の天吉祥天と善膩師童子の三像を刻むと、坂元山の小復に堂塔を建て毘沙門人を本尊とし、ほか二尊を脇仏として安置した。

 

【由緒】

第六十三番札所 密教山 胎蔵院 吉祥寺

本尊:毘沙聞天

宗派:真言宗東寺派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県西条市氷見乙1048

電話:0897-57-8863

 

東西に走る国道11号線と、JR予讃線に挟まれて所在する。かつては塔頭21坊の伽藍を誇った大寺域は、やはり近代化された道路と鉄道によって狭められた。

 四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどると、弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。

 大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。

 そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。

 その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。

 寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。

 

土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れていて、寺にはほかに鎌倉時代の「十二天屏風」、室町時代の「山越阿弥陀三尊像」(紙本著色)などが保存されている。

 

【屁理屈】

 人は何故生殺与奪を縦にするのか?

 人には知恵がある!

 知恵があれば良いのか?

 情があれば良いのか?

 知恵もなく、情もない人は沢山いる!

 

 

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第六十四番札所 石鉄山 前神寺

 石鎚山(1981m)は七〜八世紀のころ、役小角によって開かれたと伝えられ、古くから日本七霊山の一つに数えられている。小角は山頂で苦修練行し、蔵王権現を感得し、尊像を刻んで奉安した。

 その後桓武天皇が病気平癒を祈願し成就したので七堂伽藍を建立し金色院前神寺とした。弘法大師も登山して求開持法を修し、霊場に定めた。

 前神寺は横峰寺とともに山項天狗岳にある石鉄権現の別当寺で、また、東の遥拝所であった。明治の神仏分離で寺は現在地に移り、慶長年間に建てられた山頂近くの成就(海抜一五0メートル)には前神寺の出張所があり、ここを奥前神寺といい、麓の本寺を里前神寺という。毎年七月一日から十日間が「お山開き」里前神寺より黒瀬峠を越え成就から石鎚山項へ、白衣に旬をかためた数万の信者が仏名を称えながら登る。近年再建の本堂にはご本尊の阿弥陀如来が安置され、境内には大師堂、金毘羅堂、お滝不動、薬師堂、石鉄権現堂などがある

 

【由緒】

第六十四番札所 石鉄山 金色院 前神寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:真言宗石鉄派

開基:役行者

所在地:愛媛県西条市洲之内甲1426

電話:0897-56-6995

 

 前神寺は、山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つで、国定公園・石鎚山(標高1982m)の麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。

 弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。

 縁起によると、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673?86)のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。

 その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされ、その後、桓武天皇(在位781?806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。

 以来、歴代天皇の帰依が厚く、仏像や経巻がしばしば奉納され、諸堂の修復や増築にも寄与されている。また、江戸時代には西条藩主・松平家の祈願所になるなど、寺運は隆盛を極めた。

 しかし、明治新政府の神仏分離令により寺領を没収され、廃寺を余儀なくされた。その間、石鎚神社が建立されたりしたが、明治22年

に霊場として復興した。

 信徒は、現在300,000人を超すといわれ、毎年7月1日からの「お山開き」には数万人にのぼる白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和している。

 

【屁理屈】

 人類が生殺与奪を縦に出来るのは、この地球上で“力”が有るからだ! 何故力があるのだ?

 地球の環境が人類の生存に適しているからだ!

 地球の環境が変われば、人類は生殺与奪を縦にされる立場になる!

 人間の知識は、宇宙の“力”より劣る

 

 

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第六十五番札所 由霊山 三角寺

 三角寺へは三角寺山(海抜四五〇メートル)の中腹にある寺までは急な坂道を登る。仁王門からは正面に庫裡、左に本堂がある。

 聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基し、弘法大師が登山されて、ご本尊十一面観世音を刻まれ、さらに不動明王を彫刻し、三角形の護摩壇を築き、二十一日の間降伏の秘法を修された。

 三角寺の寺号はこの護摩壇に由来し、嵯峨天皇はご本尊を深く信仰し、寺領三百町歩を下賜し、堂塔を造営している。

 現在の建物は嘉永二年(1894)の建物ではなく再建で、ご本尊は子安観音・厄除観音として信仰されている。

 それは妊娠した婦人が寺の庫裡にある杓子をひそかに持出し、お産のときに床下へおくと安産できるという風習で、妊婦が見えると寺の人は見てみぬふりをし、安産すれば新しい杓子を持ってお礼まいりにくる。

 大平年間、聖武天皇の刺願により行基菩薩が、弥勒菩薩の居る浄土に模して開創した寺で、その後弘仁六年来錫した弘法大帥が本尊の十一面観世音菩薩を刻み、さらに.三角の護摩壇を築いて十一日間、降伏護摩秘法を修せられたのち四国65番札析と定められた。

 

【由緒】

第六十五番札所 由霊山 慈尊院 三角寺

本尊:十一面観世音

宗派:高野山真言宗

開基:行基

所在地:愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75

電話:0896-56-3065

 

 江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。

 伊予最後の霊場で、標高は約430m、平石山の中腹にあり、縁起では、聖武天皇(在位724?49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。

 その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。

 この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。また、嵯峨天皇(在位809?23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。

 だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失し、現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)で、昭和46年に修復されている。

 

本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいて、ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。

 子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。

 

 【屁理屈】

 人類は遠くない将来、(人類の歴史を勘案すれば自ずと数値は導ける)自滅するだろう。

 人類も生命体の一つだから!数が多く成りすぎると、自滅して適宜な数値で落ち着く。人類の場合は、互いの殺し合いだろう!

 

 

 

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香川県(讃岐) 66〜88 涅槃の道場 

第六十六番 雲辺寺はこの続きに有ります

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注;六十六番は徳島県の地図にあります

66 巨鼇山 雲辺寺

67 小松尾山 大興寺

68 琴弾山 神恵院

69 七宝山 観音寺

70 七宝山 本山寺

71 剣五山 弥谷寺

72 我拝師山 曼荼羅寺

73 我拝師山 出釈迦寺

74 医王山 甲山寺

75 五岳山 善通寺

76 鶏足山 金倉寺

78 仏光山 郷照寺

79 金華山 天皇寺

80 白牛山 國分寺

81 綾松山 白峯寺

82 青峰山 根香寺

83 神毫山 一宮寺

84 南面山 屋島寺

85 五剣山 八栗寺

86 補陀洛山 志度寺

87 補陀洛山 長尾寺

88 医王山 大窪寺

77 桑多山 道隆寺

高野山 金剛峯寺

 

【注】

 88霊場巡礼の記事は、巡拝の際に収集した観光案内や寺院案内、寺院縁起などを、ほぼそのまま転記したものです。

 記事には誤謬や虚構(現実には存在しない物事)も記されています。記事を信ずるか否かは、ご自分の責に因ります。

 

☆讃岐(涅槃の道場)香川県にある66 - 88番までの寺院。

 ただし、66番は香川県・徳島県境の徳島県側にある。

 

 

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第六十六番札所 巨鼇山 雲辺寺

 雲辺寺は雲辺寺山の山頂にあり、雲辺寺山は921mの山だから、雲辺寺は四国霊場では一番高所の札所ということになる。

 以前はバスで雲辺寺口まで行って、徒歩で2時間ほど山道を登る難所の一つだったが、今ではロープウェイで7分ほどで、雲の中を通り抜けながら、難なく山頂まで行ける。

 ロープウェイの山頂駅から本堂までは、400メートル程度歩くと、山頂には広い境内がある。樹木に覆われた茶色い屋根の仁王門は素朴で、門の中では赤い仁王像が睨みをきかせている。

 本堂のまわりには杉の巨木が生い茂っていて、本堂は簡素でがっちりしていて、如何にも山寺という感じで、ほかに大師堂、護摩堂、書院、鐘楼堂などがある。

 五百羅漢像は弘法大師が入唐の際、初めて土を踏んだ

 

赤岸鎮福建省の五百羅漢院の羅漢像を模して刻んだもので、山頂駅から境内に到る彼方此方に安置されており、近年、完成予定の由。 (址所は福建省赤岸鎮)

 羅漢とは、釈迦の弟子と成って悟りを開き、庶民の立場で因縁を説いた聖者で、喜怒哀楽に満ちた様々な表情が並んでいる。

 

 おたのみ茄子は、本堂の脇にある、ブロンズ製の茄子の形をした腰掛けで、「親の教えと茄子の花は千に一つの無駄もない」の諺にもあるように、茄子の花は一つの無駄もなく実るもの。

 また、「なす」と「成す」をかけて(語呂)、努力が認められて願いが叶えられると言われている。だから、これに座って「お頼みなす」と願を掛ければ、いつか叶う日がくるかも知れない。

 寺が創建されたのは、延暦8年(789)。弘法大師が16歳の頃、寺の建築材を求めて登山したところ、霊山の趣に引かれて堂宇を作ったのが始まりで、以後は僧侶達の学問を修める場として栄えた。

 鎌倉時代には関所の役割も兼ねた大寺院だったと云い、戦国時代には土佐の長宗我部元親が登山し、眼下に広がる讃岐や伊予の平野を望みながら四国併合の野望を抱いた話は有名である。

 元親が自分の野望を当時の住職俊崇坊に打ち明けると、「あなたの器は土佐一国の主だ。それが四国の主になろうとは、茶釜の蓋で水桶の蓋をするようなもの。今は兵を引いて土佐へ帰り、領民を愛するが良い」と説法したという。

 戦いにおいては手段を選ばぬ元親が、この時ばかりは住職の言うことを聞き、雲辺寺も戦禍を免れた。

 

【由緒】

第六十六番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺

本尊:千手観世音

宗派:真言宗御室派

開基:弘法大師

所在地:徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2

電話:0883-74-0066

 

 四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。

 住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めで、いわば「関所寺」である。

 縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っていて、最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。

 これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたと云い、さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809?23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。

 霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。

 貞観年間(859?77)には清和天皇(在位858?76)の勅願寺にも成って、鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。

 

 天正年間(1573?92)に土佐の豪族・長宗我部元親が、この地の白地城に陣して雲辺寺に参拝し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の住職に諫められた。

 雲辺寺の歴史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護をうけ、千古の杉に囲まれ、雲に包まれながら法灯を守っている。

 

 

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第六十七番札所 小松尾山 大興寺

ここの境内に3本葉松があり、その葉を財布に入れておくと金持ちになるそうです。皆さんもどうぞ!

 仁王門の金剛力士像は、彩色を施した桧材の寄木造りで、鎌倉時代の作とされ、作者は運慶と寺伝にはあるが、頭の部分だけは江戸時代に替えられたものと言われている。

 天台大師堂本堂の右手にあるのが、中国の天台宗第三祖天台大師智顛を祀る天台大師堂で、中に納められている大師座像は、彩色を施した桧材の寄像高は31.4mあり、腰から下の量感あふれる線は力強く、鎌倉時代特有の動きがよく出ている。

 その迫力は見る者を圧倒するものがあり、県の文化財に指定され、木造りで鎌倉時代の作。頭に頭巾を抱き、納衣の上に袈裟をかけ、両手は腹の前で禅定印を結んでいて、天台大師の古い像は全国でも少なく、県の文化財に指定きれている。

 地元では「小松尾寺」と呼ばれていて、まわりは田園地帯で、寺の前には小川が流れ、小さい石橋がかかっている。橋を渡るとすぐ仁王門がある。

 この仁王門は八百屋お七で知られる吉三郎が遍路中に寄進したという伝説があり、仁王像は鎌倉時代の運慶作といい、その迫力は四国一とのことである。

 仁王門をくぐると92段の石段を登って境内へ行き、正面の本堂は古寺の情緒があり、本堂の左手に大師堂、右手には天台師(天台大師智豊頁)堂がある。

 真言宗の開祖弘法大師空海と、天台宗第三世天台大師智顛の南開祖が仲良く同居しているので、一瞬あれっと思わせる。しかしそこが四国霊場の懐の深いところだろう。

(寺の案内では三本葉の松葉はこの寺特有といわれたが、外にも有って珍しい松葉ではありませんでした)

 天台宗といえば最澄て゛空海と最澄の二人は、同時期に遺唐便船で唐へ留学した仲で、互いに尊敬しあい、最澄は空海から密典十二部を借りたり、高雄山寺で空海が開壇した濯頂という儀式を受けたりした。

 だがその後は、最澄からの埋趣釈経借覧に対して、空海が断りの手紙をだし、また最澄の弟子である泰範が、空海のもとから帰らなくなったことなどから、二人は決別する。

 空海は高野山を修行の地とし、最澄は比叡山延暦寺に戒壇を設け、どちらも日本の歴史に残る人物で、この二人の間には思想上の対決と離別があったのだろう。

 しかしこの大興寺は真言、天台の二宗の修行道場で、一時は真言二十四坊、天台十二妨があったという。

 

【由緒】

第六十七番札所 小松尾山 不動光院 大興寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗善通寺派

開基:弘法大師

所在地:香川県三豊市山本町辻4209

電話:0875-63-2341

 

 地元では大興寺というより、山号に因む「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。

 縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。

 しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残して悉くを焼失、慶長年間(1596?1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。

 現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。

 そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂と共に、右側に天台宗第三祖智を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。

 また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。

 香川県の文化財として指定されているのは次の4件で、1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作と、更に鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチで、天台大師の彫像は極めて少ない。

 

 仁王門にある雄渾な2体の金剛力士立像は、運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。

 「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。

 

 

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第六十八番札所 琴弾山 神恵院

 観音寺市には、財田川が流れている。この川の向こうの神恵院は琴弾山東側の山麓にある。短い石段を上ると、仁王門があり、向かって右には、六十八番、六十九番札所が同じ場所にあり、一山に二ヶ寺あるのは、四国霊場中ここだけで、納経も1カ所で2ケ寺朱印してもらうことが出来る。

 

 文武天皇の頃、法相宗の日証上人が山頂に草庵を結んで修行中、海の彼方に神船が浮んで琴の音が聞こえ、宇佐八幡のお告げがあり、その神船と琴を引き上げて山頂に祀った。

 この神船は神功皇后縁のある船で、皇后の像も合祀し、大宝三年(703)八幡の本地仏である阿弥陀如来の尊像を安置した。

 養老六年(722)には、行基菩薩が巡錫し、後に弘法大師もこの地に巡錫して、阿弥陀如来の尊像を描いて本尊とし、六十八番の霊場に定め、寺号を琴弾山神意院と名づけた。

 明治の神仏分離で八幡宮に安置の阿弥陀如来は観音寺の境内に移遷され、琴弾八幡宮と神恵院に分離し、それぞれ独立して、神恵院は観音寺と同居のかたちをとり、本堂、大師堂は一段高いところに移建した。

 釈迦捏槃像と琴弾八幡本地仏像図、琴弾宮縁起図など、国の重要文化財に指定された寺宝を数多く安置していて、釈迦涅槃像は、釈迦の臨終横臥の姿を模ったもので、沙羅双樹の下で頭を北に向けて右脇を下にし、両足を重ね揃えて身を横たえている寝姿が彫刻されたものは、日本では数少なく珍しい。桧材の寄木白木造りで、全長柔和優麗で、釈迦入減の劇的な一瞬を小さな像に巧みに表現している。

 琴弾宮縁起因は、日証上人が琴弾八幡宮を造つた由来を描いた大和絵で、鎌倉中期の作品と言われている。これらの寺宝は普段、目にすることはできないが、この寺の縁日である1月と8月の16日のみ、宝物館の扉が開かれる。

 徒歩10分車(可)琴弾公園内山頂に行くと、寛永通宝砂絵が見る事が出来る。また、隣には、現代漢詩家の高橋藍川の漢詩碑が建立されている。「白帆鷺の如く滄溟に入り、水愈碧に松愈青し。通年千年客の拾うなく,砂浜歴々銭形を見る。」

「白帆如鷺入滄溟、水愈碧松愈青。通年千年客無拾,砂浜歴々見銭形。」(高橋藍川師は僧侶で和歌山田辺の人。著者が若い頃漢詩を学んだ師である)

 

【由緒】

第六十八番札所 七宝山 神恵院

本尊:阿弥陀如来

宗派:真言宗大覚寺派

開基:日証上人

所在地:香川県観音寺市八幡町1-2-7

電話:0875-25-3871

 

 六十八番の神恵院と六十九番の観音寺は、共に琴弾公園内の琴弾山の中腹にあり、2つの札所が同じ境内に存在すると言う珍しい霊場である。

 開基は法相宗の高僧と日証上人といわれ、大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見した。

 琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀った。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされ、大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場とした。

 その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転し、同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に移された。

 以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っている。

 

 

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第六十九番札所 七宝山 観音寺

 金堂とも呼ばれる本堂は、国の重要文化財に指定。室町時代初期の建築とされ、文明4年〜大永5年(1472〜1525)の聞に大修復が行われ、昭和36年(1959)にも解体修理が施された。

 本堂には、本尊の聖観世音菩薩と薬師如来、阿弥陀如来座像を安置し、雑木林の緑を背景にした姿は、朱塗りの柱が鮮やかさと、室町時代の面影そのままに、簡素で雅びな雰囲気がある。

 観音寺の寺伝によれば、大師は神恵院を霊場に定めた時、神功皇后は観世音の生まれかわりとして聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置し、八幡宮の別当寺として六十九番の霊場に定めた。

 仁王門を入った右に本堂(金堂)がある。文明四年から大永五年(1472〜1525)の間に大修復し、昭和三十四年にも解体修理して、重要文化財に指定されている。

観音寺の伽藍配置は奈良興福寺の東西金堂、中本堂の制にならっており、中本堂には聖観世音、西金堂には薬師如来と十二神像、東金堂には弥勒菩薩を安置していた。

現在は西金堂に神恵院があり、薬師如来は本堂に奉安されていて、大師堂は神恵院への登り口にある愛染堂に隣接し、庫裡では一山二ヶ寺分の納経朱印を扱っている。

 ところで本尊厨子の裏板には、貞和三年(1347)、常州下妻の僧の落書があり、このころ茨城下妻から四国遍路に訪れていることが知られる。

 一夜庵は俳聖とも言われる俳譜の祖・山崎宗鑑が、観音寺の近くの興昌寺境内に結んだ庵で、享禄元年(1528年)の建築で、日本最古の俳跡と言われる。名の由来は、宗鑑が来客に一夜以上は滞在させなかったという由。

 山口の井戸は琴弾公園の中にある湧き水で、平安時代、日照りで飲み水にも苦しんでいる人々を救おうと、当時観音寺の住職だった弘法大師が掘ったと伝えられる。昭和初期まで水源として使われていたものを整備復元した。

鐘楼の彫刻が豪華なので写真に収めた!

 

【由緒】

第六十九番札所 七宝山 観音寺

本尊:聖観世音

宗派:真言宗大覚寺派

開基:日証上人

所在地:香川県観音寺市八幡町1-2-7

電話:0875-25-3871

 

 観音寺は第六十八番の神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。

 以来、100年後の縁起から辿ると、大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。

 大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。

 さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。

 桓武天皇(在位781?806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子の道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。

 だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財で、朱塗りの柱が色鮮やかである。

 境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安?鎌倉時代)をはじめ、絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵さる。

 

【屁理屈】

 毛虫は潰し猫は愛でる

 鰯は殺し鯉は愛でる

 

 

 

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第七十番札所 七宝山 本山寺

 本山寺は、財田川北岸にあって、単調な田園風景の中に、遠くからでも境内にある五重塔がくっきりと見える。本堂は一重の本瓦葦きの重厚な建物で、国宝に指定されている。

 正安2(1300)年の墨書が礎石ならび棟札に記されていて、本堂は鎌倉時代に大修理されているから、その時の墨書だろう。

 昭和27〜30年には解体修理され、建立当時の形に復元されていて、正面の仁王門はどっしりした八脚門で、唐風の絵模様の彫刻があり、この仁王門は久安3(1147)年建立で、国の重要文化財になっている。

 本堂は、弘法大師が平城天皇の勅願により大同2(807)年に建てたもので、この時、本尊の馬頭観音と脇仏の薬師如来と阿弥陀如来を一刀三礼にて刻み、安置したと伝えられている。

 現在の境内は2万uだが、往時は一村を占める広大な寺域を持ち、寺運は隆盛を極め、二十余坊に余る塔頭が建ち並び、壮観だったという。だがこの名刹にも天正の兵火はおよび、長宗我部元親が讃岐に攻め入って寺を焼きうちにしたとき、本山寺にも軍勢が押し寄せたが当時の住職は「境内には一歩も入るな」と兵士の前に立ちはだかった。

 本山寺鎮守堂は桧皮葺きの美しい傾斜を見せる室町時代末期の様式を残す小社で、天文16年1547建立の墨書が残り、安置されていた善女竜王像は南北朝時代から室町時代初期のもので、請雨秘法の霊神で、弘法大師が雨請いの修法を行った折に、その勧進によって姿を現したという。

 平城天皇(在位806〜809)の勅願によって弘法大師が建立したが、讃岐の山では用材が見つからず、阿波の井ノ内谷まで行って用材を伐ってきたという。

 

 本尊の馬頭観音、脇侍の薬師如来、阿弥陀如来も、そのときに刻み、馬頭観音を本尊となのは、八十八ヶ所ではここだけである。

 二十余りの坊をもち隆盛を極めたが、長宗我部氏が讃岐を平定しようと乗り込み、この寺を本陣にしようとしたが、住職は境内に押し入ろうとする兵を押し留め、斬られてしまった。

 

 さらに進んだ兵が建物の内に入ると、脇侍の阿弥陀如釆の右の肘から血がしたたり落ちたたと伝える。

 そんな訳で戦国の兵火や火災などはまぬがれている。ために久安三年建立の仁王門、大同四年建立の五重の塔などは往占の姿そのままで残されている。

 本堂は正安二年(1300)の建築で七間四面の堂字は県内寺院では唯一の国宝建造物の指定を受けている。

 

【由緒】

第七十番札所 七宝山 持宝院 本山寺

本尊:馬頭観世音

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:香川県三豊市豊中町本山甲1445

電話:0875-62-2007

 

 五重塔は、四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺と、この本山寺の4ヶ所だけという。大同4年(809)の建立だが、損傷が激しく明治43年に再建された。

 

 また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一である。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えている。

 大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残りる。

 およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせる。

 

 

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七十一 剣五山 弥谷寺へ