第七十一番札所 剣五山 弥谷寺

 寺は標高380mの弥谷山の中腹にある。三つの峰からなっているので三乗の峰といわれ、昔から死霊のゆく山と信じられている。

 山麓までの坂道を登ると、仁王門の手前に、名物の飴湯とトコロテンを売る俳句茶屋があり、門を潜ると262段の石段があり、元禄年間に住僧覚林が造顕した観音像が奉安されており、さらに登れば、大師堂、鐘楼堂、岩窟の護摩堂、岩壁に刻まれた弥陀三尊などが、本堂には千手観世音がご本尊として奉安されている。

 寺は行基菩薩の開創で、聖武天皇が堂塔を建立し、後に、弘法大師が七歳のときこの山で苦行し、大同二年(807)再び登山して求聞持の秘法を修される時、五柄の剣を得るとともに、蔵王権現のお告げがあり、これに基づき大師は千手観世音を刻み本尊とした。

 

 大師堂に続く奥の院は「獅子の岩窟」で、大師が求聞持の法を修されたところで、大師堂の入口に、おかげをうけた、感謝の奉納品が多くある。

 本堂は大師堂から、さらに170段の石段を登ったところにある。岩山に取り囲まれて建っており、まるで建物そのものが岩壁に埋め込まれているようである。

 近くの岩壁には阿弥陀三尊など多くの仏が刻まれており、これらも大師が刻んだものと伝えられ、大平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創。当山より八国が眺望出来ることに因み蓮華山八国寺と号していた。

 その頃、大師は真魚と呼ばれていたが、この岩窟で勉学していて、さらに廷暦二十三年に人唐した大師は真言密教を受法した。

 

【由緒】

第七十一番札所 剣五山 千手院 弥谷寺

本尊:千手観世音

宗派:真言宗善通寺派

開基:行基

所在地:香川県三豊市三野町大字見乙70

電話:0875-72-3446

 

◇創建について

 今からおよそ1300年前。人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、光明皇后の父母の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経』をお祀りし、寺院を創建したといわれている。

 また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には既に寺院が建立されていた事が窺へ、大師生誕(774年)の50〜100年程前に弥谷寺が創建された事が分かっている。

◇霊山信仰

 弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたとされる。

 古来より、人々は山々に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山(霊峰)と呼び信仰の対象とした。また、この信仰は、お遍路の元となった、辺(遍)路信仰の1つともいわれている。

 弥谷山の霊山信仰では、『山域全体が仏の住む世界で、水場横の洞窟が極楽浄土の入口だといわれ、特別強く信仰された。』とされ、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も無数に点在する。亦、こういった信仰は現在も残され、水場の洞窟に水経木と呼ばれる真言を書いた木札をお供えし、山頂から流れ落ちてくる霊水で、経木を洗い清める事で(お水まつり)、子孫末裔が現世で安穏(幸せ)に過ごせるよう、多くの方が参拝している。

◇獅子之岩屋

 獅子之岩屋は、寺院創建の頃よりの洞窟といわれ、『弘法大師が9〜12歳の頃、この岩屋にて修学(学問)に励まれた』といわれる。

 また、寺院創建の頃より、この岩屋の右手奥にある洞窟は経蔵として使われていたとされ、大師はこの経蔵から経典をとりだし、岩屋の窓(明星之窓)から明かりを取り込み、写経や学問に昼夜問わず励まれたといわれています。

 岩屋の形が『獅子が咆哮をあけた形に見える事から獅子之岩屋』と呼ばれ、「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」という仏教の信仰から、この岩屋の前で信心をおこし参拝する事で、『その身のあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、その身を護る』といわれ、信仰されている。

 

◇洞地蔵尊

 首から上の病に御利益があるといわれるお地蔵様で、獅子之岩屋に向かう途中の大師堂内より参拝でき、座って岩壁の10b上方を見上げないと姿を見る事ができないお地蔵様である。

◇修学ノ地としての弥谷寺

 

 現在、寺院に伝わる書簡の調査によると、大師修学以後も多くの僧侶が弥谷寺へ訪れていた事が伺へ、近年では、西郷隆盛と入水した月照の書簡なども見つかっており、明治初期まで様々な僧侶が来山し、修学・修行に励んでいた事が分かっている。

 

【屁理屈】

 戦乱で僧侶が犠牲になる話は枚挙に暇がない

 意志の疎通は、相手と尺度を同じにする時に通じる

 尺度を同じくしない者には意義を為さない

 

 

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第七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺

 この寺には菅笠を二つ、地面にすっぼり伏せたような老松が有った。通称「笠松」と呼ばれ、樹齢1200年を数えながら、松葉の緑は鮮やかで、高さ4m、東西17m、南北18mで、およそ132畳地面を覆う。

 寺名を改めた記念として弘法大師が手植えしたと言われており、古くから神仏が降臨する「依り代」とも考えられ、県の自然記念物に指定されていた。

 曼荼羅寺は周囲が田んぽが点在する閑静な地域にあり、山門を潜ると小さい石橋があって、正面に本堂、左手に大師堂と鐘楼がある。建立された当時は、寺名を世坂寺と称していたが、大同2(807)年に大師が唐から持ち帰った金剛界、胎蔵界の曼荼羅を安置して、寺名を曼荼羅寺と改めたという。

 境内には西行法師にゆかりがある「笠掛桜」と「昼寝石」が残されていて、諸国を行脚した漂泊の歌人、西行が滞在していた西行庵は、寺の近くにある。この寺にやって来ては「昼寝石」で横になり、歌でも詠んでいたのだろうか。あるいは、その当時もあったに違いない松の姿をのんびりと眺めていたかもしれない。

 寺は弘法大師の先祖である佐伯家の氏寺として推古四年に創建され、世坂寺と称していたが、弘法大師が留学後、ご本尊の大日如来を勧請し、大同二年、金絲曼荼羅を安置し、唐の青龍寺に模して堂塔を建立し、寺号も我拝師山曼荼羅寺と改めた。

 この記念に植えた「不老松」は樹の高さ四b、枝葉は東西十七b、南北十八b、美しい老松である。本堂から廻廊づたいの観音堂には聖観世音が安置されている。桧材一木造りの豊満端厳な尊容で、藤原時代の造顕という。境内には西行法師の「笠掛桜」と「昼寝石」の遺跡がある。西行法師は諸国を行脚中、この近くに滞在し、寺の境内でしばしば休息し、あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れ、それを見て 「笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめが下かな」とよんだという。自然の中に人間性を見出して表現したところにその特徴があるといわれる。

【由緒】

第七十二番札所 我拝師山 延命院 曼荼羅寺

本尊:大日如来

宗派:真言宗善通寺派

開基:弘法大師

所在地:香川県善通寺市吉原町1380-1

電話:0877-63-0072

 

 縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)に、讃岐の領主 佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺と称していた。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のことで、亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったとも云われている。

 唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立し、本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めた。

 また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」の存在も紹介されている。高さは4m足らずだが、枝張りが直径が17?18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています。

 曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘があるが、ここに庵を建てて7年余り暮らしていたのが西行法師で、この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたそうで、この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。

 また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木もあり、西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」という歌を詠んだそうです。

(松食い虫はカミキリムシを中間宿主として松の木を枯らす)

 

 

【屁理屈】

 “ひと”にとって孤独は、競争という対象も同調という対象も存在しないので、却って其れが寄る辺なき不安定な、精神的な寂寞感を抱かせる。

 

 

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第七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺

 出釈迦寺は、曼荼羅寺から歩いて5分ほどのところ、我拝師山の中復にある。

 我拝師山の頂上に建つ奥之院は、境内から約40分登り、さらに100m先に石の護摩壇と稚児大師俸が立っている。そこが大師が身を投げた岩場行揚で、鎖を使って岩場を登れば、下は谷底である。

 

 しかし、其処は讃岐平野から瀬戸内海の島々まで見渡せる場所で、本堂左手の石段を少し登った処にある。

 其処は捨身ケ嶽禅定に登れない人が参詣するところで、ここで念仏を唱えれば、捨身ケ嶽禅定に登った事と同じこ利益が得られると云われる。

 ここから捨身ケ獄禅定の建物を仰ぎ見ることができ、その周辺には出釈迦寺の縁起にまつわる石碑や、虚空菩薩堂もある。

 弘法大師七歳のとき、471メートルの山の頂きに登り「仏門に入り、多くの人を衆生を救わんとするを願い、成就するものならば霊験を、さもなくば、賭したこの身を諸仏に奉げると念じて切り立つ断崖から身を投げた。

 すると、落下する大師の下方に紫雲がたなびき、蓮華の花に座した釈迦如来が出現「一生成仏」の宣を授け、大師の願いは叶えられたという。

 そこで大師は、出現した釈迦如来の尊像を刻んで本尊とし、出釈迦寺と命名し、寺をその麓に創建すると共に、得た霊験から山号を我拝師山と改称せられた。

 奥の院遥拝所にある石碑には、釈迦如来と天女の姿と捨て身の大師の図が刻まれていて、山門を入ると、正面の小高いところに本堂があり、その右隣に大師堂と庫裡がある。本堂左手の石段を少し上ると虚空蔵堂がある。

 

【由緒】

第七十三番札所 我拝師山 求聞持院 出釈迦寺

本尊:釈迦如来

宗派:真言宗御室派

開基:弘法大師

所在地:香川県善通寺市吉原町1091

電話:0877-63-0073

 

 出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがある。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。

 私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じた。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。

 命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。

 この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあり、弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。

  ここで拝むと素晴らしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれる。また、弘法大師が身を投じた場所は、此処から更に100mほど登った場所で、下を見れば足のすくむような深い谷底だが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がる。

 

 

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第七十四番札所 医王山 甲山寺

 弘法大師は善通寺と曼荼羅寺との間に寺院を建立しようと霊地を探していた。すると、甲山の麓で一人の翁に出会い、「私は昔からこの地に住み、人々に限りない幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者である。この地に寺を建立すると良い。そうすれば、その寺は私がいつまでも守護するであろう」と告げたという。

 大師はさっそく石を割って、昆沙門天像を刻み、山の岩窟に安置した。これが甲山寺の始まりである。

 そののち弘仁十二年。嵯峨天皇より満濃池の修築を下命された大師は、その年の五月に下向し、当寺で工事の完成祈願の秘法を修し、さらに成功を願って座像二尺五寸の薬師如来像を刻んで安置した。

 黒四タム七分の一の貯水量を誇る満濃池は、弘仁九年に大決壊し、朝廷が派遣した築地使の手には負えなかった。大師が監督するや、あれ程手を焼いた難工事も僅か三ケ月で完成させた。

 大師はこれ偏に薬師如来の加護であるとし、勅賜金の一部で堂塔を建立、先の薬師如来を本尊として祀り、医王山と命名した。

 寺号は山の形が毘沙門天の甲に似ていることから甲山寺とし、札所に定めたと言われる。

 大師堂は本堂の左手にある石段を登ったところの正面に建っていて、中には黒衣をまとった大師像が祀られていて、また、近くには鐘楼や毘沙門天を安置している岩窟もあり、いかにも霊地らしく、辺りは清浄な空気に満ちているかのようである。

 安地蔵尊は大師堂へ登る石段の隣りに祀られているお地蔵様で、ある時、子供に恵まれない女性がお参りし、地蔵の前掛けを持って帰ったところ、めでたく子供に恵まれたという。

 そのお礼に新しい前掛けを作ってお供えした。それ以来、子供を授かるありがたい地蔵として、前掛けを持って帰っては新しく作り、お礼にお供えしていく参拝者が後を絶たないとか。

 

【由緒】

第七十四番札所 医王山 多宝院 甲山寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗善通寺派

開基:弘法大師

所在地:香川県善通寺市弘田町1765-1

電話:0877-63-0074

 

 甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所で、平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。

 ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私が守護しよう。」と言った。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養した。

 その後、嵯峨天皇の勅命を受けて、この地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師は、朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事だったが、弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法した。

 すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させ、朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置した。

 山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけたと云われ、薬師如来は、心身に災いする一切を除くと云われる仏様で、甲山寺を訪れた人々の力強い支えとなっている。

 

 

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第七十五番札所 五岳山 善通寺

 善通寺市は善通寺の門前町として栄えた町で、寺は町中にあり、香色山の東麓に近い。ここは弘法大師生誕の地で、高野山、東寺とともに、大師の三大霊場の一つで、善通寺の山号は五岳山といい、寺の背後に、香色山、筆山、その後ろに我拝師山、中山、火上山と五峰が連なる事による。

 東院には東の赤門、西の中門、南大門と三つの門があり、西院の仁王門を入ると、正面に御影堂があり、大師誕生にまつわる遺跡がたくさんある。弘法大師が唐へ渡る前、自分の顔を池に映して自画像を描き、母に贈ったという伝説がある御影の池や、大師誕生の時に用いたという産湯の井戸がある。

 境内に入ると、敷地の広さに驚く。沢山の堂塔が建ち並び、うっかりすると、自分が何処から入ってきたのか分からなくなりそうだ。

 遍路や観光客も多いため、ほかの札所とはかなり雰囲気が異なり、成る程ここは大師生誕の地、霊跡なのだと、改めて実感する。45万uという広大な敷地は、父善通の広い荘田だったという。境内は道路を挟んで、東院(伽藍)と西院(誕生院)の二つに分かれていて、東院には金堂、五重塔、釈迦堂、五社明神、足利尊氏利生塔、三帝御廟などがある。樹齢千年を越えるという大楠もある。

 こぶこぶした太い幹はしめ縄で飾られていて、大師が誕生した時には、すでに大樹だったというから驚きだ。

 弘法大師ご誕生の霊蹟として、寺は屏風ケ浦五岳山誕生院・総本山善通寺と号し真言宗善通寺派の総本山である。

 弘法大師は大同元(806)年に唐から帰国したが、この時佐伯一門の氏寺として、伽藍の造立を発願した。

 父の荘田供養で境内地を得たので、大師はこの地に唐から持ち帰った八十八ケ所霊場の土砂をまき、唐の青寵寺(空海はこの寺で恵果阿閣梨から、密教のすべてを伝授された)を摸して伽藍の創立にかかった。

 

【屁理屈】
注連縄は神道の備品なのに何故か屡々寺にも有る

 6年後の弘仁4(813)年には七堂伽藍が完成し、弘法大師は薬師如来を本尊として刻み、安置したが、永禄年間(1558〜70)に本堂は兵火で焼失した。幸いにも本尊は焼け残り、現在の金堂は貞享2(1685)年に再建された。

◇戒壇めぐり

 仏様に見守られながら、閣の中を心静かに進みゆく精神修養の場、それが戒壇めぐりである。中に入って、まず左手を伸ばし、左側の壁をつたって「南無大師遍照金剛」と一心に唱えながら、ゆっくりと進む。中央広間には、弘法大師とその御両親、また″四国八十八ケ所霊場″のご本尊様をお祀りしてある。また、閣の中、実際に見ることはできませんが、両側の壁には密教に於ける宇宙感である“曼荼羅″にある三十七の仏棟が画かれ、足元には″四国八十八ケ所″の砂が敷き詰められている。

 

【由緒】

第七十五番札所 五岳山 誕生院 善通寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗善通寺派

開基:弘法大師

所在地:香川県善通寺市善通寺町3-3-1

電話:0877-62-0111

 

 五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝した大師が、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日日)に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱善通をとって「善通寺」と号したと記されている。

 鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々の寺でしたが、明治時代に善通寺として一つの寺とった。現在は真言宗善通寺派の総本山である。

 現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。

 そして、「誕生院」の院号は、大師御誕生の地を示している。誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山と並ぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめていた。

 

 総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれていて、金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えている。

 

 

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第七十六番札所 鶏足山 金倉寺

 仁王門を抜けると、正面に大な本堂がある。戦乱により焼失したが、再興が繰り返され、現在の本堂は昭和の時代に入ってから改築されたもので、そんな歴史の盛衰とは裏腹に、広大な境内は実に閑静で、本尊の薬師如来も穏やかな表情を見せている。

 四国は昔から文化程度の高かったのは、讃岐の那珂郡と多度郡で、多度郡弘田郷の豪族であった佐伯一門からも、弘法大師をはじめ、知泉、円珍(智証)真雅などの高僧が輩出している。

 

 なかでも智証大師は善通寺から四`はなれた金倉郷に弘法大師の姪を母として弘仁六年(815)に生まれ、幼少の頃から経典を読み、十四歳で叡山に登り、後に唐へ留学し、やがて廷暦寺五代座主となり、三井圓城寺を賜りて伝法潅項の道場とした。

 大師堂の建造は、善通寺より半世紀近く古い宝亀五年(774)長者和気道善の開基で、当時は道善寺と号した。

 もともと当山は弘法大師の甥で、のち延暦寺五代座主となり三井圓城寺を賜った智証大師の誕生地で、のち唐から帰朝した大師が、先祖の菩提のために伽藍を造営し薬師如来を刻み、本尊として安置し、金倉寺と改称したのは延長六年(928)醍醐天皇の勅命によるもので、この地の郷の名をとって命名、山号は迦葉尊者の人定地にあやかってである。

 その後、広大な寺領や百三十二坊、数十の神仏閣堂宇は建武の争乱、さらに永正、天文とつづいた兵火に遭って悉く焼失し、その後寛永9年(1632)藩主松平頼重が祈願所として再興した。

 

【由緒】

第七十六番札所 鶏足山 宝憧院 金倉寺

本尊:薬師如来

宗派:天台寺門宗

開基:和気道善

所在地:香川県善通寺市金蔵寺町1160

電話:0877-62-0845

 

 金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地で、縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となった。

 その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に、「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷に因んだ寺名となった。

 「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判で、智証大師が2歳の時には、幼い体から後光が射しているのを付近の人々が見たといわれている。

 そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。

 

 また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説もある。

 この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとさ

れる「訶利帝母」(別名「鬼子母神」でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。

 

 

 

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第七十七番札所 桑多山 道隆寺

 広い境内には何十体という観音像が立っていて、子安観音の立て看板もある。大師と大師の前にひざまづいて、両手を大師に捧げている右衛門三郎の石像もあった。

 本堂に近づくと、参道の両側には観音様がずらりと並んでいて、参拝者は観音様に見守られながら、向拝に進むことになる。

 境内の観音像は、二百七十余体あり、水子の霊を供養する観音像や観音霊場の本尊のすべてが境内に奉納されている。優しく美しい観音様が、これほどたくさん並んでいる光景は珍しく、寺宝の星曼荼羅図は、国指定の重要文化財になっている。

 大師堂は天平勝宝元年(749)のころ、こ附近は一大桑園で、この桑園で和気道隆は誤って乳母を弓で射ってしまった。嘆き悲しんだ道隆はその供養のために桑の大樹を切って薬師如来の小像を刻み、小堂を建でて安置した。

 これがこの寺の草創で、その後、弘法大師が留錫し、薬師如来を刻んで小像を胎内に納め本尊とした。

 二代住職朝祐(道隆の子孫)は弘法大師より授戒を受け、田園財宝のすべてをもって薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、寺の名を道隆寺とした。

 その後真雅、智証、理源大師などが止住し、貞元の大地震や康平、天正の兵火で伽藍は失われるが、いずれも復興し、明治に入って大修理がおこなわれ、現在の金堂は天正年間の再建である。

 

【由緒】

第七十七番札所 桑多山 明王院 道隆寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗醍醐派

開基:和気道隆

所在地:香川県仲多度郡多度津町北鴨一丁目3番30号

電話:0877-32-3577

 

 仁王門を潜ると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで居る。創建頃のこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であった。

 縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。

 道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。

 嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。

 大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。

 朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。

 第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。

 高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976?78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返した。

 

 

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第七十八番札所 仏光山 郷照寺

 四国霊場唯一の宗派、一遍上人が滞在したことから時宗になったと云われる。また宇多津の港が近く、高台にあるために、境内からは瀬戸大橋の姿を望むことができる。

 

 大師堂は本堂の脇の石段を登った所にある。建物は大正時代に再建されたもので、お堂の中に入れるよう開放してあるので、大師像を間近で参拝できる。また参道脇には3萬体の観音像を納めた萬体観音洞がある。

 郷照寺を開基したのは行基菩薩で、その後弘法大師が巡錫して伽藍を修栄したと伝えられ、仁治4(1243)年には、高野山の学僧、道範阿閣梨が讃岐へ流罪となった時、この寺を仮住居としたという。

 時宗開祖の一遍上人も、宇多津を訪れた時し暫く逗留していたそうで、その頃は末寺七か寺を有して栄えていたというが、元亀、天正の兵火で焼失した。

 時宗に属する四国霊場の唯一の寺だが、宗旨、宗派を越えた寺として、広く信仰を集め、特に厄除けの寺として有名である。

 

【由緒】

第七十八番札所 仏光山 広徳院 郷照寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:時宗

開基:行基

所在地:香川県綾歌郡宇多津町1435

電話:0877-49-0710

 

 境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望があり、往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。

 地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。

 御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残で、その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。

 京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832?909)がこの寺に籠山し、修行したのは仁寿年間(851?54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942?1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985?87)とされている。

 さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。

 「時宗」の開祖・一遍上人(1239?89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。

 なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。

 

【屁理屈】

 明日と言えば明日だ、日によって言葉を換えるような僕じゃあない!

 この言葉は誰の言葉でしたか?

 

 

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第七十九番札所 金華山 天皇寺 (高照)

 鳥居を潜ると正面に白峰宮、左手に本堂と大師堂が棟続きに並び建ち、建物は江戸時代、松平家によって再建された由である。

 保元元年(1156)、保元の乱にやぶれた崇徳上皇は讃岐へ配流され、現在の坂出市内にあった雲井御所 本丸殿で過ごしたが、当寺へもよく来られた。

 長寛2年(1164)8月、この地で上皇は崩御され、都から葬儀の指示があるまでの約20日間、遺体は八十場の泉に浸けて保存され、棺はこの寺に安置された。

 その後、上皇の冥福を祈願して崇徳天皇社が建立され、この寺はその神宮寺となった。天皇ゆかりの寺ということで「天皇寺」と呼ばれるようになったという。

 その後、3万坪の広大な境内をもつ寺となったが、天正年間に兵火にあい焼失し、跡地に摩尼珠院筆頭末寺の高照院が移転して、本尊を移して「天皇寺高照院」と号した。このため地元では「高照院さん」とも呼ばれている。

 大師堂は寺伝によると、弘仁年間、弘法大師ご巡錫のおり、近くの八十場の霊泉を通りかかった時、霊気を感じ、薬師如来を彫って寺を建立したという。

 この地に来錫した弘法“大師は空中より霊妙の声を訊いて、大師は早速、八十場の霊泉で得た霊木で十一面観世音菩薩、愛染明王、阿弥陀如来の三尊像を刻み、堂宇を建立して金華山・摩尼珠院・妙成就.寺と名づけて四国第七十九番札所と定められた。

 その後、保元の乱で敗れ、讃岐の地に流され鼓ケ岡で崩御された崇徳上皇は、その死を京の都へ奉聞するあいだ天皇の柩を安置したのがこの寺で、因って寺号を天皇寺と改号した。ちなみに、崩御した崇徳上皇を祀ってあるのは八十一番・白峰寺である。

 

 この寺も天正の長宗我部の兵火にかかって全山焼失したが、天和二年一月に再興した。さらに明治初年の神仏分離令によつて一時廃寺となっていたが、末寺の高照院を合併して再興をはかり以後、高照院と改号した。

 

【由緒】

第七十九番札所 金華山 高照院 天皇寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗御室派

開基:弘法大師

所在地:香川県坂出市西庄町天皇1713-2

電話:0877-46-3508

 

 寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810?24)にこの地方を訪ね、弥蘇場という沢水が落ちる霊域にきた時、一人の天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。

 この天童は、金山を鎮守する金山権現で、天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。

 大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号し、大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。

 この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。

 保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123?41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。而して上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。

 二条天皇(在位1158?65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242?46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。

 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。

 明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。

 

【屁理屈】

 自分の都合で交われば、自分の都合で交わる人が集まる

 利便のために交われば、利便のために交わる人が集まる

         以下同じ

 

 

 

 

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第八十番札所 白牛山 國分寺

 本堂は鎌倉中期の建築で、重要文化財で、嘗ての講堂を再建したものである。本尊はケヤキの一木造りで、開帳されない秘仏と云われ重要文化財である。

 この本尊には「弘治三丁六月二十八日四国中辺路同行二人」「大永八年五月二十日宝石宮島一之浦同行四人南無大師遍照金剛」という落書きがあり、室町時代に遍路が来ていた事が覗える。

 大師堂は本堂に向かって右手の塀の中にあり、多宝塔のような二重塔で、塔の部分が大師堂、手前の建物の中は納経所と、線香や土産物などの売場である。

 大師堂へは納経所の中からお詣りするようになる。堂の前には千体水子地蔵が祀られている。

 国分寺は天平13(741)年、聖武天皇の勅願行基菩薩の開基にして、国家安穏五穀豊穣万民豊楽等祈願の爲、亦地方文化の発展を願って国毎に建立された讃岐の国分寺で、讃岐国分寺として、行基が十一面千手観音を安置して開基した。

 この開創から時代が下った弘仁年間、四国を巡錫中の弘法大師がこの寺に久しく留錫され、行基作の5.3mの大立像(本尊)の損傷箇所を補修し、四国第八十番札所と定められた。

 その後、天正年間(1579〜1591)に兵火にかかり、本堂と鐘楼を残して伽藍を焼失した。

 慶長年間(1596〜1614)に讃岐国守・生駒一正によって再興され、江戸時代には高松藩主松平家代々によって庇護された。参道両側には八十八カ所の本尊の石仏が並び、境内には地蔵堂や閻魔堂、縁結社など、さまざまなお堂や社が点在している。

 境内の松林の門には、旧金堂の礎石33個が残っているて、従前は36個あったが、3個はほかへ移されているという。

 旧金堂は間口が七間、奥行き四問の建物だったそうで、行基が開基した後の平安初期に、弘法大師が巡錫して本一等の補修をし、諸堂を修復したと伝えられている。

 その後兵火や失火で荒廃を重ねたが、江戸時代には高松藩主松平氏の保護を受け、寺運は隆盛だったという。

【由緒】

第八十番札所 白牛山 千手院 国分寺

本尊:十一面千手観世音

宗派:真言宗御室派

開基:行基

所在地:香川県高松市国分寺町国分2065

電話:087-874-0033

 

 創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、前面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたもので、また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせる。

 また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれていて、寺の創建は聖武天皇の時代といわれる。

 勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊とし、その後、弘仁年間(810?823)に弘法大師が霊場に定めたが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失し。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至る。

 また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘で、当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町歩と引き換えに手に入れたと云われる。

 ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労したが、然し、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行し、更に、自身も病に倒れ、一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣いたそである。

 そこで結局、鐘は国分寺へ返すことになり、城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上に、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っている。

 

【屁理屈】

 名と実を一緒に求めるのは難しい

 

 

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八十一 綾松山 白峯寺へ