神道と他の宗教

1 神道の本質

1−1 尊敬と感謝

 神道の発祥は未だ文字が実用化されていない太古の時代、“ひと”は自己を取り巻く多くの物事から、多くの恵みを受けて生命を維持していた。

 世上で謂うところの甲乙上下は、人間の社会が作り上げた人間だけに通用するルールで、自然界に於いては何の意義も為さない規範である。

 “ひと”は、周囲を軽んじては、一時も生きられない存在で、風も雨も魚も獣も蟲も・・・・も、“ひと”の生命維持の「一員と謂おうか犠牲と言おうか」と成ってくれ、それらと同じ仲間であり、平等の立場で、“ひと”は、それらに対して尊敬と感謝の念を抱かずには居られない。

 自然界のルールは「持ちつ持たれつ」で、山も川も風も雨も魚も獣も蟲も・・・・も、周囲に対しては常に平等で、甲乙上下は無く、平等であるからこそ、尊敬と感謝の思いを疎かにしてはならない!

 簡単に言えば、“他人ひと”の為に骨身を惜しまず働いてくれた!そんな方々(人でも動物でも機械でも)にどうして感謝せずに居られましょうか!

 愚鈍だとか、格好が良いとか、朴訥、大いに結構・・・・ともかく“他人ひと”の為に骨身を惜しまず働いてくれた!其れで十分なんです!私は感謝したいんです!

 

1−2 自己判断

 魚も獣も蟲も・・・・も、何者かに指図されて動いているわけではない。危ないと思えば逃げ、餌にありつけると思えば集まり、総ては自己の判断で、判断が適切であれば其れを記憶に留め、不適切であれば、其れも記憶に留め、総ては結果であり運命とも言える。

 “ひと”も本来は他の生物と同じであったが、生息年数が永くなると知恵が働き、何事に依らず安易な方法を探すのである。

 確かに人生で体験する物事は、其の頻度によって体系化することは可能である。然し如何に情報を集積しても、総てを体系化することは不可能で、且つ又、100%の確立とは言い難い。

 安易な方法を身につけた“ひと”は、その不確実な事柄を努力せずに補完しようと、他者に指図を求める。即ち下駄を預け自己の責を回避するのである。

 知恵者のお告げに従ったり、占いを信じたりして、良きにつけ悪しきにつけ、総ては知恵者の思し召しと、下駄を預け自己の責任を逃れるのである。(此なら努力の必要がないから気楽だなあ!)

 少なくとも日本人は、自己の判断を放擲して、他者に下駄を預ける事はしない。

 即ちこの精神こそが、神道の基本理念である。

 

1−3 神道の教祖は誰か

 抑も神道の成立過程は、民衆が心に宿した感謝の思いが、各々の胸中に精霊を宿し、その精霊を民衆共通の思いとするために、祠を建て、社を建てて、精霊を祭ったのである。

 即ち、民衆に祀られた精霊が御祭神である。

@ 教祖は誰か?と問われれば、精霊を祀った個々の民衆で有る。

 

1−4 神道の教義は何か

 精霊を祭った“ひと”を氏子と謂い、氏子の思想は万余で有る。

 ただ共通している思想は、

A 尊敬と感謝の思いを疎かにしてはならない!

B 自己の判断を放擲して、他者に下駄を預ける事はしない。

  (○を信じる。占いを信じる。は、下駄を預けると同義)

 この三点で、此こそが神道の教義と謂える。

 

1−5 神道の神は誰か

 万物を支配する! 或いは人を支配する! 或いは“ひと”の心を支配する! など、人よりも上位にあって、侵しがたい存在を「神」とするならば、神道に、「神」は存在しない。

 神道で謂うところの「祭神」は、名の示すとおり、祭られた神で、神道での御祭神は、“ひと”の心そのもので、民衆の真心を集積し、御祭神の名の下に具現化された存在で有るが、其の神威は厳然として侵しがたい存在である。

 敢えて神は?と問えば、天照大神以外は、万物を支配する、人を支配する、“ひと”の心を支配する、などには該当しないが、厳然として侵しがたい存在として、各々の御祭神が挙げられる。

 他の宗教では頂点にお一人の神が居られるので、その例に倣えば、現実には太陽が世界を支配しているので、著者は太陽神として伊勢神宮にお祀りされる天照大神を挙げる。

【屁理屈】

 幾ら理屈を付けても、太陽にそっぽを向かれたら、人間は総て死ぬ!

 

1−6 民衆教化

 民衆教化とは、民衆に何事かを教え、諭し、導くことを謂う。

 何故に民衆に教化を為すのか?

 教え諭し導く必要があるから、教え諭し導くのである。

 教え諭し導く必要が無いのなら、教え諭し導かないのである。

 神道では民衆への教化は行わない。何故なら、教え諭し導く必要が無いから、教え諭し導かないのである。

 敢えて謂うならば、神社は教団ではなく、民衆が精霊を祭るための施設で、布教活動を為す施設ではない。

 神道の教義は「尊敬と感謝の心を大切にする」ことと、「物事の判断は自分で為し責任を持ち、他者に下駄を預けない」の三点だけなので、教え諭されなくとも、誰にでも分かることである。

 依って、導き諭す必要もない。

 神道で行うのは、互いに尊重し皆で愉しむこと、皆で感謝すること・・・・・などで、豊年祭りや豊漁祭り、子供の七五三のお祝い、上棟式、数え上げたら際限がない。

 神道の行事としては、概ねハレが多く、は少ない傾向にある。

 

2 他宗教の本質

 日本で神道以外で規模の大きな宗教としては、儒教、仏教、キリスト教、が挙げられる。

 

2−1 教祖は誰か

 教祖を思想の発起人と捉えれば

 儒教は、孔子と謂われている。

 仏教は、釈尊と謂われている。

 キリスト教は、キリストと謂われている。

 

2−2 教義は何か

 先ず始めに、儒教は宗教なのか?と謂う設問がある。儒教の底本である「論語」は、殆どの日本人は読んだことがあり、「論語」の名前を知らぬ者は居ない。

 論語は、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物で、「論語」「孟子」「大学」「中庸」と併せて儒教思想における「四書」と謂われている。

 儒教が宗教では無いのでは!と言わせる要件に、

@ 「子曰わく、鬼神(死者と神)を敬して之を遠ざく、知と言うべし。」(一部に省略あり)

A 鬼神に事えんことを問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰わく、敢て死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。(一部に省略有り)

@ 「神や鬼(死者)など人智を超越したものにつかえるには、どうしたら良いでしょうか。」

 孔子先生は答えられました。

 「まだ人にさえ充分につかえることができないのに、どうして神や鬼(死者)などにつかえることができるだろうか。」

A 子路は更に、「死」について尋ねました。

 孔子先生は答えられました。

 「まだ自分がこの世に生まれ、生きている意味さえもよく分からないのに、どうして死がなんであるかが分かるだろうか。」

 宗教が「神や死者に関する信仰」であれば、これらの章句は宗教の要件に当てはまらない事で、儒教は宗教ではないといえる。

 然し神道には「神に対する信仰」の要件はないので、その事と比較すれば、儒教が宗教ではない!という指摘は当たらない。

 儒学では、世の中に秩序をつけるために、人の間に上下関係を設け、年上の方が年下よりも上位(長幼の序)。依って、親の方が子よりも上位(孝)。子でも、兄の方が弟よりも上位(悌)。主君の方が家来よりも上位(忠)

 こうした秩序の中で、人がどう行動すべきかを説いたのが『論語』である。

 仏教は釈尊の思想を要約した釈尊の言行録があり、概論は「中山逍雀老窮雑話坂東・四国巡礼編」に記述があるので、其方を参照して戴きたい。

 キリスト教はキリストの思想を要約したキリストの言行録があり、此を底本としているが、著者にはその余は分からない。

 

2−3 神は誰か

 儒教は社会秩序規範を説く事に重きを置き、思想構築の材料として天帝を現在過去未来を支配する権威として登場させるが、其れは天帝への信仰と謂うよりは、理論構築の方途と謂える。

 仏教は現世民衆の苦悩を排除する方法論の構成要素として、現在、過去、未来を説いていて、その主体を佛と謂う。

 概論は「中山逍雀老窮雑話坂東・四国巡礼編」に記述があるので、其方を参照して戴きたい。

 キリスト教はキリストを天地創造の神とし、現在過去未来を支配する支配者としている。それ以上のことは著者には分からない。

 

2−4 民衆教化

 儒教には仏教やキリスト教の様に布教の拠点はなく、布教のための職員もいないが、儒教の書籍は一般の哲学書籍として流布しているので、日本人で一度も読んだことのない“ひと”は恐らく居ないであろう。

 儒教には「教え」や「導き」や「諭し」の言及は有るが、少なくとも日本での解釈は、日本人の都合の良いように解釈している節があり、儒教思想を自分の糧にするか否かは、各自の裁量による。

 仏教には布教拠点の施設として寺院が有り、布教の役職として僧侶が滞在し、その任に当たっている。

 日本では民俗行事の内、概ね ハレ は神道が担当し、 は寺院が担当して、各々が住み分けをしている。依って民衆が寺院を訪れる機会も多く、僧侶と対面することも多い。

 僧侶の講話も聞く機会があり、講話には「教え」「導き」と「諭し」は有るが、多くの日本人は、自己の便宜で聞き分けているので、僧侶の説教をそのまま受け入れているとは限らない。

 キリスト教の布教拠点として教会があり宣教師がいる。

 多くの日本人は、神道を宗としているが、ケの行事の都合で、仏教とも関わりを持っていて、宗教に関して謂えば、神道と仏教の二股とも謂える。

 然し多くの日本人は、キリスト教には便宜的な関わりも無いので、キリスト教を含めての、三ツ股にする“ひと”は少なく、キリスト教も二股三ツ股を嫌うので、必然的に疎遠となる。

 又キリスト教には、日本人の嫌う「教え」「導き」と「諭し」が多いので、傾倒している者でない限り寄りつかない傾向にある。

【注】日本人は、「自己の判断を放擲して、他者に判断を委ねる(下駄を預ける)事はしない」を信条としているので、導きや諭しを毛嫌いする。

 キリスト教に由来する行事は多多行われているが、日本人は信仰心からではなく、その行事を楽しむ爲のお祭りでしかない。

 キリスト教信者は「導き」や「諭し」を信じるようだが、神道にも、「導き」や「諭し」として、「お神籤」が有る。

 然し日本人は、神のお告げとしてのお神籤も、単なる余興の一環としてしか見て居らず、帰りには懐中に収めることもなく、神社の小枝に結びつけて棄ててしまう。

 

3 神道の祭神

3−1 祭神になるには

 神道の祭神は、民衆によって祭られた精霊だが、精霊は生物無生物に拘わらず、存在する。

@ 山や川や岩など、形はあるが生命を持たない自然物

A 風や光や音や雷など、生命を持たない自然現象

B 機械や道具や構築物など、生命を持たない人工物

C 人や獣や魚や蟲などの生物

D 酵母菌などの微生物

 神として祭られる(祭神になる)には、まず民衆が自分たちに関わる物事に対し、尊敬と感謝の情を抱き、尊敬と感謝の思いを廣く永く遺そうと思って呉れる事が必要である。

【屁理屈】

 因って自分から祭神に成りたいと願っても、民衆が尊敬と感謝の思いを抱いて、更に後世まで尊敬と感謝の念を遺そうと思って呉れなければ所詮無理な話である。

 その目的を達するため、民衆は精霊に、祭神としての名称を与え、祠を建て、社を建てて、廣く民衆と共に永くその偉業を称え、敬仰するのである。

 国内には、山や川や岩などを祭った神社はある。 雷を祭った神社もある。 飛行機を祭った神社もある。 犬や猫や狸を祭った神社もある。 蚯蚓を祭った神社もある。 酵母菌を祭った神社もある。 菅原道真公を祭った神社もある。

 社を建てる効用の一つとして、恐怖の念を抱いていた物事に対して、此を押さえ込むために、拝み倒し褒めそやして、温和しくして貰う、と言う目的で社を建てる場合もある。(怨霊を鎮める)

 

3−2 祭神の就任

 “ひと”の胸中に住んでいた精霊が、民衆に祀られた時、その時が祭神として就任なされた時となり、殆どの場合、生存中に祀られることはない。

 どちらにしても、ご本人が死去為された後の事なので、ご本人の承諾無しに神様として祭り上げられた訳だが、御祭神には、日本書紀や古事記編纂以前に就任した神様と、編纂後に就任した神様が居られる。

 第七章に掲載された神社の御祭神は、殆どが古事記編纂以前に就任為された神様である。

 神社と御祭神の関係に、

@ 古事記編纂以前に建立された神社に、古事記編纂以前に就任した御祭神が居られる場合。

A 古事記編纂以後に建立された神社に、古事記編纂以前に就任した御祭神が居られる場合。

B 古事記編纂以後に建立された神社に、古事記編纂以後に就任した御祭神が居られる場合。

C 古事記編纂以後に建立された神社に、古事記編纂以前に就任した御祭神と古事記編纂以後に就任為された御祭神が居られる場合。

 上記の如く四通りの祀られ方がある。

 @の場合は、1300年以上の歴史を持つ神社である。

 Aの場合は、当地の偉人(感謝に値する人)を祀ると謂う意図ではなく、地域民衆の心の拠り所として神社を建立した場合が此に当たり、開拓地などの神社に多い。

 Bの場合は、当地の偉人(感謝に値する人)を祀る目的で、地域民衆の感謝の標として神社を建立した。

 Cの場合は、当地の偉人(感謝に値する人)を祀る目的で、地域民衆の感謝の標として神社を建立したが、当地の偉人を補佐して戴くために、古事記編纂以前に就任為された御祭神を併せてお祭りした。

 そして、御祭神は時空を超越した存在なので、昨日就任為された御祭神も、2000年前に就任為された御祭神も、共に就任為された時の儘に、生き生きと活躍為されて居られるのである。

 

3−3 神道の将来

 神道の基本理念(教義)は、尊敬と感謝の情と自分のことは自分で判断し、自分で責任を持つ(下駄を預けない)、の三つである。

 御祭神も元々は社会で活躍した“ひと”なので、その本質は、尊敬も感謝も自己責任も慈愛の情も面倒見の良さも・・・・・、人間そのものである。

 現実の社会では、物事の判断は幾通りもあり、正誤を決めるのは、便宜と力関係が大きく関わる。

 正義不正義は、更にあからさまで、力関係は大きな要素となり、正義と言われたところにも不正義はあり、不正義と言われたところにも正義はある。(戦勝国と敗戦国の関係は如実である)

 物事の判断は、判断者の知識と考究に依って成り立ち、其れこそが生きている証でもある。

 然しこの頃は、Computerの普及と共に、二者択一の案件が多くなり、物事を深く考える機会が少なくなった結果、物事を深く考えることが不得手に成ったとも謂える。

 物事を深く考えなくなったら、「教え」や「導き」や「諭し」を受け入れることに成りかねない。

 下駄を預けることをして、下した判断に責任を持たなくなったら、責任を持つ人は寄りつかなくなる。依って身の回りは責任を持たぬ人だけになる。

 下駄を預けた人が多くなったらどうなるか?

 夫婦・子供・社会・国家・・・・常に争いが内在する社会となる。此こそが神道の精神を疎かにした結果、成るべくして成るのである。

 物事の思慮が浅くなると、相手の都合が読み取れず、或いは配慮できず、結果として自己主張が強くなる。

 自己主張を押し通すと、相手は、恨みを持って引き下がる!

 恨みを持って引き下がった“ひと”は、相手に對して自己主張で対抗し、或いは避けて、二度と彼に便宜を与えようとはしない!

 相手を配慮した主張をすれば・・・・・・・その後の経過はどの様に成るのでしようか?推して知るべしである。

【屁理屈】

 “人”には生まれついての法則がある。例えば・・・・・

 人は、挨拶されれば挨拶で返す。

此方から挨拶しなければ挨拶は返されない。

 人は、感謝されれば感謝で返す。

此方から感謝しなければ感謝はされない。

 人は、便宜を与えられれば、便宜で返す。

此方から便宜を与えなければ、便宜では返されない。

 人は、尊敬されれば尊敬で返す。

此方から尊敬しなければ尊敬はされない。

 人は、無視すれば、無視で返す。

此方から無視しなければ、無視されない。

 人は、要求すれば、要求で返す。

此方から要求しなければ、要求されない。

 人は貧しければ相手の情に感謝もするが、裕福も過ぎると傲慢になり、感謝の情を疎かにする。

 日本人から尊敬する心と感謝する心と、自己責任の心が失せたら、神道は消滅するでしょう。

 外国でも、尊敬する心と感謝する心と、自己責任を重んじるような人が多くなれば、世界は平和になるでしょう。

 自分の意思を通す人が多くなると、人は互に信用せず、恨み、妬み、・・・・大から小まで、争いが絶えない地球になるでしょう。

 自分の意思を尊重すると云うことは、

 自分に優しく他人に厳しく!と云うことである。

 

3−4 風習

 ハレ として身近な行事の一つに結婚式がある。昭和30年頃までは、自宅やそば屋の二階や、料亭で行うことが殆どで、その時は、親類縁者へのお披露目が主目的で、神前で云々は無かった。

 その後、結婚式場と云う商売が出来て、殆どの結婚式は結婚式場で行うようになって、結婚式場側の都合で、御祭神に出張して戴いて結婚式を行うようになった。

 其れでは御祭神と結婚式との関わりは?と問われれば、若い夫婦に幸を与える役割が有ると云える。

 抑も両家の親属は、二人の結婚に対して許諾の権限を有するが、御祭神には許諾の権限は無い。然し、これから旅立つ彼らに幸多かれと、御祭神がお祝いをしてくれるのである。

 御祭神からの祝福は、何にも益して有り難いことではないか!

 この頃はキリスト教の結婚式を目にする機会がある。不躾にも若い二人に、キリスト教を信仰しているの?何故キリスト教式の結婚式にしたの?・・・と質問すると、

 キリスト教は信仰していないけど、神道の結婚式と比べて、安上がりなのよ!

 キリスト教の結婚式では、貴方は○○○○しますか? 貴方は○○○○しますか? と質問され、「ハイ」と同意させられる。

 この行為は、教祖キリストとの契約に当たるという。

 教祖キリストと契約したのだから、契約を破ってはダメ!と、色々導かれ諭されるのである。

 神を戴く!謂う言葉が有る通り、ずっと頭上に居る!

 仏式の結婚式も有るそうだが、著者は目にしたことがない。

 結婚すると赤ちゃんが産まれる。それからずっと、人生の節々で御祭神との関わりは続く!・・・・。そして死んだら宗教を替えて、仏教で葬式をして貰い、それからずっと、仏教とのお付き合いは続く。日本人は ハレ の行事は、神道で、ケ の行事は仏教で、と使い分けている。

 

3−5 国家の意思統一 戦争の場合など

 宗教は平和を希求すると謂うが、宗教は“人”の心に大きく作用するので、争いにも大きな関わりがある。

 争いは人間の性で、戦争のない社会は理想だが、“人”から欲望と競争が無くならない限り、無理な相談である。

 現実の問題として、戦争は無くならないのであって、戦争は国家間の争いで、民衆に関わりないと謂う者も居るが、根底には国家の構成要素たる民衆の意志があり、戦争の苦難に立ち向かうには、現実問題として民衆に戦争遂行の固持が無ければならない。

 

 儒教の場合;儒教の本質は、親と子の個人を根底に据えて、衆から社会へ、社会から国家へと、それぞれ適宜に身の処し方を説き、中華大陸の如き広大な彊域を安定的に統治する律令体制の構築と運営法を説いた方法論である。

 論旨は内政に終始し、当然有りうる外敵の防御と侵略の方法論には及んでいない。言い換えれば、儒教は内向的で、外部への攻撃的要素に乏しい。

 四書には忠や君の文言が沢山あるのだが、どんなに「忠」だ!「君」だと、鼓舞しても、その根底には親と子の幸せの追求が有るので、儒教の精神を基にして、国家意志の統一は成り立たず、ましてや戦争遂行意志の固持はままならない。

 

 神道の場合;神道の教義は、尊敬と感謝と責任の三者で、争いは真逆の思想である。依って故有って戦わざるを得ない場合、上層部に戦いの意思があっても、兵卒が敵兵と仲良しになってしまっては、戦いは継続できない。

 徳川末期から明治初期に、列強の餌食にされる近隣諸国の実情を知るにつけ、神道の思想では、列強の餌食に成ることは、火を見るより明らかであった。

 列強の餌食に成らぬ爲には、侵略戦争に勝ち抜けなければならない。そこで、身近な仏教に目を移しても、戦争遂行意志の固持は儘ならない状況である。国民を改宗する案も有ったそうだが、非現実的である。

 そこで苦肉の策として、神道に儒教の要素を取り入れ、「国家神道」と謂う、新たな概念の宗教を創り出した。

 国家神道の是非は論を俟たないが、他に実現可能な実効性有る策が有ったのであろうか?

 この新たな宗教の創設によって、とにかく昭和20年までは、列強の餌食に成らずに済んだのである。

 遂にアウシュヴィッツの残虐にも勝るとも劣らない、原爆の投下や東京大空襲を遂行する戦争に対して、為す術が無かったことも無理からぬ結果である。

 敗戦後国家神道は消滅して、本来の神道に戻った。

【屁理屈】

 一神教には妥協はないが、儒教や神道に妥協は付きものである。

 

 一神教の場合;一神教では、「神は唯一で、人間の知性を超えた方である。」とされる。而もその唯一なる神を崇める信仰として、ユダヤ教とそれを起源とするキリスト教、イスラム教などがある。

 依って、神は唯一で然も人知を越えているのだから、神の謂ったこと以外は虚偽なので受け入れられない!と云うことになる。

 神がどう謂うかは知らないが、神の謂った事は絶対に正しいことで、此の正しいことを枉げて妥協することは、神の意志に背くことであり、絶対に許されない行為である!

 依って、、神の思し召しならば、○○しても、○○でも、当然無誤謬のこととして、罪の意識も悲しみも無いのである。

 為政者が此の思想をどのように扱うかは知らないが、為政者にとっては此ほど頼りになる思想はない。

 相容れない一神教同士は、互に相容れないと云うことにもなる。

 

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編輯後記

 霊場巡礼記も秩父霊場から始まって、坂東、四国と、慌ただしく書き上げた。

 秩父編は手始めなので、編輯に着手しても、扨どの様な体裁にしたらよいのか、訳も分からず兎に角歩き、絵日記のように有りの儘を書いて、取り敢えず仕上げることにした。

 坂東編は既に資料があったので、此を編輯することにした。先ずは写真と点描記事に風を当てた。

 だが茲に手間の掛かる事案が出て来た。点描記事は兎も角として、写真はどれも此も寺ばかりで、何処の寺か・・・・・此の分別に年寄りの頭を悩ませた。

 次は、四国巡礼である。何しろ寺が多いので写真の数は制限したが、此も写真の分別に老い耄れ頭を混乱させた。

 ただ四国は団体だったので、点描記事を再読したが記憶が乏しいのは否めない。あやふやな記憶を頼りに書くよりは、行く先々でパンフレットは嫌と云うほど集めて有ったので、此を丸写しにすれば、その方が余程ましと、自分で納得した。

 さて第四巻は巡礼ではない。個々に参拝した記録である。団体ではないので記憶は充分にある。

 ただ何れの巻でも同じだが、寺社の詳細はそれ程知っては居ない。依って神社の詳細は、パンフレットや書籍から引用した方が、昔の記憶を手繰り寄せるよりは余程正確なので丸写しにした。

 著者は生まれたときから日本人である。神社で沢山の感謝をして、沢山のお願いをする。

 誰でも感謝は本心だが、お願い事の叶う のは、自分を取り巻く環境と、自分の努力と、運不運だと思っている。

 神様にお願いするのは、運不運の部分だけだ!とは、小学生でも自覚している。

 神道が宗教だとか何とかは、著者には関係ない事柄だ!殆どの人は、神様に頼りきっては居ないが、少しは気休めにしている。

 少しの気休め!此が宗教との理想的な拘わり方ではないのか?日本人は昔から、自分のことは自分で判断してきた。自分のことを神様に判断して貰えば、気は楽だが精神的には蛻の殻だ!

 神様任せにするのは、下駄を預けることと一緒である。下駄を預ければ楽なのは誰でも知っている。

 下駄を預けることがどういう事か?知らぬ者も居まい!

 いま此処で、空気を吸い、水を飲み、獣の屍体を食らい、喧嘩をし、楽しみ、睦み・・・・・・・・此が生きている証拠で、此こそが愉しい愉しい人生ではないか!!

 この現実を現実と受け止め、良きにつけ悪しきにつけ、神様任(他人様任せ)せにしたり、神様に頼ることなく、自分の判断で生きて行くことこそが、まさしく自分の人生である。

 世の中のこと、何処かで誰かが経験している。

 殆どのことは経験済みである。

 ただ殆どのことは忘れている!

 思い起こすことを怠っている!

 聞くことを怠っている!

 学ぶことを怠っている!

 だから先のことが見えないという!

 だが、先の見えないことなど無い筈だ!

 感謝の心を忘れずに、神様に下駄を預ける様なことはせず、自分で判断し、此こそが神道を標榜する日本人だ!

 

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