神社奉拝記 hom

緒言 神社目次

天地は日之出からから始まる

神道は太陽の恩恵に感謝する

 

千葉県館山市

人は周囲から幾多の恩恵を受けて生き存えている

太陽と風雨と植物の恵みに感謝し田植えをする

 

(尾張真清田神社宮参り案内写真転載)

人生は宮参りから始まる

 

厳島神社おんな御輿

楽しい時も辛いときも神様と一緒

 

新潟県天津神社春大祭

神様と一緒にエネルギーの発散だ!!

筑波山神社遠景

 

愛知県田縣神社 豊年祭り

神道は小難しい事は謂わない。何事も有りの侭に

 

さあ! 天と地の恵みに感謝して収穫だ!

 

さあ 天と地の恵みに感謝して、みんなでご祭神にご報告しよう

 

筑波神社 さざれ石

私達は天と地の長い長い歳月に抱かれている

埼玉県 嚴殿山正法院

死んだら仏教に宗旨替えさせて戴きましよう

 撮影 松戸市祖光院

人気の途切れた裏山に、大木がありました

四角な霊木だと云われれば、◇に見えます

何度見ても◇です

はっと気がつくと○です

世の中にはこんな紛らわしさが横行しています

桑原 桑原

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この掲載は筆者が参拝した神社です
配列は名称順にしました。

比較と欲望と恐怖から逃れるには、感謝の情を身につければ良い

  人類と宗教

神社奉拝
2−比較 欲望 恐怖 伊勢神宮
3−ユダヤ教 靖国神社
4−仏教 茨城県護国神社
5−儒教 千葉県護国神社
6−太陽信仰 神道 明治神宮
7−拝金教 阿豆佐味天神社
8−これからの社会

宇都宮二荒山神社

  神道と他の宗教 鵜戸神宮
1− 神道の本質 榎原神社
1−1 尊敬と感謝

遠軽神社

1−2 自己判断 塩竈神社
1−3 神道の教祖は誰か 温泉神社
1−4 神道の教義は何か 笠間稲荷神社
1−5 神道の神は誰か 葛西神社
1−6 民衆教化 鎌倉宮
2−他宗教の本質

岐佐神社

2−1 教祖は誰か 祇園神社
2−2 教義は何か 京都大豊神社
2−3 神は誰か 金ヶ作熊野神社
2−4 民衆教化

金比羅宮                   

3−神道の祭神 熊野速玉大社
3−1 祭神に成るには

熊野那智大社

3−2 祭神の就任

熊野那智大社飛龍神社

3−3 神道の将来

熊野本宮大社
3−4 風習

見付天神矢奈比賣神社

3−5 国家の意思統一

五條天神社

    儒教の場合

江ノ島神社  

    神道の場合

江ノ島弁財天社

    一神教の場合

香取神宮

  前置き 高千穂神社

第一章 概説

今宮神社
1−1 感謝と崇敬と神秘 今戸神社 猫神社

1−2 穢れ無き純真な心

三峯神社

1−3 精霊の誕生

蚕養國神社

第二章 祭神

志波彦神社
2−1 祭神の誕生 鹿島御児神社
2−2 精霊を祀る 鹿島神宮

2−3 祀ると云う心

酒列磯前神社

2−4 神社の建立

出羽山王日枝神社

2−5 礼拝

出雲大社

2−6 霊験 御利益

楯縫神社

第三章 神社

女化神社

3−1 神社の運営

常陸國総社宮

3−2 お祭り

神倉神社

3−3 形態 31

諏訪大社

3−4 御札・御守り

生田原神社

第四章 神道各論

西根神社

4−1 神道と民衆

青島神社

4−2 神道系

石岡金比羅神社

4−3 感謝と尊敬する心

赤間神宮
4−4 日本での神様

息栖神社

4−5 神社成立の経緯

足利織姫神社

4−6 御祭神との対話

大久保神社

4−7 教義

大杉神社

第五章 御祭神にご挨拶

大洗磯前神社

5−1 鳥居を潜る

鍛冶稲荷神社

5−2 穢れ無き心で挨拶

筑波山神社
5−3 女性の愛情 秩父神社

第六章 神社の構成

鶴岡八幡宮

6−1 鳥居

鉄砲洲稲荷神社

6−1−1 鳥居の形状

天岩戸神社

6−1−2 鳥居の種類

二見興玉神社

6−1−3 著名な鳥居

日光二荒山神社

6−2 注連縄

日枝神社
6−3 道切りの習俗

箱根神社

6−4 手水舎

八股榎大明神
−5 社殿 武田神社 224
6−5−1 本殿 報徳二宮神社
6−5−2 拝殿 霧島神宮
6−5−3 社殿概要 雷電神社
6−5−4 神社建築の種類 寶登山神社
6−6 ご神体 神鏡 彌彦神社

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神もとへ戻る八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

緒言

 秩父観音巡礼、次いで坂東、四国と巡礼記を書いたが、何れの対象も仏教の寺院であった。因みに日本全国の仏教寺院数は、概ね7萬5千ヶ所有るそうだ。

 キリストやイスラムの教会があると、気に留めるが、仏教寺院は余りにも数が多いので気にも留まらない。だが仏教寺院はキリストやイスラムの教会と同じように、宗教教義(宗教の思想)を広めるために設けられた布教の拠点である。

 依ってキリストやイスラムの教会に宣教師が滞在しているのと同じように、仏教寺院にも布教を担当する人員(僧侶)が滞在することは当然でである。

 次いで視点を換えれば、寺院巡拝の途次、寺院に比べて神社の數が頗る多いことに気付く。聴くところに依ると20萬から30萬社(小さい対照まで数えたら、数え切れない)有るそうだ。

 数は多いが、神社は、キリストやイスラムや仏教の寺院と違って、布教の拠点ではないので、境内の保全管理や運営する人員以外は必要としないので、人が滞在している社は2萬ほどである

【註】大方の神社は教義を持たないが、教派神道と云われる教義を持つ幾つかの教団はある。ただこれらの教団は、一般に云われる神道ではないので、別個の宗教名を興し、其処に分類した方が適切である。

 仏教寺院の僧侶は、仏教の教義(思想)を、民衆に広める爲の布教人員であるが、神社の神職は、神道儀式を執り行い、民衆の謝辞や希望(お願い事)を、祭神に伝える取次役ある。

 神職の居ない無人の神社では、礼拝に来た人が、各々が自分自身で謝辞や希望を祭神に伝えている。

 山に手を合わせて、感謝の思いを述べ、登山の安全を祈るのも、社殿で手を合わせるのも、神道として祈る心はみな同じである。

 祈りを捧げる場所として、全く施設の無いものや、個人が祀るものや、数人、氏子(思想を共有する仲間)、・・・・・と、様々で、神社施設の規模にも大小があり、それぞれの神社は、其れぞれに御祭神の思想(教義)を拠り所にしている。

 神道の本義は、例えば山を観て手を合わせ感謝を為し、或いはお願いをするなど、個人の思想に基づく行為であって、個人が思想を献辞するのに、何等の施設も必要とはしない。

 神そのものは、単に山の神、田の神、産業の神、雷の神、家庭の神、面倒見の好い人・・・・・・・の神で、敢えて名称を必要とはしないのだが、複数の人が思想を共有する場合には、呼びやすいように、便宜上 神に名称を付けた。

【屁理屈】

 さて、著者は若い頃に中國古典が好きで、論語や老子や荘子や韓非子や・・・・・・・を読み漁った事がある。其れは結果として儒教や道教の教義を学んだことに外ならない。

 併せて書籍ばかりではなく、中國にも西欧にも足を運んだ。行く先々何れの地にも宗教施設としての寺院はあった。

 見た目は日本の神社も諸国の寺院も、差ほどの違いはないが、其の内面(成立の基本要件)は、全く異なる。

 キリスト教や仏教や・・・・・・などの宗教の根底には、教義(思想)を提唱する開祖が居て、教義(思想)を提唱する(下賜する)開祖と、教義を信奉する信徒の二者に依って構成される。

 然し神道には、キリスト教や仏教や・・・・・・などの宗教のように、教義(思想)を提唱する特段の人物(開祖)は居らず、教義(思想)を提唱する人物は自分自身で、信奉する信徒と提唱する人物は同じである。

 即ち神道信者(大方の日本人)は、自分の信ずる思想を、森羅万象に仮託して、自分の判断で崇敬していると言える。

 物事にはそれぞれに其の基準とする處がある。識者の中には、世上の宗教基準に合わせて、神道は宗教としての要件を備えていない!と云う者もいる。

 時には、日本人は無宗教だ!と云う場面もある。

 著者は一介の凡夫だから、神道が宗教と謂われようが、謂われまいが、宗教心が無いと云われようが、さして問題はない。

 此までにも書いたが、著者は信仰心などは終ぞ知らないが、ただ凡夫としての見る目、聞く耳は具えている積もりである。

 稿を起こすに必要な情報を探っている中に、宗教に無関心な著者には、無関心な人なりの情報が集まった。

 そこで凡夫は凡夫なりに、身近な神社の本質を探り、また少し視点を変えて見ると、其処には新たな見解が顕れた。

 社寺参拝シリーズを編輯するに当たり、集まった資料を、一つの趣旨の下に案配した。

 秩父巡礼では、ただ寺を廻っただけ・・・・・・・・・・・・・

 坂東巡礼では、仏教が渡来してからの変遷・・・・・・・

 四国巡礼では、仏教各派の思想を掻い摘む・・・・・・

 神社奉拝では、神道の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 宗教の知識が皆無だからこそ、既に知識を持っている人とは別の視点から覗くことが出来ると自負している。

 凡夫の戯れと前置きしておくが、この四巻を通読すれば、宗教とは・・・・・信仰とは・・・・・が、客観的に、考察することが出来、而も信仰心の云々に拘わらず、重厚多彩にして幽玄な日本文化の恩恵を知るであろう。

 ただ筆耕上紛らわしい問題が浮上した。日本では神様仏様と謂って神様と仏様は区別されているのだが、キリスト教でも「神」と謂って、日本に昔から居る神様と混同してしまう弊害がある。

 日本では、家の中には屋敷神や、竈神があり、座敷童子という神もいる。外に出れば道端には道祖神、お地蔵様があり、神社やお寺も方々にある。

 それをごく普通のことと日本人は受け入れていて、これが日本人の、八百万の神々の存在を前提とする宗教感覚である。

 では、日本人の神に対する感性について、本居宣長(1731〜1801)は古事記伝の中で次のように述べている。

 『さて凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり』

 つまり日本人は、何か尋常でないものに神を感じて、この神々・・日本古来からの神々を祭る宗教が神道である。

 日本には古来から「神」と謂う対象が有るにも係わらず、何方が間違えたのか、外来宗教にも、同じ「神」と謂う文言を用いて仕舞った。

 依って、日本に古来から有る「神」と、外来の「神」との判別がややこしく成って仕舞ったのである。

 由って本稿では日本の神様を敢えて御「祭神」とした。この「祭神」の名称は、却って実態に合った名称とも言える。

 何故なら、日本の神様は不特定多数の、生身の“ひと”に依って、それぞれの都合で、神として誕生させられた立場であり、文字で書けば「祭神」が妥当な表現と言える。

 

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平成21年3月20日掲載