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第六章 神社の構成

 神社には長い歴史があり、最初は何もなかった處から始まったのだろうが、基本として規模が小さければ注連縄だけ、次いで鳥居、社殿、神鏡、手水舎があり、そのほかにも諸々の構築物がある。

 

 

6−1 鳥居

6−1−1 鳥居の形状

 気にとめずに見ていると殆ど同じだが、幾つかの形式がある。

 どういう訳で出来たかは不詳だが、必要に応じて少しずつ出来、長い間に少しずつ形を変えていった。

 そして一つ一つの構築物には、其れなりの由緒が謂われているが、構築物と由緒は相前後しながら現在に至っている。

 鳥居を立てる風習は、神社の建物がつくられる前から存在し、古来日本では、屋根のない門という意味で「於上不葺御門」とも謂ったそうで、中国の「華表]」の訳を鳥居とするので、過去には漢文で「華表」と記したこともあったという。

 鳥居は一般的には神社を象徴するものとして捉えられているが、仏教寺院にも見られることがある(神仏習合)。一方で鳥居を持たず楼門(随神門)をもつ神社も存在する。

 戦後の区画整理により境内が縮小されたり移転したため、現在の神社境内とは掛け離れた場所に孤立している鳥居も屡々見かけられる。御陵に建てられていることもある。

 

 意匠としては、神職であった氏族や家が家紋として用いることがあるほか、現在の地図記号では神社を意味する。また俗用に小便無用、不法投棄のごみ除けなどに利用されることがある。

 数え方は、1基、2基と数える。一般にひとつの参道に複数の鳥居がある場合は、一番外側から一の鳥居、二の鳥居…と呼ぶ。また、神社の前に形成された町のことを「鳥居前町と呼ぶことがある。

 稲荷神社などの鳥居が朱色であるのは、古来その色が生命の躍動を表し、災いを防ぐとして神殿などに多く使われたためで、これが鳥居にも影響しているとされる。

 鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていないが、単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられ、古くは於不葦御門と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。

 そのほか主要な説として、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インド仏教にみられるトラナや中国の華表や鳥竿、牌楼、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(英: Akha)の村の門など海外に起源を求める説などがある。

 日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。

 アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。構造そのものに着目した説としては、鳥居桁(架木)説とでも呼ぶもので、そもそも建築用語として高欄の横木の最上部のものを鳥居桁と呼ぶことは奈良時代の資料から明らかになっており、障子の上桁の横木を鴨居と呼ぶのと同じく、「トリイ」とは古来からの建築用語であり、これが神社門に転じたとする説である。

鳥居の基本構造 61101

 構造として鳥居の形状2本の柱の上に笠木、2層の水平材とする場合に上層の笠木に接して島木を渡す。その下に貫を入れて柱を固定したのが一般的な鳥居の構造である。

 他に、貫と笠木の間に額束を建てることがあり、柱下部に

亀腹を施したり、掘立であれば根巻きや根巻き石を施すことがある。笠木と柱の間に台輪という円形の保護材をつける例もある。

 鳥居の分類は大別すると、柱や笠木など主要部材に「照り」や「反り」、(柱の円柱加工を含まない曲線を表す加工)があるかないかである。

 照りや反りが施されない代表的な例としては神明鳥居があり、それらが施された代表例としては明神鳥居があげられる。

【屁理屈】

 未経験も、自分以外の誰かが経験したことがあるので、“ひと”に聞けば幾らでも教えてくれる。本を読めば幾らでも書いてある。

 未経験な事など殆ど無く、殆どは普遍的な事ばかりである。其れを何故恐れるのか? それは、実証例と解決法を取得する努力を怠っているからである。

【屁理屈】

 四苦八苦に、欲望が達せられない事への不満がある。 100件の“物事”を110人の“ひと”が欲しがったら、足りなくなるのは当たり前!満たされない事への不満は、現実を無視した独りよがり!である。

 現実をよく見て、よく考えれば、総てが普遍的なことで、其処に不満が生まれる余地はない。

 

 

6−1−2 鳥居の種類

                       61203

 

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61205

 

 

 

【屁理屈】

4.病気になる苦しみと言うが、摂生に努めれば有る程度は避けられる。かと謂って、どうにも成らぬ事だって沢山ある。そう言うときは足掻かずに、諦めることが肝心だ!

61206

 上記の他にも、肥前鳥居や三柱鳥居がある。

 

神明鳥居61207

 神明鳥居の特徴は、反り増が無い、島木が無い、額束が無い

笠木の木口が五角形、貫が柱までで貫通していない。

 伊勢神宮の鳥居を代表とするので、伊勢鳥居と言う。伊勢鳥居は神明鳥居・伊勢神明鳥居とも言われる。伊勢神宮を分祀した神社を神明社というところからきている。

 

明神鳥居 61208

 

  材料は木材で造られた「木鳥居」、石で造られた「石鳥居」、銅板で全体を葺いた鳥居を「銅鳥居・金鳥居」という。

 銅鳥居は、「唐金の鳥居」と呼び、江戸時代には浮世絵などに描かれている。近年では鉄パイプ、鉄筋コンクリートで建てられた鳥居もある。

 また、佐賀県西松浦郡有田町にある陶山神社の鳥居は陶磁器製、京都府八幡市にある飛行神社の鳥居はジュラルミン製、秋田県八郎潟町にある副川神社の鳥居は塩化ビニール製など、その他の材料による鳥居もある。

 

 建てられる鳥居の形式は寄進者の好みによることが多く、祭神と関連を持つことは少ないが、鹿島神社に春日鳥居が建てられるようなこともあるように、山王鳥居は日枝神社(山王神社、日吉神社)などと結びつくものもある。

 鳥居の種類として、神明鳥居に代表されるものは、柱や笠木は丸材を用いることもあるが、全体的に直線の部材が用いられる。神明鳥居は素朴な形式で、全体的に直線的で、笠木柱には丸材、貫には板材が用いられることが多い。

 笠木の下に島木がなく、貫は貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられていて、伊勢鳥居とも言うように、伊勢神宮において現れたと考えられており、この類に外宮鳥居がある。

 この形式のバリエーションとして、貫に角材を用いたものが、靖国神社をはじめとする各地の護国神社で広く見られることから、特に靖国鳥居と区別することがある。

春日鳥居、鹿島鳥居、八幡鳥居の類は、明神鳥居と同様に、笠木の下に島木があり、貫が貫通し、春日・八幡鳥居の柱には転びが施されるが照りや反りは施されない。

 

春日鳥居61209

 

 因みに、春日鳥居と八幡鳥居は、笠木と貫の木口を斜めに切るか切らないかの違いのみで主要部は同様に造られる。

春日鳥居は、笠木が断面で、五角形に作られ、貫は四角形により建立されているところなどの点は、伊勢鳥居に似ている。

 しかし、笠木と島木がともに、その両端が垂直に切り落とされ、柱は円形にして、楔を付けている点に特徴をもっている。

 

鹿島鳥居61210

(1)反り増が無い

(2)島木が無い

(3)額束が無い

(4)笠木が丸太状

(5)貫が柱から出る

(6)貫が角形

 

 

 八幡鳥居61211

 

八幡鳥居は、春日鳥居の一様式で、笠木の断面は五角形である。

 そして、笠木の下に四角形の島木があり、四角の貫が丸柱を貫いている点は、春日鳥居とまったく同じである。然し、笠木と島木の木口が斜めに切り落とされている点が異なっている。

【屁理屈】

 誰にだって感謝することはある。誰にだって嫌悪なところはある。

 だったら、嫌なところはお互い様で、互いに注意を払い、感謝する処には、感謝すれば良いではないか。此が神道の根幹だ!

 

中山鳥居61212

(1)反り増がある

(2)島木がある

(3)貫が柱まで

(4)額束がある

 貫が柱から出ていないところが明神鳥居と異なる。 岡山県津山市に鎮座する中山神社の鳥居を代表とすることから中山鳥居と言われている。

 

 

外宮鳥居61213

【屁理屈】

 ある書物によると、鳥居は60種類以上に分類されるそうで、神道は氏子が祀った宗教なので、かたちを規制したりせず、複数の鳥居がある神社は数多く存在する。一つの神社でかたちの違う鳥居が共存しているのは珍しい事ではなく、一つの神社の中ですら統一の必要性を求める様なことはしない。

 

 三柱鳥居61214 岐阜県武儀郡洞戸村  正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木島神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。 

【屁理屈】

 “水戸黄門”で悪徳商人は、散々人を苦しめて、後に何を残したの?悪名と怨みだけでしょう!

 悪行を為すにも、盆暗では出来ない。

 彼方此方へ気を遣い、破落戸には集られ、飯は三度しか食えず、金が目当ての女に寄りつかれ・・・・・・

 徳名と恩義を残した方が、よっぽど楽で愉しいでしょうに!

【屁理屈】

 神道の教義は  穢れ無き(純真な)心であること

         素直に尊敬し感謝すること

         自分で判断すること

 黒木鳥居61215

(1)反り増がない

(2)島木がない

(3)笠木が丸太状

(4)貫が丸太状

(5)額束がない

(6)柱は2本である

(7)樹皮がある

 黒木鳥居は、樹皮のついたままの鳥居のことで、鳥居の形式としては極めて原始的日本最古のものである。

 綺麗に樹皮を剥いて磨き上げた、白木鳥居と云う鳥居もある。

 

 

靖国鳥居61216

(1)反り増がない

(2)島木がない

(3)額束がない

(4)笠木が丸太状

(5)貫が柱まで

(6)貫が角形

 

 貫の断面が長方形で白木鳥居と異なる。また、貫が柱から出ていないと処が鹿島鳥居と異なる。東京都千代田区に鎮座する靖国神社の鳥居を代表とする事から靖国鳥居と言われる。

 

 内宮源鳥居61217

 

柱が八角形で、吉田神社(京都市左京区)末社斎場所大元宮にある。 笠木は五角形で両端斜め切り。

【注】吉田神道は、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、卜部神道、宗源神道とも。

 

宗忠鳥居61218

 

 

 

反り増が無い

島木が無い

貫が柱から出ている

額束がある

鹿島鳥居に額束をつけると宗忠鳥居になる。

 宗忠神社にある鳥居を代表とするので宗忠鳥居という。

【屁理屈】

 聞くところに依ると“ひと”には下記の苦しみがあると云う。

1.生きる苦しみ、 

2.死ぬ苦しみ、 

3.年をとる苦しみ、

4.病気になる苦しみ

の四つがその代表とされ、他にも

1.愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)、

2.怨憎会苦(怨み憎む者とこの世で会わなければならぬ苦しみ)、

3.求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)、

4.五蘊盛苦(人間の体や心の欲望が適えられない苦しみ)

と全部で八つあって、四苦八苦とはこれが語源になっている。

 多くの日本の民衆は、上記の苦しみを、どれ程苦痛に思っているのだろうか?

 現実には、四苦八苦が無いわけではないが、“ひと”が怖いと思うのは、自分が未経験と思っているからで、他の経験者の情報を取得する努力さえ怠らなければ、未経験なことなど殆ど無い。

 また人は、幾多の未経験な物事を整理し、次ぎの如く八項目とした。

 

1.生きる苦しみ、

 人生の一瞬一瞬は総て未経験であるが、其れはこれから先の一瞬に限られ、手前は総て経験済みである。未來は殆ど過去の延長上に有って、過去の範疇を逸脱することは矢鱈にない。

 近年に原発がパンクしたが、像有るものは必ず崩れるのは、宇宙を含めた世界に共通の哲理で、何も突飛なことではない。偶々其処に居合わせただけのことである。

 城南宮鳥居61219

 

京都市伏見区の城南宮の本殿に向かって正面にある鳥居で、基本型は神明鳥居に属するが、柱下に饅頭があり、棟の部分に島木・笠木を重ねて、さらに屋根を葺いている。その島木の正面中央に神紋の金具が打たれている。

 

 明神鳥居61220

 

 笠木と島木に反り増と、島木があり、貫は出ていて、額束があり、笠木と島木を曲線的に反らせたところを特徴とする。笠木と柱の根元を黒く塗り、他を朱色に塗った明神鳥居を稲荷鳥居ともいう。

 稲荷鳥居61221は、柱と笠木の接合部に台輪が取り付けられていて、台輪鳥居とも謂い、台輪を付けた鳥居は、此れに限らない。

 

伏見稲荷大社

〒612-0882 京都市伏見区深草薮之内町68番地

 

 台輪鳥居61222

 

 

特徴として島木と柱の間に台輪があるから、台輪鳥居と言い、明神鳥居系に分類される。

 

【屁理屈】

 犬は犬嫌いの“ひと”を見分ける。

 犬の嫌いな人は犬からも嫌われる。

 犬は“ひと”が嫌いなのではなくて、“ひと”が犬を嫌うから、犬は“ひと”を嫌いになるのだ!

 “ひと”も馴染めない“ひと”を見分ける。

 “ひと”も犬も同じようなものだ!

 

 

 

山王鳥居61223               

 明神鳥居の笠木の上に破風を付けたもで、破風鳥居ともいう。

 

東京赤坂日枝神社

東京都千代田区永田町

 

鳥居の構造61224

 

【屁理屈】

 嫌なところを探せば沢山ある。感謝する処を探せば沢山ある。

 嫌なところには注意を払い、感謝するところには感謝しよう!

 奴禰鳥居61225

 

 

 

島木と柱の間に台輪を持ち、額束の代わりに叉首を入れ、明神鳥居から変形し形で、柱と島木との接点の部分に、一枚の「座」をはめているところに特色がある。

 この「座」を台輪と称し、柱の上部からの腐敗を防ぐ手法から生まれたものである。

 実際に腐蝕を防ぐために役つかは不明だが、太い柱と細い島木との間にあり、調和のとれた形と成っている。

 

 三ツ鳥居61226 三輪鳥居

 

明神鳥居の両脇に小規模な明神鳥居を二つ付けたもので三輪鳥居ともいう 。

 

 

 宇佐鳥居61227

 

 宇佐神宮の鳥居で、額束がない。笠木に桧皮葺の屋根をかける。

 

 両部鳥居61228

 

 

特徴として、反り増があり、島木があり、額束があり、貫が柱から出ていて、柱の前後に稚児柱を持つ。

 四脚鳥居、権現鳥居、枠差し鳥居、袖鳥居、児持鳥居、宮島鳥居な

    熊野本宮大社        どと謂われる。 「両部」は、真言宗が唱えた両部神道が由来と謂う説がある。

【屁理屈】

 開拓地では、一丸になって事に臨まなければ、心が折れて仕舞いそうになる。心を一つにするために御祭神を祀ることは手段の一つになる。

 住吉鳥居61229

柱が円柱ではなく、四角柱になっていて、他は明神系の特徴を持っている。

 四角柱の鳥居なので、角鳥居 とも呼ばれる。このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原形となっている。

【注】題額は陶製。有栖川宮熾仁親王の筆。

 

 

【屁理屈】

 母さんの愚かなところは、小学生でも探せる。

 母さんの賢いところを、小学生が探すのは難しい。

 処が!!!

 世の中には、愚かなところを捜し出した人を、賢い人だと勘違いする人は沢山いる。

 富士山は、下からは誰にでも見えるが、頂上は空の上からでなければ見えない。

 

【屁理屈】

 御祭神を祀ることは、相互扶助の心を養う助けとなる。

6−1−3 著名な鳥居

 吉野の銅鳥居(重要文化財)61301

日本三大鳥居のひとつ、銅製で高さ約8mで、世界遺産、國重要文化財、銅製の鳥居としては日本最古のものである。

 吉野山から山上ケ岳まで4つある門のうちの最初の門で、「発心門」と書かれた扁額を掲げている。

 修験者は鳥居に手を触れ、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山する。

 もとは東大寺大仏鋳造の余った銅で建立したともいわれる。

 

 安芸の宮島に朱丹の大鳥居(木造) 61302

 

厳島神社の社殿前の海中に建ち、楠造り両部鳥居である。

 現在の鳥居は平安時代から数えて8代目で、明治8年(1875年)7月に完成した。

 本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある。

 派生したものとして伊香式鳥居がある。(重要文化財、世界遺産)

 

 大阪四天王寺の石の鳥居(重要文化財) 61303

【注】神社ではないが、著名な鳥居なので載せた。

柱が太く高さに比し柱間が広い為、安定感がある。当時のものは柱のみで、室町時代・江戸時代に補修されている。鳥居は、神仏習合時代の名残があり、永仁2年(1294年)に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされている。

 

 日光東照宮(重要文化財)の石鳥居61304

 

 日本三大石鳥居の一つで、黒田長政による寄進とされる。

この石鳥居は、1618年(元和4年)に九州筑前藩主 黒田長政公によって奉納されたもので、石材は、九州から船と陸路で日光まで運ばれた由。

 八坂神社(重要文化財)南楼門前の鳥居 61305

 

南門に立つ石鳥居は正保3年(1646年)の建造され、高さは9.5mで、自然石で作られた鳥居としては日本最大級といわれている。

 鳥居をじっくりと眺めてみると、切れ目があることに気が付く。ひと固まりの石の大きさも4〜5mはありそうである。

 これだけの大きさの石を探して加工し、運び、クレーンもない時代に積み上げるのですから、かなりの労力。きっと多くの人々の力で築かれたのであろう。

 

 鶴岡八幡宮(重要文化財)一の鳥居 61306

徳川秀忠の夫人 崇源院の願いを受け、四代将軍 家綱が再建した

鶴岡八幡宮石鳥居

(一の鳥居)(重要文化財、江戸時代前期 寛文八年 1668年、花崗岩、高さ 850Cm)

 京都三珍鳥居として

木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居 61307

 

三柱鳥居は、鳥居を三角形に組み合わせたような形をしている。

 説明書きによると、中央の組石はご祭神の神座であり、宇宙の中心を表している。神座というのは神が降臨する場所である。

 

 厳島神社 (京都市上京区) 京都御苑内の唐破風石鳥居 61308

石鳥居は、本殿前に立っていて、島木・笠木を唐破風形にした珍しい形で、、間口に対して高さがやや高くなる。京都三珍鳥居の一つとされる。  貫の中央に額束を置き、唐破風形で形が良い島木・笠木を支える。島木・笠木は二石からなり、中央で接続する

(重要美術品、室町時代、花崗岩、高さ 375Cm)

 

【屁理屈】

 

2.死ぬ苦しみ

 “像有るものは必ず崩れる”のは天地の哲理で、“ひと”の生命もその例外ではない。 生命が絶える現実は、普段の一瞬一瞬に体験している事で、珍しくもなく、愕くことでも恐れることでもない。

 “ひと”は他の生物に對して優位に有るので、常日頃生殺与奪を自由に行っているので、自分以外の生命を絶つことに無頓着で、その反面、自分の生命が絶える事を実感していない。

 生命体には自ずと寿命があり、哺乳動物の寿命は心臓の拍動数20億回と云われている。そう言っても生まれて直ぐに死ぬ者もいれば、100年をゆうに突破する者もいる。然し数百年生き続けた“ひと”を聞いたことがない。 死なずに生き続ければ其れで好いのか?と謂うと、強ちそうでもあるまい。程ほどで死ねるので好いとも言える。

 

3.年をとる苦しみ

 歳を経ることが何故に苦しみなのか?理解に苦しむ。高度に発達した「脳」に依って作り出された社会で“ひと”は生活している。

 “ひと”はその社会に適応出来るまで生長するのに、概ね20年は必要だ!。社会で活躍出来るのが20歳から70歳迄で、概ね50年間である。自分で思うよりは短いものだ!

 活躍できなくとも適応は出来る年齢はある。 適応とは何か?

 ただ生きているだけでは適応とは言えない!

 生命体に寿命がある限り、誕生と生長と衰亡の循環のが有ることは、理の当然である。 肉体には耐用年数があるので、生殖によって生命情報を次世代に継承させる。“種”の継承という観点からすれば、繁殖能力が衰退すれば、その後は生命体としては、ご用済みの肉体である。

 

北野天満宮境内社 伴氏社の石鳥居 61309 61310

 

【屁理屈】

 幾多の考え方が有るのに、何時も反論すると、偏った思想の持ち主だけ                  が集まる(一元論的)

 熊野本宮大社日本最大の鳥居 61311

 

熊野本宮大社の高さ33.9メートルの日本最大の鳥居。(2014年現在)

 向かって左側に河川が有り、現在は500m程の高台へ移転したが、その昔氾濫した由で、前方の森の中には熊野本宮大社旧跡が有って、その場所に矢鱈に大きなコンクリート製の鳥居が建てられた。

 

 伏見稲荷大社には約一万基の鳥居がある。 61312

 

 平安神宮には高さ24.4メートルの鳥居。61313

 

 京都では一番大きな鳥居だが、全国では熊野本宮大社旧跡の鳥居が一番大きい。

 

 

 明神形・鉄筋コンクリート造・丹塗。高さ24.2m・柱真18.2m・柱直径3.63m・笠木長さ33m

 

 気比神宮には国の重要文化財の鳥居 61314

 

氣比神宮は、福井県敦賀市にある神社。名神大社、越前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 木造としては3番目の高さがある。

 

 

元木の石鳥居は国の重要文化財 61315

 山形市にある平安時代建立の日本最古の石鳥居は、笠木の下に島木があって反りが加えられていて、柱は地面に対して少し傾斜(転び)をつけて立てられている。

 宇佐鳥居以外は笠木と貫を額束で連結して補強していて、笠木と島木に反り増と、島木があり、貫は出ていて、額束があり、笠木と島木を曲線的に反らせたところを特徴とする。

 この鳥居は、平安後期に建立された日本最古といわれる石鳥居で、凝灰岩の古雅な姿は重要文化財に指定されている。

元木の石鳥居は、山形県山形市鳥居ヶ丘にある、現存する日本最古の鳥居である。滝山信仰の象徴であり、国の重要文化財に指定されている。

 

 野宮神社の鳥居 61316

 

樹皮がついたままの「黒木鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えている。

 野宮神社(京都市右京区嵯峨野)

 元伊勢外宮豊受大神社(京都府福知山市大江町)

 

 粟嶋神社(宇土市) 日本一小さな鳥居「腰延べ鳥居」 613107

 

 熊本県宇土市にあり、少彦名命(粟嶋大明神)を祀る神社に、文化11年(1814年)に奉納された日本一小さい鳥居がある。 (這い蹲る爲の茣蓙が敷かれている) 腰のべ鳥居と呼ばれ、縦・横30センチのミニ鳥居を潜ると、安産や婦人病にご利益があるといわれる。

 陶山神社の磁器製の鳥居 61318

 

陶山神社 (有田町) 明治 21年 (1888年) に奉納された磁器製鳥居で、高3.65m 横3.9m。

 

 

 

 山王神社 (長崎市)一本柱鳥居 61319

山王神社の二の鳥居は、原爆の爆風により片方の柱が吹き飛んだ状態で立っていて、一本柱鳥居と呼ばれ、現存する原爆の被爆建造物となっている。

 原爆投下により周辺は焼け野原になり、4基あった鳥居も一の鳥居と二の鳥居を残して倒壊したが、一の鳥居は無傷で、二の鳥居は爆心から遠い片方の柱と爆風によりねじれて角度がわずかに変わった笠石の半分を残して立っていた。

 その後の調査等により、両鳥居は爆風の向きと平行して建っていた為に全壊を免れたといわれているが、昭和37年(1962年)に一の鳥居も交通事故により倒壊し、跡地に案内板が設置されるのみとなった。 (壊れた鳥居の片方)

 

また、三の鳥居は倒壊した柱の一部が地元自治会により「坂本町民原子爆弾殉難之碑」として残され、毎年8月9日早朝に慰霊祭が行われている。

 なお、被爆後の一の鳥居に関しては、破損当時の被爆遺構に対する関心が低かった為に撤去されたといわれている。

 現在、旧二の鳥居は鳥居としての役割を果たすとともに、当神社唯一の被爆遺構の意味も果たしている。なお、公式名称は「一本柱鳥居」であるが、地元では「片足鳥居」という名称で浸透している。

【屁理屈】

 互いに心を澄ませれば、

 尊敬し感謝に値する物事は沢山ある!

 お互いに憎み合えば、憎しみに値する物事は沢山ある!

 神道は互いを尊重し、共に感謝し合う心を根底に措いた宗教で有る。

 神道神社は森羅万象お互いに尊敬し感謝する心の象徴で有ったのに、片足鳥居は、人の愚かさを如実に物語る遺構といえる。長崎の原爆投下は双方に責があり、日本側だけに非がある訳ではない

6−2 注連縄

 注連縄は社・神域と現世を隔てる結界の役割を持った、稲藁で作られた紐で、神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。

 御霊代・依り代として、神がここに宿る印ともされ、古神道においては、神域はすなわち常世であり、俗世は現実社会を意味する現世で、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。

 

 神聖な場所は各地各所に有って、注連縄は神聖な場所と俗との区別、或いは神聖な場所を顕在化するために、山の大岩、湧水地、巨木、海の岩礁の奇岩などにも、注連縄が張られる。

 注連縄が張られた処は神聖な処と言う意味で、日本の正月には、家々の門や、玄関や、出入り口などに、また車や自転車(昭和の時代には)などにも注連縄飾りが取り付けられる。

 注連飾りも、注連縄の一形態で、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で選ばれた、特別な力士だけが締めることができる横綱も、注連縄である。

6201

 神聖なお米を作るために、水田に注連縄を張って、田植えを行ったりする。

 その起源は相当に古く、文字のない時代からで有ろうが、記述としては日本神話に、天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(尻久米縄)で戸を塞いだのが起源とされる。

 注連縄は稲作信仰に由来するとも云え、稲作信仰は神道の根幹をなす一つでもあり、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻で、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる。

【注】

 古い時代の神道では、神が鎮座する神留や、山や森を神奈備といい信仰の対象した。後に森や木々の神籬や山や岩の磐座も、神が降りて宿る場所、或いは御神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた。

 左綯え 6202

出雲大社など島根県では一般とは逆に左から綯い始めるものが多い

 

 注連縄の巻き方として、向きにより、左綯えと右綯えの2通りがあり、左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作る。

 左綯えは、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。

 右綯え 6203

 

(鴨御祖神社の注連縄:取県米子市尾高町)

 祀る神様により男性・女性がいて、綯う方向を使い分ける場合がある。

 大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながら締め、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく。 右綯え6204

松山市伊予豆比古神社楼門

 

 注連飾りには、大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど色々な種類の形式がある。 大根締めは両端がつぼまり、ゴボウ締めは片側のみが細い。

6205

 前垂れ締め

 

 大根締め 絵は右綯え

 

 

 牛蒡締め 絵は左綯え

 

 

 

 北海道神宮の注連縄 6206

 北海道神宮:北海道札幌市中央区宮ケ丘

 注連縄の上に米俵が2俵載せ、注連縄の端の結び方も特徴有る。

 このタイプの注連縄は、青森あたりでも見かける。

 

 蛇の注連縄 6207

 奥沢神社:世田谷区奥沢5-14-

 この注連縄は区の民族文化財指定で、創建年代は不詳だが、世田谷城吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられる。江戸時代中期に疫病が流行し、以後厄除として藁で作った大蛇を携えて練り歩く行事が行われた。

 

 

青森のアミ型注連縄 6208

 稲荷神社:青森市新田2-20-7

 青森市でも特にこの神社のある地帯は、殆どがこのアミ型注連縄である。而も一社ずつアミの結び方が違う。

 

 

 竹を通した注連縄 6209

 琴平神社:茨城県利根町布川

 竹の棒に注連縄を綯って作る注連縄である。

 どの神社も一年飾るので紙垂が、取れている事が多い。

 

 玄関飾り 6210

 材料としては稲や麻などの藁や、葛の茎を煮て抽出した繊維が使われるが、近年の家庭用の注連飾りにはビニール製も増えてきた。 神道としては、米を収穫したあとの藁ではなく、出穂前の青々とした稲を刈り取って乾燥させたものが本来の姿である。

 

 

紙垂だけの飾り 6211

 

結界の意義を紙垂に托し、普通の紐に紙垂を取り付けた注連縄

 

 また、心材としてお米を収穫したあとの藁も使用するが、太さが必要な際には多くの芯わらを使用する。

 なお、日本書紀には、弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあり、葛縄が大変重要な建築資材であったことが記される。

 また、江戸時代に、国学者塙保己一・塙忠宝親子が天帝の葛天氏は葛縄や糸や衣の発明者であったと講談し、葛縄や葛布が神聖視されたことを示した。

 飾り始める日は、松飾りの飾る期間と同じ扱いで良いが、地域によって異なり、現在では一般にクリスマス後から28日までに飾る。

 

 夫婦岩 6213

 29日と31日に飾る事は縁起が悪いとされ、31日に飾る事を一夜飾りといい、迎え入れる神様に失礼であるとされる。

 飾りを外す日も地域によって異なり、1月7日に七草がゆを食べた後、若しくは15日の小正月の後に外すとされる。一方、三重県伊勢志摩地方などは一年中注連縄が飾られる。

【屁理屈】

 偶々石の頭が二つ並んで出ただけなのに、みんなから有り難がられ、拝まれて、何処で役に立てるか解らない。

 御神木 6214

 注連飾りの意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするもので、現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。

 形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版に装飾を加えたもので、注連縄に、邪気を払い神域を示す紙垂をはじめ、子孫の連続を象徴するダイダイの実やユズリハの葉、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロの葉などのほか、東京を中心にエビの頭部(のレプリカ)などが添付されることが多い。

 これとは別に、東日本を中心に、長さ数十cmほどの細い注連縄を、直径数cm程度の輪形に結わえて、両端を垂らした簡易型の注連縄が広く見られる。

 これは京都方言で「ちょろ」、東京方言などで「輪飾り」、東海地方などで「輪締め」などと呼ばれていて、近畿地方では台所の神の前に飾る程度だが、東日本では、門松に掛ける(東京周辺など)、玄関先に掛ける、鏡餅に掛けるなど、非常に広く用いられる。一般家庭では、本来の注連縄の代用とされる場合も多い。

 また、近年では、さまざまな形状の注連縄が考案・販売され、現代的なアレンジも進んでいる。更に神道は民衆の意志が主体を為すので、注連縄も自由な発想に依る地域性がある。

吉備津彦神社拝殿

(岡山市吉備津) 6215

注連縄は綯った物ばかり

とは限らない。

 

古四王神社 (新発田市)

6216

 

 

諏訪神社 (新潟県北魚沼郡小出町虫野) 6217

 

 

素麺注連縄 6212

 

 

 

八幡神社 鶴岡市 6218

 

岩木山神社拝殿 津軽 6219

 

 

御神木 6220

 

 神道は民衆の真心を根底にして、誰彼に指図されることも無く、己の思うが儘の心で、万物を崇敬する思想(宗教)である。

 注連縄は数千年に亘る神道と共に、脈々と民衆に受け継がれた習俗の一つである。

 神道の基本思想は、万物を敬う心にある。神聖な対照は、由緒や神社に有るとは限らない。

 人気のない深山にも、人類に幸をもたらす偉大な物事がある。

 神道を信奉する日本の民衆は、それらに対しても決して崇敬の念を忘れない。

 

 

6−3 道切りの習俗

 道切りは注連縄とは多少趣を異にするが、縄を張ることと、結界の意義があることは注連縄と共通である。

 「道切り」とは、村に悪霊などが入ってこないように、縄を張り、或いは、境を守る標を村の境に置く事を云う。

 家が集まり集落となり、ムラ(村)・ザイショ(在所)と呼ばれ、生活共同体が生まれる。

 ムラは、村人が寝食などを営む生活の拠点であるために、安全と清浄を強く願った。昔は、ムラの外は単に耕地や隣村があると云うだけでなく、悪霊や祖霊・神仏の住む他界とも考えられた。

 特に悪霊・疫病神は道を伝ってやってくると考え、ムラの境に標を置いて悪霊防除を祈願した。こうした標で道を区切る事を一般に道切りという。

 境を守る標としては、道祖神・御幣・蛇やムカデを象った藁細工や、悪霊・疫病神の侵入禁止の意味で縄を張る。道切りは侵入禁止の意味だけでなく、ムラの中のけがれを送り出し、更に五穀豊穣・村内安全・風雨順時などの願いを込められるようになった。

 以前は全国的に行われていた習俗であるが、次第に少なくなり、現在はごく限られたところにしか残されていない。

 千葉県では、木更津市・安房郡・海上郡・鴨川市などに残されている「道切り」が、県立野外博物館「房総のむら」に展示されていて、その縄に藁で作った粗末な草鞋・桟俵・蛸・烏賊・酒樽・サイコロなどを下げる。

 粗末に作るのは、そのムラが貧乏で不具者ばかりで悪いものの侵入を諦めさせ、酒樽・サイコロは酒や博打の戒めと云われる。「辻切り」とも云われる。

 滋賀県八日市市中小路町市

 

6301

 

 

 

 

 滋賀県愛知郡愛東町

6302

 

【屁理屈】

 道路整備などを契機に、由緒ある風習が棄てられることが多い。

 

千葉県安房鴨川市

6303

 

千葉県本埜村

6304

 

【屁理屈】

 道を利用して、良い人も入ってくるが、ろくでもない人も入ってくる。昔も今も同じである!今では電話線を伝わっても入ってくる

 

 

6−4 手水舎

 手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことにはじまり、その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られる。

伊勢神宮 五十鈴川 6401

 

 時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎が併設されるようになっていった。

 手水舎 6402

多くの手水舎は、四方転びの柱が用いられ、四方吹き放しとなっており、その中に水盤が据え付けられている。柄杓が置かれており、それを使用する。柄杓にすくった一杯分の手水を使い、一連の所作を行う。

 一般的には、まずは一礼をし右手で柄杓を取り、手水を掬う。最初に左手を清め、柄杓を左手に持ち替えて右手を清める。

 もう一度右手にその柄杓を持ち替え、左の手のひらに少量の水を溜めて(柄杓に直接口をつけない)その水を口に含み、音を立てずにすすいで口を清めた後、左手で口元を隠してそっと吐き出す。

 左手をもう一度清め、柄の首を片手で持ち、やや立てるように傾け、残った水が柄の部分を洗うように手を使い流す。柄杓を元の位置に静かに戻す。最後にもう一度一礼をする。

 御祭神に参拝するのも、近所のお宅を訪問するのも、差ほどの変わりはない。よそ様に伺うのだから、汚れた手では失礼なので手を洗います。口臭があっては失礼なので口を漱ぎます。

 

 

6−5 社殿

 

 

6−5−1 本殿

 山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の本宮と伝えられ、現在も本殿を持たず富士山そのものを祀る古い祭祀形態を留めている。ご神体は富士山 (静岡県富士宮市)。 65101

 神社は、古くはヤシロ(社)といい、このヤシロとは本来は「屋代」の意味で、神を祭る仮小屋や祭壇を指した。ヤシロのシロは、穢れを付着させるための身代わりとされるカタシロ(形代)などのシロと同意である。

 神の依代である神籬は、最も小さなヤシロといえる。また、広い意味では祭壇や、忌竹や注連縄などで俗界と区切られて聖域とされた祭場全体も含めて、ヤシロ、つまり、一時的な神の仮住まいといいうる。

 神の仮住まいに過ぎなかったヤシロは、寺院において仏像を祀る仏教の影響から、御神体を常祭する「神社」へと変貌していった。

 神社において、最も重要な御神体の鎮座する内陣を備えた建物が「本殿」とされ、御神体を拝むための「拝殿」や、神域を区切る鳥居などの設備が整備されていった。なお、本来の姿から変貌を遂げていった後も、多くの神社では、御神霊と因縁のある霊域(磐座など)で祭りが行われている。

 

 

6−5−2 拝殿

 本殿は、その起源を祭壇に求められるように、祭祀の対象であって、祭祀を行なう場ではなかったのである。

 拝殿は祭神の祭祀のための施設であるが、本来、神社の祭祀は本殿の正面の露天の祭場で行なわれていて、現在でも伊勢神宮・春日大社・宇佐神宮・松尾大社など拝殿を持たない古社は多い。

 なお春日大社中門(重文)(奈良県奈良市)拝殿の成立は、本殿よりも後である。

 山宮浅間神社の拝殿に相当する遙拝所 65201

 

 祭祀において、神職らは祭場の左右に着座し、そこから中央の祭場に赴いて祭儀を行なったのだが、祭場が屋内になると、中心の祭場が幣殿となり、神職着座の場が回廊となって、回廊の入口には楼門が建てられた。

 このように祭祀の形態にあわせて、楼門と回廊と幣殿が建てられたが、これらを持つに至らない小規模な神社は、やがてその機能を圧縮して、ひとつの社殿にその機能を備えさせることにした。これが拝殿である。

 

 

 

6−5−3 社殿概要

 仏教伝来以降の神社建築は、上古の建築を復古的に採用し、仏教建築のデザインを意識的に排除しつつ成立したとされ、神社建築の特徴の一つとしては、その様式の尊重がある。

 神社建築は、一宮などの各有力神社において固有の様式を採っており、尚かつ、その固有の伝統的な様式維持に努めている。

 そのため、神社建築の様式を解明することは、その神社の祭神の性格を知る上で重要な手がかりの一つとなり、後にできた神社においても、建立当初の様式を保つものが多い。

 社殿を御祭神をお祀りする建物と云う意味からすれば、個人の庭先に祀られる稲荷神社から、天を衝くような建造物まである。

 

住居の裏庭に祀られた祠 65301

 

 造り方の粗密には関わりないが、小さくても、大規模神社の縮小版の如く、緻密に作られた建物もあり、幾通りか有る社殿建築の形態までも如実に写されている場合がある。

 一般に神社建築の構成は、拝殿・幣殿・本殿が中心で、この三っが備わっている場合もあるし、併用している場合もある。

 

神社に行くと賽銭箱が置いてある拝殿(礼拝用の建物)が建っており、次いで幣殿が有る。幣殿は、祭儀を行い、幣帛を奉る社殿で、本殿と拝殿との間に位置し、両者を繋ぐ

 拝殿 65302

ような構造になっているのが特徴で、中殿ともいう。

 

幣殿が独立していることもあり、また、拝殿と一体になっている幣殿もあり、幣殿がない神社もある。

 拝殿と弊殿の奥に御神体を収める本殿があり、本殿は拝殿の奥にあって見えにくい爲、一般の参拝者は拝殿を神社建築の中心的建物と考えがちである。

 本殿は流造、春日造が一般的で、小型の本殿では、風雨から守るために覆屋をかける場合もある。

 側面から見た写真で、左側に見える板壁の建物が拝殿と弊殿で有る。右側に見える小柄の建物が本殿(神殿)である。本殿へは行くには、拝殿から弊殿を通過して、一旦表に出て、渡り廊下或いは地上に降りてから、本殿に辿り着くのである。本殿は板垣(瑞垣)で囲われていて、垣根からは入れない。

 拝殿と本殿をつなぐ部分に幣殿が造られることも多く、これらを一続きに建てる場合も多い。建物の横に回ると、拝殿の奥に幣殿や本殿を確認することができる。

 本殿は神がいるとされる神聖な場所なので、瑞垣などで囲われたり、覆屋が造られ、普段はその内部を見られない。

 一部の神社では山や岩を神体として崇めるため、本殿を持たず、神体を直接拝むための拝殿だけのところもある(大神神社・金鑚神社など)。このように、社殿のない神社が本来の形式であったとも考えられる。

 本殿は、神霊を宿した神体を安置する社殿のことで、神殿ともいい、人が内部に入ることを想定していなので、拝殿より小さい。

 古くは一宇の本殿に一柱の神が祀られたが、現在では一宇の本殿に複数の神が祀られることも多く、内部には神体(鏡など)がおさめられる。

 内陣と外陣に分かれている場合は内陣に神体が納められ、外陣は献饌・奉幣の場として使われる。

 拝殿は、祭祀・拝礼を行なうための社殿で、祭祀の時に神職などが着座するところで、吹き抜けとされる場合が多く、通常、神社を訪れた際に見るのはこの拝殿で、一般の参拝は拝殿の手前で拍手を打って行なうが、祈祷などの際は拝殿に昇る(昇殿)こともある。

 拝殿は、一般に本殿よりも大きく建てられ、床を張るのが一般的であるが、中央が土間となって、通り抜け可能な「割拝殿」(国宝となっている桜井神社のものが著名)もある。舞殿、神楽殿、社務所などを兼ねることもある。

 神社によっては拝殿がないところ(春日大社・伊勢神宮など)や、2つ持つところ(伏見稲荷大社・明治神宮など)もある。2つある場合は、手前を外拝殿と呼び、奥のものを内拝殿と呼ぶ。鈴の緒や鰐口がある場合もある。

 このほか、楼門(神門)や鳥居、神楽殿(舞殿)、手水鉢、社務所などが神社建築に含まれる。

 神社建築の特徴として以下の点が指摘されている。

@屋根に妻を持つこと

 入母屋造は仏教建築に由来する様式で、一部に入母屋造が見られるが、殆どの神社建築の屋根は切妻造である。

 同じ仏教建築の様式である妻のない寄棟造や、宝形造は神社建築には採用されていない。

 このことは、仏教建築からの一方的な影響ではなく、神社建築としての価値観に基づいて、神社側が主体的に入母屋造を神社建築に採用したことを示している。

 妻の神社建築における意義は明確ではないが、信仰上の重要な要素であったことは間違いない。

 例えば、伊勢神宮正殿において妻の部分の金具が特別視され、式年遷宮の際に妻を装着する儀礼が秘伝とされたことや、流造の社殿を横にいくつも連結した社殿に於いて、ひとつの社殿ごとに正面に千鳥破風の妻が設けられ、ひとつひとつの社殿が区別されていることからもわかる。

A床を高く張ること

 床を高く張ることは、本来、土間を基本とする寺院建築と対照的である(奈良時代の仏堂や禅宗様の建物は中国の建築と同様に床を張らない)

B瓦を用いないこと

 瓦を用いないことは、明らかに瓦葺きの仏教建築との差異を意識し、もしくは仏教建築を忌避したものといえる。

 神社の屋根は基本的に植物材で葺くが(檜皮葺や?葺)、近世になると銅板葺(銅葺、銅版葺)も用いられるようになった。

 ただし例外的に、本殿に瓦葺を用いる場合もある(たとえば、沖縄の神社は伝統的な赤瓦を用いる)

C土壁を用いないこと

 土壁を用いないことは、B瓦を用いないこと、と同様である。

D装飾の質素なこと

 装飾が質素なことは、上古の日本建築の様式を固定化したためといえ、日本固有の神の住まいなので、仏教とは異なることを意識し、日本に伝統的な建築の意匠を取り入れている。

 

 

 

6−5−4 神 社 建 築 の 種類

 建物自体、細部まで見るとその違いは多岐にわたるが、大きくみてその様式を二つに分けることができ、一つは高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」であり、もう一つは古代の住居の形から発達した「大社造」となっている。

 

 

神明造とは、伊勢の神宮を代表としてみられる様式で、切妻造の屋根(棟を境に本を開いたように屋根が両側に流れている)の棟と平行の「平」側に入口がある平入という形になっている。

 中でも伊勢の神宮は掘立柱の切妻造平入萱葺の様式で、特に唯一神明造と云う。この神明造から派生した、前面が長くのびて向拝(ごはい・参拝者のための廂)となっている「流造」や、切妻平入の建物が二棟連結している「八幡造」などがある。

 大社造とは、出雲大社に代表される様式で、切妻造の屋根の「妻」が正面に見えるほうに入口があるため、妻入という。この「大

 

 

 

 

 

 

 

 

社造」の流を汲むのが、住吉大社の「住吉造」や春日大社の「春日造」である。

 このほか、本殿・幣殿・拝殿が連結した構造で、屋根の棟数が多く複雑になっている「権現造」、拝殿の上に流造の本殿が乗り、重層構造となっている「浅間造」など、地域や信仰により社殿形式はさまざまですが、その時代の建築技術の粋を集めたものであることは確かである。

 

神社の造りを大まかに述べたが、此を要約すると

 神明造・・・・切妻造、平入りで弥生時代の穀倉としての高床建築と類似する。伊勢神宮の本殿の様式である。

 住吉造・・・・切妻造、妻入りで内部が内陣と外陣に分かれている。大阪市住吉大社本殿が代表的建築。

 大社造・・・・高床、切妻造、妻入りで入口は妻の右側にある。内部は四つに分かれ、神座はいちばん奥にある。

 春日造・・・・切妻造、妻入りで正面の階段上に社殿と同じ幅の階隠(はしかくし、ひさしのこと)の屋根をつけているのが特色。奈良春日大社の様式。

 流造・・・・神明造りから発達したもので、屋根は前のほうが長くのびて、向拝(正面のひさし)をおおい、母屋の屋根と向拝の屋根が一連のなだらかな曲線を描くようにつくってあるのが特色。代表的なのが京都の賀茂御祖神社本殿であるが日本の神社の約7割は流造であるといわれる。

 日吉造・・・・切妻造の正面左右にひさしをつけている。日吉大社が代表的建築である。

 権現造・・・・本殿の前に拝殿を置き、石の間という別棟でエ字形に連ねたもの。京都の北野神社、日光の東照宮や金沢区の瀬戸神社がその例である。

 大社造・・・・屋根は切妻造。 「妻入り」・・・屋根の合掌部分(妻)が正面となり、その側に出入り口を持つ構造・・・の非対称。

また、床が高いのも特徴である。

日本最古の神社建築の様式と言われています。

八幡造・・・・屋根は、切妻造の 建物前後に2つならんだ 双堂形式の「平入り」・・・屋根の平らな側が正面となり、その側に出入り口をもつ構造である。

 後ろの建物を内殿、前の建物を外殿と呼び、外観はニ棟だが、内部は連続していて、両殿の屋根の谷に共通の樋を設けるのが特徴で、両者に神座が設けられており、ともに本殿として扱われる。

 神社の建物には、先ず屋根があり、柱があり壁がある。次いで基礎がある。

 基礎には掘っ立てと云われる、柱をそのまま地中に建てる方法と、地上に木材の井桁を組んで、その上に建てる方法と、石材など腐食しない資材を置いて、その上に建てる方法がある。

 柱の下に土台を持つものは流造・春日造に代表される。柱を地面に直接建てたり、礎石などの基礎を設置したりせずに、社殿の最下部に井桁を組み、その上に柱を建てる。

 これは社殿を移動させることを前提とした様式で、祭祀のときだけ社殿を設置し、祭祀を行なわないときには社殿を設置していなかったと云う、上古の祭祀方法の名残ではないかと言われている。

 或いはまた、「神籬」(上古の仮設の祭壇)が発展して、常設の社殿となったのではないかといわれる。

 流造・春日造のいずれも床下を壁で隠蔽している。これは神社建築一般の特徴でもあるが、社殿と設置された地面とのつながりに神聖性を求めることによる。

 言い換えると、社殿の神聖性の根源は置かれている場所に求めることができる。すなわち、神体とされる領域や磐座などの上に仮設の祭壇を置いて祀った神籬の形式を受け継いだものではないかということが、ここからも指摘できる。

 境内社や小祠に用いられる様式で、流造や春日造の階を省略して棚を付けた見世棚造という小型社殿様式があるが、これは省略形というよりはむしろ神社建築の原形に近いともいえるかもしれない。  このように、起源を上古に求めることができ、「柱の下に土台を持つもの」は神社建築の中でも古い形式と考えられる。

 心御柱を持つものは神明造と大社造である。この様式の特徴は、心御柱・棟持柱を持ち、掘立柱であることである。心御柱は、社殿の中央にある柱を指すが、建築構造上、意味をなさない柱であり、本来は神の依代であったと考えられる。

 神明造では社殿本体と完全に分離している。棟持柱は母屋の梁を支える他の柱と違って棟に届く柱のことである。

 そして棟持柱を含めて、全ての柱が礎石を使わず地面に穴を掘って建てる掘立柱である(現在の出雲大社は土台の上に建つ)。掘立柱は原始住居以来の建築に使われるものである。

 

 

 

6−6 ご神体 神鏡

 この地球上にある総ての物事は、太陽の恩恵の上に成り立っている。そして生物が生存できるのは、太陽の核融合エネルギーが有って、更に引力と遠心力の釣り合いが為せる偶然の結果とによって、生物が生息出来る環境に成ったからである。

 総ての生物は、地上の環境に寄り添って生命を維持しているのだが、如何に人間の文明が進化したと雖も、現実には太陽次第と云わざるを得ない。

 日本人は古来より太陽の恩恵を熟知し、太陽に対して、何事にも代え難い崇敬の念を抱いていた。

 即ち日本人にとって、太陽の恩恵は広大無辺で、而も太陽の脅威も、また計り知れないことを知っている。

 即ち太陽は「神」であり、太陽を祭神に祀ることは、当然の趨勢で御祭神の偶像として、「鏡」を用いたと思われる。

 

 神鏡とは、神聖な鏡という意味の一般名詞で、神霊のご神体として神社の本殿に祀られている鏡もあれば、または拝殿の神前に置かれている鏡もある。三種の神器の一つである八咫の鏡も、神鏡の一つである。

 

神棚の神鏡 6601

 

神社に備えられる鏡も、家庭の神棚に備えられる鏡も、大きさの違いだけで、その本質は同じである。

 

 神鏡の意義として、一般的には太陽を鏡で擬していると言われる。これは、鏡で日の光を反射した際、それを正面から見ると太陽のように輝いて見える為で、日本神道では御祭神を太陽としている。太陽の神秘、天照大神を最上の神として崇め祀るので、太陽を象徴する鏡を御神体とし、神社に祀るとされている。

 日本書紀においては、天照大神は孫である瓊瓊杵尊に、「これらの鏡を私の御魂として、拝するように常に奉りなさい」と記述されている。また、この神鏡を乗せる台は通常雲の形をしていて、これは雲形台と言われる。

 日本のみ成らず古代中華に於いても、太陽崇拝が有って、多くの鏡が出土しているので、参考までにその幾つかを述べる。

 神鏡の発祥は中国に遡ると言われる。中国では日本以上に多数の古代神鏡が出土されており、日本で一番古いと言われる「

青龍三年銘方格規矩四神鏡」が西暦235年とされるものであるのに比して、中国で最古とされる神鏡は「葉脈文鏡」であり、紀元前1600年~770年と日本と桁違いに古い。

 

 青龍三年銘方格規矩四神鏡 6402

 

 

また、魏志倭人伝によると邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣いを送り、魏から銅鏡百枚を下賜されたとあることからも、日本の神鏡文化は中国からの文化輸入であると考えられる。

 なお、朝鮮においても神鏡は多数出土されていて、神鏡の種類として幾つかを挙げると、葉脈文鏡がり、中国王朝、殷・周代のもので、紀元前1600年~紀元前770年と世界最古の神鏡である。

 現在でも21面しか発見されておらず、銅鏡は簡素だが、日本の土器によくある葉脈文や平行線文などの幾何学文様が見られる。

 素面鏡は春秋戦国時代の、紀元前770年~紀元前220年の神鏡で、外見は名前の通り素朴で平板なものだが、薄くて軽い為に技術の向上が見られる。

【屁理屈】

 世の中、権威にぶら下がっている“人”を見かけるね!

蟠龍菱文鏡 6603

  

 

 

蟠龍菱文鏡は前漢前期の、紀元前219年~紀元前111年の神鏡で、とぐろを巻く龍や蛇の図案が彫られている。

 方格規矩四神鏡は1~2世紀後漢の神鏡。中央に方形の線が彫られ、それぞれの区画を青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の文様が配置されている。

 神仙画像鏡は2~3世紀の後漢の神鏡。文様の特徴として、南極老人や天皇大帝、東王父、西王母などが彫られている。

 青龍三年銘方格規矩四神鏡は、日本最古の神鏡で、この神鏡の銘にある「青龍3年」が、中国の魏の年号で西暦235年に当たり、『魏志倭人伝』で邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣いを送ったのが景初3年(239年)のことで、帰国したのが正始元年(240年)なので、その中にこの鏡が含まれていた可能性が指摘されている。

 漢龍虎鏡は3世紀後漢晩期の神鏡で、中央に龍と虎の文様が睨み合っている為にこう呼ばれる。

【屁理屈】

 長生きしたい!長生きしたい!と、あれやこれやと努力するが、ずうっと死ななかったら、これも難儀ではないのかな!

 程々で死ねるから良いと思うよ!

  三角縁神獣鏡は、

 

青銅製の、断面が突出して三角形を成し、且つ神獣の文様が刻まれている為にこう呼ばれる。 神獣鏡は中国や朝鮮でも多数出土されているが、 三角縁神獣鏡は日本だけで出土され、三角縁である点が日本固有の特徴である。  日本で作られたのか、中国で作られたのか判然としないが、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚の内に含まれるのではないかと言われている。 然し邪馬台国の時代の3世紀の遺跡・墓からは全く出土しておらず、4世紀の古墳時代の遺跡のみから出土されている。

【屁理屈】

 一神教の民族間では、大昔から民族同士の憎み合いが、延々と続いている。神道を信奉する日本人には理解が難しい。

 何故大昔のことを怨んでいるのだ!大昔のことを怨むから、今でも憎しみ遭う! 昔の“人”は、昔の“人”で終わっている。

     今の“人”は、今の“人”ではないのか?

 憎しみは自分の心も傷つき、相手の心をも傷つける!

 人類は食物連鎖の頂点にいて、遣りたい放題の殺戮をしている。其れを全部怨まれたら、一体どうなるんだ!

 貴方は一日に幾つの生命を奪っていますか?

 憎しみの連鎖など、日本人には理解できない!

 余談 魔鏡

 神道の本旨には関わりのない話だが、鏡の特性として「魔鏡」がある。

 魔鏡は、平行光線ないし点光源からの拡散光線を反射すると、反射面のわずかな歪みにより反射光の中に濃淡があらわれ、像が浮かび上がる鏡(特に銅鏡)である。

 原理はわずかな凹凸がある鏡に、日光の平行光線などを反射させると、凸の部分では光が散乱し暗く、凹の部分では収束し明るくなる。その結果、文様があらわれ微細な凹凸である為、近くでは通常の鏡に見えるが、反射光をあてる先の距離を数メートルほど長くすると文様が見える。

 日本では古墳時代の三角縁神獣鏡で魔鏡の現象が確認されていて、17世紀に入ると隠れキリシタンの間で隠れ切支丹鏡が作られ、禁止されたキリスト教の十字架やマリアなどを隠したまま浮かび上がらせ、それを崇拝してきたと云う。 1990年頃、日本国内でも試験的に製造されたこともあり、磨きの技術は手作業で行われ(当時は機械では不可能)、5枚が製造され、そのうちの2枚がヨハネ・パウロ2世に贈られた。

 

 魔境とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「インフレーション」状態だという指摘もある。

 臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは、槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。 実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見もある。

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