神社奉拝

 この日本に御祭神が誕生した時期は、“ひと”がこの地上に住み着いたとき迄遡る。

 “ひと”が生きて行く上で、生まれついての法則があり、この法則は現在でも全く変わっては居ない。

 人は、尊敬されれば尊敬で返すが、此方から尊敬しなければ尊敬はしてくれない。

 人は、感謝されれば感謝で返すが、此方から感謝しなければ感謝はしてくれない。

 人は、責任を持って対応すれば責任を持って対応してくれるが、此方から責任を持って対応しなければ、責任を持って対応してはくれない。(下駄を預けるようなことをすると、信頼はしてくれない)

 此を要約すれば、此方が尊敬と感謝と責任を持たなければ、先方も尊敬と感謝と責任は持ってくれない!と云うことである。

 “ひと”や“衆”の生命は、何方かの犠牲の上に成り立っているのだが、犠牲となる生命以外にも、周囲の諸々から、幾多の恩恵も受けて居るのである。

 恩恵を与えてくれる相手は、山や川や自然現象のような、当初から生命を有しない対象と、人や獣や魚や虫や菌類の様に、生命があり何れは消滅する対象も、犠牲になっているものもいる。

 “ひと”や“衆”は生命の有無に拘わらず、恩恵を与えてくれる存在に対して、尊敬の念と感謝の情を持って、生物無生物を問わずに、生命とは別の存在として「精霊」の存在を認めた。

 而して生命には有無生滅は有るのだが、精霊は有無生滅に関わりなく、永久不滅不変の存在であるとする。

 仮に慈愛に満ちた偉人を A氏 としよう。

 A氏 は周囲から尊敬され、感謝される存在であった。

 “ひと”は慈愛に満ちた偉人(A氏)に対して尊敬と感謝の念を懐き、 A氏 の精霊(永久不滅不変)を、自己の胸中に誕生させた。

 (平たく謂えば、彼は良い人だなあ! 世話になったなあ! と思った。 心に思ったことなので、自分が忘れない限り消えない)

 仮に自己の胸中に精霊を誕生させた“ひと”を B君 としよう。 B君 は若者だったので、彼が胸中に誕生させた A氏 の精霊の方が年上である。 然しB君 は生身の“ひと”なので、歳月に抗するなく、年と共に皺が増え遂には死去する。

  B君 が死去したときには、 B君 の胸中にあった A氏 の精霊も消滅する。因って、A氏 の精霊が、 B君 の胸中に有る丈では、 B君 の寿命よりも長くは存在出来ないのである。

 多くの場合 A氏 の功績は、 B君 一人が尊敬感謝をしていた訳ではなく、多くの同感者が居たであろう事は推察に余りある。

 依って“ひと”が“人”と成り、“衆”と成って相計り、 A氏 への尊敬感謝の心を共有するための施設として、祠を建て社を建て、 A氏の精霊を御祭神としてお祀りすることとなった。

 神社に祀られた A氏 の精霊は、神社が存続する限り、 A氏 が壮年で有ったときの壮壮たる意気の儘に生き続けるのである。

 尊敬と感謝と誠実を以て、彼を訪ねてきた人々(参拝者)に対し、A氏 の精霊は、若かりしときと同じように、慈愛に満ちた心で、彼(A氏)が出来る限りの恵みを施してくれるのである。

 A氏 の精霊は、お体はお若いときと同じであるが、経過した歳月は膨大である。依って多くの物事を見聞きしているので、凡夫の心の裏など、隠すに値しない。依って、御祭神をお祀りする神社では、真心でなければならない。

 精霊は、此方から尊敬しなければ尊敬はしてくれない。

 精霊は、此方から感謝しなければ感謝はしてくれない。

 精霊は、此方が責任を持たなければ、責任を持っては呉れない。

 (何故かと謂えば、精霊はもともと人間だったので、心は人間の儘である。下駄を預ける“ひと”も、相手にはしない)

 精霊は時空を超越した存在だが、元々は人間なので、神社での行事は、総て御祭神は“生きて居られる!”事を前提に行われる。

 参拝者は、頭を下げて挨拶を為し、ぽんぽんと手を打ち鈴を鳴らし、普段の言葉で話しかけ、収穫物をお供えし、歌を歌い舞を披露し・・・・・・・・・・、神職さんは神様に丁寧に応接していて、基本的には何事も、生きている人への対応と変わるところがない。

 神社に祀られている御祭神は、昔々にご誕生為された生身の“ひと”にも関わらず、精霊としての、お姿とお心と能力は、“衆”に多大な恩恵をもたらした当時と全く変わらないのである。

 お祭りする御祭神は、現代人と同じように、個々に得意とする能力や経験をお持ちの方々で、全知全能の神ではないので、身勝手な話と謂われるかも知れないが、“衆”は御祭神の能力や経験に頼って、参拝しているのである。

 神様を頼み分ける事は、全知全能の神に対しては失礼かも知れないが、知識と経験を異にする御祭神なので、却って此が御祭神への心遣いでもあろう。

 斯くして御祭神は“人”の胸中から社へと移り住み、多くの民衆と接することが出来るようになり、社が消滅しない限り、永遠の生命を維持できる。

 さて日本の神様は何時誕生したのか?・・・・文字もない時のことなので、古としか謂いようがない!

 御祭神の誕生から数千年の歳月を経て文字が実用化され、歴史書が編纂された。

 口伝から脚色編集された御祭神は、幾千年を経ると雖も、当時の儘のお姿で、然も根本理念を変えることなく、躍躍と現代に生き続けて居られる。

 神社は日本中何処にでもあり、個人旅行でも団体でも、必ずと言って良いほど立ち寄る場所だが、その都度何時でも朱印帳を持参している訳ではない。記憶への回帰は何某かの切っ掛けがないと起こらない。依って朱印帳と旅行メモを頼りに記憶を呼び覚まし、奉拝した記憶の蘇った神社だけを掲載した。

【屁理屈】

 万能の機械は、あれもこれも出来るが、却って役に立たない!

 専門の機械は、あれもこれもは出来ないが、能力は抜群である!

 

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伊勢神宮

 近年の新興住宅地に建築された住居のことは知らぬが、今でも家の床の間には、天照大神と豊受大神の掛け軸が掛けられていて、特段の意図もないのに昔から敬仰されている。

 筆者が曲がりなりにもこの歳まで生き長らえて居られたのは、国内が平穏だったからに他ならない!それは国民が平穏を願っていたからで、その根本は、“お互い(お互いとは万物を謂う)にお互いを認め、お互いに尊敬と感謝する心”が根底に有ったからである。

 この心根こそが神道の根本理念(教義とも言える)であり、伊勢神宮は国民の安寧を祈念して祀られた神社である。

【屁理屈】

 お互いを認めず、怨みを宿していたならば、彼方此方で紛争が絶えず、私は五体満足では生きられなかったも知れぬ!

 伊勢神宮の正式名称は「神宮」と謂い、内宮(皇大神宮)所在地:三重県伊勢市宇治館町1 と、外宮(豊受大神宮):三重県伊勢市豊川町279 の2社で構成され、内宮の主祭神は天照坐皇大御神(天照大御神)で、本殿の様式は唯一神明造,外宮の主祭神は豊受大御神である。

 伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮、豊受大神宮は外宮と呼ばれ、皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、皇室との結びつきが強い。

 

  天照大神

 

 結界の鳥居を潜り、俗界から神域に第一歩を標す。次いで五十鈴川を渡る。

 橋も新たに架け替えられ、擬宝珠には未だ養生シートが被されたたままの状態

 

平成25年に御祭神は新たな神殿に遷られた

内宮正殿

 

 

豊受大神宮 (外宮)

 所在地

   三重県伊勢市豊川町279番地

 主祭神 豊受大御神

 本殿の様式 唯一神明造

 

【屁理屈】

 如何に慈悲深くとも、食べるものに事欠いてはどうにも成らぬ!

 この神様は食べ物を受け持つ神様

 

外宮正殿

 

五十鈴川畔 禊ぎ場所

 御祭神に面会する前に、この川の水で身を浄めたそうだ

 今では、手水舎が設えられている

通算4回ほど参拝している

 

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靖国神社

 今日のこの命は、この時此処だけの物事ではない。

 “ひと”は多くの人々と、気の遠くなるような歳月と、光も届かぬ広大な地域で、互いに関わり合い生き延びて、その結果として、茲に私か居るのだ!

 平和を願い平和を唱えて居さえすれば、平和に成るというものではない。國の内にも外にも、安穏を妨げる要因は枚挙に暇なく、常にそれらを斥けなければ一時たりとも平穏は維持できない。

 家での戸締まりを厳重にすることは勿論だが、如何に戸締まりを厳重にしても、警察に取り締まって貰えなければ、賊は難なく侵入し、金品のみ成らず生命も容易に奪えるのである。

 国土も常に警戒を怠ることなく、即座に反撃出来る態勢を常に維持しなければならない。

 賊を斥け攻撃を防御するには、多大な危険を伴い、命を落とすことも稀ではない。自己の生命を犠牲にしてまで、国家国民に奉仕して呉れる文人や武人や・・・・・・などの“ひと”が居てくれるからこそ、私達が日日平穏に暮らして居られるのである。

 その事を想えば、この社に祀られている御霊に、感謝の祈りを捧げずに居られようか!

 命の恩人に感謝の念を持たずにいられようか!

 所在地 東京都千代田区九段北3丁目1番1号

 主祭神 護国の英霊 246万6千余柱

 創建  1869年(明治2年)

 本殿  神明造銅板葺

 

拝殿

遊就館

 御祭神の遺品が収められた博物館

 

 

【屁理屈】

 他国を利する爲にペンを持つ人もいる

 

【屁理屈】

 無辜の人を平気で裏切る人もいる

 

【屁理屈】

 己の欲望の爲に、他人を蹴落とす人もいる

【屁理屈】

 寺院に祀られた精霊と神社に祀られた精霊では、その立場が違う。

 寺院に祀られた精霊は、最上位に釈尊が居られ、釈尊の弟子として、例えば日蓮上人が居る。祀られた精霊は日蓮上人の弟子と謂う立場である。依って寺院に祀られた精霊は、冥界に在っても釈尊の思想に依らなければ成らない。

 神社に祀られている精霊は、祀られた精霊が最上位である。そして精霊の下には精霊に対して感謝の眞を捧げる民衆がいる。

 依って神社に祀られた精霊は、冥界に在っても精霊自身の思想に依れば良いのである。

☆九段へは私用で長年通ったので何度も参拝している

 

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千葉県護国神社

 国民が安心して生活するには、国防と治安が不可欠である。国防を怠れば他国に侵略されて、蹂躙されることは明らかで、治安を怠れば暴力が横行し、到底安穏な生活は出来ない。

 今こうして安心して生活が出来るのは、生命を賭して国防と治安の任に当たってくれている“人”が居てくれるからである。

【屁理屈】

 国防も治安も常に生命の危険が伴う職務で、殉職も珍しいことではない。我々は我々の恩人に対して、誠意を持って彼らに感謝の思いを持ち続けなければならない。此は今生きている私自身の勤めであって、決して蔑ろにしてはならない人の心である。

 千葉県護国神社は、千葉県に縁有る殉職者を祀る。

 

本殿所在地 千葉県千葉市中央区弁天3丁目16-1

主祭神   千葉県出身の護国の英霊 五万七千余柱

創建    1878年(明治11年)

護国神社神門

 

  

 

護国神社社殿

【屁理屈】

 日本人が抱いている第2次世界大戦の戦争感は、戦勝国が為した洗脳に依ることを認識しなければならない。

 世界には古来より「力は正義なり」と云う厳然たる原則があり、戦勝国側が「正」で、敗戦国側が「邪」と云う事となる。

 此は本質的な正邪とは関わりなく、力関係が為せる秩序で、国際的に、勝者が正で、敗者が邪と位置づけられるだけのことである。勝者敗者共に正義があり、単に争いに勝敗が有ったと言うだけのことである。

 この本質を見失うことは極めて愚かなことである。

 

 シベリア強制抑留死没者千葉県慰霊 シベリア抑留は、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜らを、ソ連が主にシベリアに労働力として移送隔離し、多数の人的被害を被らせた枢軸国側人の抑留と奴隷的強制労働に当たらせた一端である。 厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要され、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。

 第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。

崇敬の念昂揚し今年も参拝した

 

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茨城県護国神社

御祭神名 : 全県下の戦没英霊の御霊 63,494柱

鎮座地 : 茨城県水戸市見川1−2−1

連絡先 : 茨城県水戸市見川1−2−1

電話番号 : 029−241−4781

FAX番号 : 029−241−4781

郵便番号 : 〒310−0912

 

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【由来】

 当護国神社は我が国の永遠の平和と隆昌とを願いつつ、日本民族を守るため尊い生命を国のために捧げられた人々の御霊をお慰めしようとする、全県民の深い敬愛と尊崇の念が結集して、昭和1611月水戸桜山の現在地に創建されました。

 御祭神には幕末から明治維新以来日清・日露の戦役、大東亜戦争に至る事変戦役等において、国事にたおれ護国の礎となられた茨城県出身の63,400余柱の戦役者の英霊をお祀り申し上げております。

 こんにちの我が国の安泰と繁栄が、これら御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたことに思いをいたし、深くその御神徳を崇め末永くこのお社を護持していただきたいと念願するものであります。

【沿革】

◆当護国神社は徳川幕府政治体制から、近代国家体制へと大きく生まれ変わろうとする時代、幕末から明治維新にかけて、国のために殉じた水戸藩関係の烈士等1,800余柱の御霊を御祭神として、明治11年、水戸市常磐神社の境内地に、社名を「鎮霊社」として創祀された。

◆明治10年の西南の役、日清戦争等による茨城県出身の戦役者の合祀がおこなわれ、広く全県下の戦没英霊の御霊を奉斎する神社となる。

◆日露戦争、日支事変等の戦没御祭神は日を追うごとに急激に増加し、創建当時の御社殿では狭隘となっていた。

◆昭和144月、国の方針により各県下に英霊を奉斎する護国神社創建の事が決定し、これにより水戸桜山の現在地に建設が決定された。

◆昭和1611月、常磐神社境内の鎮霊社から「茨城県護国神社」と改称、盛大な遷座祭を斎行した。

◆終戦後の昭和228月鎮座地の地名を採って「桜山神社」と改称したが、日本の独立により、昭和2910月「茨城県護国神社」と復称、現在にいたる。

◆終戦直後から中断されていた大東亜戦争没者の御霊の合祀を再開、現在そのほとんどの奉斎を完了、その数実に63,494柱をかぞえる。

 

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満洲事変以降大東亜戦争本県人戦没者

軍人・軍属 一般県民
満洲事変 319 満蒙等外地死没者 3,122
支那事変 4,023 内地戦災死没者 1,757
大東亜戦争 49,200 計 4,879
計 53,542

軍人・軍属地域別戦没者数

ニューギニヤ 8,639 フィリピン 8,434
中部太平洋 6,966 中国 6,360
ビルマ(含インド) 5,813 本土(含周辺) 4,319
海上 3,550 満洲 2,122
スンダ、セレベス 1,931 ビスマルク、ソロモン 1,655
シベリヤ 1,235 沖縄 610
朝鮮 339 ボルネオ 307
台湾 227 小笠原諸島 226
スマトラ、ジャバ 183 タイ 175
マライ、シンガポール 175 千島樺太(含アリーユシャン) 142
仏領印度支那 134

計 53,542 (碑文より)

 

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明治神宮

 明治神宮とは、東京都渋谷区にある神社で、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とし、初詣では例年日本一の参拝者数を集める。

所在地 東京都渋谷区代々木神園町1番1号

主祭神 明治天皇

    昭憲皇太后

創建  大正9年(1920年)

 面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。

内拝殿

 また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。

 明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民から起こり、大正3年になると天皇に縁の深かったこの地への神宮建設が決定した。

 造営は翌1915年(大正4年)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加し、鎮座祭は、1920年(大正9年)11月1日に行われた。

 明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。

 いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。

 

  

崇敬会会員なので妻と私と交互に毎年参拝する

 

明治天皇

 

 昭憲皇太后

【屁理屈】

 高位にある人は高位で有るが故に、平成の皇太子殿下も、皇太子妃も、今上天皇も、皇后陛下も、明治天皇も、思いの丈を口に出来ない御苦労がある。

 【明治天皇御百首】録4首

 「玉」

 曇りなき心のそこのしらるるは ことばのたまのひかりなりけり

 「子」

 思ふことつくろふこともまだしらぬ をさなこころのうつくしきかな

 「薬」

 こころある人のいさめの言の葉は やまひなき身のくすりなりけり

 「社頭祈世」

 とこしへに民やすかれと祈るなる わがよを守れ伊勢の大神

 

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阿豆佐味天神社 ネコをお祀りする神社

 阿豆佐味天神社は、砂川の新田開発の際に、鎮守の神として1629年(寛永6年)に創建され、ご祭神は、医薬・健康・知恵の神として名高い少彦名命、文学・芸術の神 天児屋根命のお二柱である。

 

立川水天宮は、古来より安産・子授けの守り神として崇められていて、ご祭神は、天之御中主大神 安徳天皇 建礼門院 二位ノ局である。

 境内社には、蚕影神社(猫返し神社、養蚕の神)、八雲神社(厄除け)、疱瘡社(疫病除け、縁結び)、稲荷社(五穀豊穣、招福財福)、天神社(学問)、御嶽神社(火難盗難除け)、浅間神社(縁結び、安産)、金刀比羅社(交通安全)、八坂大神社(疫病除け)と諸々揃っている。

 

 更に又、猫返し神社と称され、行方不明になった愛猫の無事や健康をお祈りに来る人が多く、境内社にある蚕影神社にお参りし、「絵馬」に願いを書いたら、無事にネコが帰ってきたという報告も寄せられている。

 愛猫の無事や健康を祈る「猫絵馬・猫守り」を授与しており、「ただいま猫」の石像がある。

 

蚕影神社  その昔、砂川地域は養蚕が盛んで有った。

      蚕の天敵はネズミである。

      そのため、猫を守り神にしている。

所在地   東京都立川市砂川町 4-1-1

祭 神   小彦名命 天児屋根命

 

 

  境内社・蚕影神社

【屁理屈】

 随分とこじつけの様な気もするが、御利益そのものが、こじつけの産物とも言える。

 何れにせよ、其れで気が安らぐ人が居るのだから、其れは其れで、御利益と言えるのでは無かろうか!

☆ネコ好きの友人に付き合って、立川まで同道した。

 帰途ご馳走にあやかったので、私への御利益は立刻に訪れた。

 

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宇都宮二荒山神社

 正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。 古くは宇都宮大明神などとも呼ばれ、現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。

 

東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られ、社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の明治10年(1877年)の再建。

所在地 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1

主祭神 豊城入彦命

創建  仁徳天皇41年

神紋  「三つ巴(菊に三つ巴)」。

主祭神  豊城入彦命 第10代崇神天皇の第一皇子で、天皇の命で東国を鎮めたとされる。毛野国の開祖とされる。

鳥居    樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いた、高さ9.7m、幅13.8m、柱の直径90cmの大鳥居。江戸時代の同神社の両部鳥居を復元したものである(以前の明神鳥居は1946年12月に建てられた)。2008年10月12日、建て替えられた鳥居の竣工式が行われた。

 

 

 

【屁理屈】

 知らないのではなくて、

知ろうとしないだけだ!

二荒山神社が宇都宮にも有ると聞いて、参拝に行った

 

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鵜戸神宮

 鵜戸神宮は、宮崎県日南市にある神社で、日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。

 

社名「ウド」は、空、洞に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「??」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てる。

 古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。

所在地 宮崎県日南市大字宮浦3232

主祭神 日子波瀲武??草葺不合尊

祭神  大日?貴(天照大御神)

    天忍穂耳尊

    彦火瓊々杵尊

    彦火々出見尊

    神日本磐余彦尊(神武天皇)

創建  伝崇神天皇朝

 日子波瀲武??草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日?貴以下の皇祖神と神武天皇を祀る。

 

主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めていて、また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。

 創祀の年代は不詳で、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所である。

 その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。

  

運玉亀石

 本殿前にある霊石で、豊玉姫が海神宮から来訪する際に乗った亀が石と化したと伝える。石頂に枡形の穴が開くことから「枡形岩」とも呼ばれ、その穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いが叶うと云われる。

 かつては貨幣を投げ入れる風習であったが、1952(昭和27)年頃、落ちたお金を求め崖を降り磯に出る子がいて問題になった。

 このため、賽銭に替わるものをと鵜戸小学校と鵜戸神官とが共に試行錯誤した結果、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らによって作られる、粘土を丸め運の文字を押した素焼きの「運玉」が使われることとなった。

 

 

【屁理屈】

 頂きます!は、先ず太陽への感謝、農夫への感謝、運送屋さんへの感謝、八百屋さんへの感謝、お父さんへの感謝、お母さんへの感謝、健康な自分への感謝・・・神道の根本精神だ!

☆宮崎在住の友人と一緒に参拝した

 

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榎原神社

 朱塗りの社殿は、1658(万治元)年に神社とゆかりの深い、内田万寿姫の進言により、飫肥三代藩主、藩主伊東祐久が鵜戸神宮の分霊を祀った神社である。

 色鮮やかな鳥居と随身門

 

 

 

 現在の社殿は 宝永4年(1707)に建てられ、当時は八幡造りであったものが、寛政10年(1798)当時流行していた権現造りに改装されたものと思われる。 

 拝殿を入母屋屋根とし、正面に千鳥破風、その前面の向拝に唐破風を設けた。拝殿、相の間、神殿をつなぐ平面は八幡造りのままであるが、正面の姿は権現造りである。

 しかし、従来からの関係者は屋根の複雑さから八ツ棟造りと呼びならわしている。

所在地 宮崎県日南市南郷町大字榎原甲

御祭神 天照大神

    縁結びや安産祈願、家内安全などにご神徳がある。

 左奥手にある摂社桜井神社は内田万寿姫を祀る

 

☆宮崎県在住の友人と訪れた神社

 

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