金比羅宮

 金刀比羅宮は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社で、こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。

 明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合では象頭山金毘羅大権現と呼ばれていた。

 現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部であり、全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある。

 

所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1

主祭神 大物主命

    (相殿)崇徳天皇

札所等 さぬき十五社13番

 

 この神社は、海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めている。

 時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の朝鮮戦争における海上自衛隊の掃海殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。

 

境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られ、金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。

 長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなり、例大祭に合わせて毎年、これをメインに「こんぴら石段マラソン」が開かれている。

 金刀比羅宮の由緒については二つの説があり、一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。

 もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。

 

 

江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織され、金毘羅参りが盛んに行われる様になる。

 この頃、金毘羅参りは伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れといわれ、その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つ「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、滑稽本の東海道中膝栗毛に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話からも、窺うことが出来る。

 昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されている。

四国の金比羅宮は、観光旅行で立ち寄る場所である

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

熊野速玉大社

 熊野速玉大社は、和歌山県新宮市新宮にある神社で、熊野三山の一つである。熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神とする。

 

 境内地は国の史跡「熊野三山」の一部で、2002年(平成14年)12月19日、熊野三山が史跡「熊野参詣道」から分離・名称変更された際に、御船島を含む熊野速玉大社境内が追加指定された。

 2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部である。

 

 

所在地 和歌山県新宮市新宮

主祭神 熊野速玉大神

    熊野夫須美大神

創建  伝景行天皇58年

 

【屁理屈】

 お坊さんの話で、“ひと”は死んでも、その魂は更に修行をしないと輪廻から出られず、ずっと生き続ける!と云っていた。

 小生にとって此は随分と過酷な話しだ!

 又ある人の話では、生きている“人”の記憶に有る内は、その魂は生き続け、忘れられたときに魂も消滅する!と云っていた。

 この話の方が小生には有り難い。

 何故なら死んだら恐らく数年で忘れられるかも知れないから、その点は楽だが、せめて13回忌までは覚えていて呉れよ!とも云いたい。

 

☆熊野へ行き数回は参拝した

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

熊野那智大社

 熊野那智大社は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社で、熊野夫須美大神を主祭神とする熊野三山の一つである。

 かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。

 

 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部である。

 参道の長い石段の上は、右に青岸渡寺があり、左は朱の大鳥居と大社の境内が続いていて、拝殿の奥には鈴門・瑞垣を挟んで本殿があり、向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。

 正殿の第四殿が最も大きく、若宮の左手前には第六殿(八社殿)がある。

 なお、現在は山の上に社殿があるものの、後述のように元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられる。那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。

 

 

 

 熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興した。

 青岸渡寺は西国一番札所で、那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺がある。

 

所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

主祭神 熊野夫須美大神

社格等 官幣中社、別表神社

創建  不明(伝仁徳天皇5年)

 一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいわれている。

 祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命とする説があり、その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。

【屁理屈】

 一般に熊野神社とは、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。

熊野神社は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社で、同名または熊野社   くまのしゃ ゆやしゃ いやしゃ

十二所神社 じゅうにそじんじゃ じゅうにしょじんじゃ

など類似の社名の神社が全国各地にある。

【屁理屈】

 熊野に神社が沢山ある!と言うことは、大昔からこの地は裕福であったという証拠でもある

熊野古道へ行き数次は参拝した

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

熊野那智大社別宮飛龍神社

 この神社は、熊野那智大社の別宮で、那智滝自体が御神体なので、本殿は存在しない。

 依って拝殿もなく、直接滝を拝むこととなり、滝の飛沫に触れることによって、延命長寿の霊験があるという伝説がある。

 

 

所在地 和歌山県那

    智勝浦町那智山

主祭神 大己貴神

    大国主神に同じ

創建  不詳

本殿  無し 御神体:那智滝

熊野へ行き数次は参拝した

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

熊野本宮大社

 熊野本宮大社は嘗て「熊野坐神社」と呼ばれた神社で、家都御子神(素戔嗚尊)を主祭神とし、古代の創祠以来、熊野川の中州(大斎原)に鎮座したが、明治22年(1889)水害に罹災した後、流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したものである。

所在地 和歌山県田辺市

    本宮町本宮1100

主祭神 家都美御子大神

    熊野坐大神

    熊野加武呂乃命

創建  伝崇神天皇65年

 現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。

 現在、旧社地の中州は「大斎原」と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。

 熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。

 家都美御子大神について他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係する説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。

☆ 本宮大社には昔懐かしい丸型ポストが設置されていて、そのポストは見慣れた赤いポストではなく、黒くて上に八咫烏のブロンズが乗っていて「八咫ポスト」の名前がつけられている。

 

八咫烏のポストから投函した

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

見付天神 矢奈比賣神社 狗を祀った神社

 

悉平太郎伝説

 昔、この付近には怪神がおり、そのため毎年8月10日には人身御供が行われていた。

 1308年(延慶元年)に雲水という僧がこのようなしきたりを絶つため修法をしたところ、信濃国の悉平太郎が救世主になることをつきとめた。

 

雲水と村人が光前寺にいる悉平太郎を探し出し、借受け、翌年の8月10日に生贄の娘のかわりに悉平太郎を供えたところ、みごと妖怪を退治し、人身御供という慣わしを断ち切った。

 社殿に至る手前の赤鳥居のところに悉平太郎の像がある。

所在地 静岡県磐田市見付1114-2

現社名 矢奈比売神社

主祭神 矢奈比賣命

    菅原道真公    

    霊犬・悉平太郎

     【屁理屈】狗が菅原道真と同列に祀られている!日本だなあ!

祭神  火之迦具土神    

    表筒男神

    中筒男神

    底筒男神

境内社 氷室神社

    霊犬神社

    山神社

    大地主之神=土地の神様

    植山姫之神=土の神様

    産土之神=郷土の神様

創立  年月不詳

 

 

【屁理屈】

 狗に恩義があるのなら、狗だけを御祭神にすれば良いのだが、狗だけでは心許ないので補佐役として、菅原道真公にも顔出しをして貰いました。

 菅原道真公も新顔だから、もっともっと大昔の矢奈比賣命にも補佐をお願いしました

☆愛犬家の友人に付き合って参拝した。愛犬家にとっては由緒ある神社らしい。

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

五條天神社 

 医薬祖神 五條天神社は、東京都台東区の上野公園にある神社である。

 社伝によれば、日本武尊が東征のおりに大己貴命と少彦名命を上野忍が岡に祀ったものとされ、天神山(現摺鉢山)や瀬川屋敷(現アメヤ横丁入口)など、幾度か社地を転々とした後、昭和3年(1928年)9月に創祀の地に最も近い現在地に遷座された。

 また相殿の菅原道真公は、江戸時代に入り寛永18年(1641年)に合祀されたという。

所在地 東京都台東区上野公園4-17

祭神  大己貴命

    少彦名命

相殿  菅原道真公

    寛永18年に合祀

創建  伝景行天皇朝(約西暦110年)

境内社 花園稲荷神社(忍岡稲荷神社)

    倉稲魂命

    穴稲荷神社

歴史:この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。

☆上野公園へ行った折り、何時でも立ち寄れる神社である。

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

江ノ島神社

 御祭神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた神で、三人姉妹の女神である。奥津宮の多紀理比賣命、中津宮の市寸島比賣命、辺津宮の田寸津比賣命の、この三女神を江島大神と称している。

 社伝によると、欽明天皇十三年(552年)に、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して、宮を島南の竜穴に建てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とある。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されている。

 江島神社は、当時は、海運、漁業、交通の守護神として祀られ、 御窟を本宮といい、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいた。

 現在でも、境内各所の社蔵の浮世絵等で、当時の江島神社の様子を窺い知ることができる。

 特に中津宮には、江戸堺町中村座、江戸新町中村座、江戸葦屋町市村座、江戸新肴場和泉甚左衛門等が奉納した石燈籠があり、 江ノ島入り口には数多くの寄進者達の名前を刻んだ青銅の鳥居などがある。

【屁理屈】

 美味しい饅頭の味を知ってしまうと、毒饅頭でも欲しがる

 

奥津宮

多紀理比賣命をお祀りしていて、多紀理比賣命は、三人姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれている。

 相模湾を臨む岩屋に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所と称され、 社殿は壮麗を極めてたが、天保十二年(1841年)に焼失。翌十三年に再建されたのが、現在の御社殿で、昭和五十四年(1979年)に修復した。 養和二年(1182年)に、源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師・酒井抱一が拝殿天井に描いた、どこから見てもこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」は有名である。

     

中津宮

 市寸島比賣命をお祀りしている。

 創建は文徳天皇仁壽三年(853年)。その後、元禄二年(1689年)に改築され、朱色が鮮明な現在の御社殿は、平成八年の全面的な改修により、元禄二年改築当時の中津宮を再現したものである。

 幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠寺は、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っている。

邉津宮

 田寸津比賣命をお祀りしていて、土御門天皇健永元年、将軍・源實朝が創建した。

 延寶三年に再建された後、昭和51年に改築されたものが、現在の辺津宮である。

 江島神社の一番下に位置していることから『下の宮』とも呼ばれ、 島の玄関口にもあたり、神社での御祈祷は、こちらで主に御奉仕される。

【屁理屈】

 人生は経過した歳月に価値がある

 社会は成遂げた物事に価値がある

【屁理屈】

 人生の価値には、一も有れば十もある。プラスもあればマイナスもある

☆江ノ島観光に行くと、殆ど立ち寄る神社

 洞窟の中にも祀られている

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

江ノ島弁財天社

 辺津宮の境内の奉安殿には、八臂弁財天と、 日本三大弁財天の一つとして有名な裸弁財天・妙音弁財天が安置されている。

 江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せ、世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江・竹生島、江島の弁財天のことである。

 八角のお堂・奉安殿は、妙音弁財天、八臂弁財天の御尊像を奉祀するために昭和45年に造営されたもので、 奈良法隆寺の夢殿をモデルにした造りとなっている。

 

所在 神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号

 

【屁理屈】

 江ノ島神社の境内には、同じような社が複数有って、どれが本殿か、どれが拝殿か?区別が付きにくい。

 弁財天の朱印を戴いたので、茲に載せた。

☆江ノ島観光に行くと、殆ど立ち寄る神社

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

香取神宮

 香取神宮は、関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社である。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。此の3社は外浪逆浦湖を挟んで向かい合う位置にある神社である。

所在地 千葉県香取市香取1697

主祭神 経津主大神

下総国一宮

創建  初代神武天皇18年

 この神社にも鹿島神宮に祀られている武甕槌大神が祀られていて、大鯰が起こす地震を封じる要石が祀られている。

 

 

【屁理屈】

 選挙の投票率が低い。棄権という選択は、どのような結果でも異議は申しません!と云う意思表示である。

 香取神宮は千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山と称される丘陵上に鎮座し、全国でも有数の古社として知られる。

 古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬され、その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からは信仰の篤い神社である。

 主祭神は経津主大神と称し、別名を伊波比主神・斎主神とも称す。

 大きな神社には御祭神の他にも、相殿神と云う幾柱かの神様が祀られている。

 武甕槌命 - 鹿島神宮祭神。

 天児屋根命 - 藤原氏の祖神。

 比売神 -     天児屋根命の妻神。

香取神宮拝殿

 

 祭神の性格としては、フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされていて、名称の「フツ」についても、記紀に見える布都御魂という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれる。軍神の認識を表すものとしては、平安時代末期には「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(『梁塵秘抄』)と歌われている。

 

【屁理屈】

 平成26年2月8日(土)、東京は40年振りの大雪である。その後、著者はロシアソチオリンピックの閉会式を写真に収めた。

 日本の選手団は、代表は大きな日章旗を掲げ、団員は開催国に敬意を払って、日本の小旗とロシアの小旗を振って行進した。

 

だが他の國の選手団は、代表は大きな自国の国旗を掲げて行進し、続く団員も自国の小旗のみを振りながら行進した。

 此処で、日本国選手団と、他国の選手団とで、大きな思想の違いを発見した。日本以外の国民には、開催国に敬意を払うと言う配慮はなかったのである。北京大会の時にも、日本の団員だけは中国国旗も振った。

“相手に敬意を払う思想は神道の根本理念である”

【屁理屈】

 外国へ旅行すると、チップを払う習慣があると知らされる。

 チップはサービスに対する対価だと説明された。

 其れは如実で、レストランでチップを払うと、実感できるほどにサービスが異なっていた。

 サービスは感謝の表れだとすれば、金銭の多少でサービスが変化する事が、中々理解出来なかった。

 日本の社会でも、そんな事があるのかなあ・・・・・・

 何時も同じように処遇されていたような気がするのだが・・・・

 

 

 

【屁理屈】

佐原には伊能忠敬と云う偉人が居た。市内に彼の顕彰碑が有る。

銅像もある。

 後世の人が彼の業績を称えて顕彰したのだろう。其れは一つに、彼の業績に感謝しているとは云えないだろうか?

 感謝をしているのなら、幾分か祭神の要件を満たして居るのでは無かろうか?

☆度々佐原に行き、その都度香取神宮には立ち寄った

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

次のページへ