鉄砲洲稲荷神社 鉄砲には関わり無さそうな神社

 鉄砲洲稲荷神社は、中央区湊にある稲荷神社で、鉄砲洲稲荷神社の創建年代は不詳ですが、承和8年(841年)の創建とも承久年間(1219-1221)の創建と伝えらる。

 寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座、八丁堀稲荷と称していたといい、明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから当地に遷座、明治6年郷社に列格していたという。

社号  鉄砲洲稲荷神社

祭神  宇迦之御魂大神

    豊受姫大神

境内社 八幡神社、琴平神社、住吉社、浅間社、三輪社、天満社所在地 中央区湊1-6-7

 

 鉄砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鉄砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島で、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当する。

 寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられていて、昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったもので、八町堀の掘られたのが慶長17年で、京橋あたりの土地生成が、天文の頃足利義輝の治世になっていて、これら京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鉄砲洲稲荷神社の「生成大神」である。【神社の由緒書きに依る】

 

【屁理屈】

 魔鏡と魔境とは、読みは同じだが意味は全く違う

【屁理屈】

 魔境と謂う言葉がある。

 修行などで身体的に過酷な状況となったとき、脳の活動が錯乱し、幻覚に陥って仕舞うことを言う。

 その幻覚を幻覚と判断せずに、超常現象を会得した!と勘違いして仕舞う“人”達が居る。

 脳を錯乱させるには、身体的苦痛を与える方法と、薬剤を用いる方法と、両者を併用する方法が有るようで、その方法を会得した者が邪な考えを持つと、同調者を集めて、その者に、超常現象を体験させ、幻覚を以て自分を神格化して教祖を名乗る。

 此は宗教とは全く関係のない行為で、脳の錯乱を利用し、何某かの目的を持った懐柔工作の方途と言える。

☆友人から鉄砲を祀ってある神社がある!と聞き及んで、行ってみたが、鉄砲を祀って有るのではなくて、地名が鉄砲だった!

 

 

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天岩戸神社

 古事記、日本書紀等に皇祖天照皇大神は御弟素盞鳴尊を御避け遊ばして暫く天岩戸へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸を斎ひ奉る神社です。

 境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体としてお祭り致して居ります。

 社殿は東本宮と天岩戸直拝の西本宮と岩戸川の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが、東本宮関係の昌泰年間の記録に天照皇大神、天岩戸より御出ましの節、思兼神は其の御手を取りて東本宮の土地に御造営の御社殿へ、御鎮りを願ったと記してあります。

 弘仁壬辰三歳中秋には三田井候の遠祖、大神大太惟基公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。

又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽三十三番の古雅なる手振を宮司社家代々伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より二月初旬にかけ、各集落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開きと称するを舞納むる慣習があります。

 

西本宮社殿

本宮は遙拝しました!

 住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀礼参し、水戸の烈土井上主人義秀等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛」を残して居る。

天照大神尊象

 

   

 又大宝の昔京都神祇宮卜部朝臣参拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考えられます。

皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。

天岩戸神社

西本宮

御祭神   大日霎尊

      天照皇大神の別称

御神木   招霊の木

 天照皇大神が御隠れになられた天岩戸(洞窟)を御神体として御祀りしている神社。

 

天岩戸神社 東本宮

御祭神   天照皇大神

 天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしている神社。

天安河原宮

御祭神   思兼神

      八百萬神

 天照皇大神、天岩戸へ御籠り遊ばれた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より500メートル川上の此の天安河原は其の御相談の場所であると伝へます。

 此の河原の一角に「仰慕窟」と称し間口40メートル、奥行30メートルの大洞窟があり、全国から願事が叶うとの信仰があります。

☆是非参拝せねばと、思い立ち参拝した神社

 

 

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二見興玉神社

 龍宮社二見興玉神社は、三重県伊勢市二見町江にある神社で、旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。境内の磯合にある夫婦岩で知られる。

 

 岩の上には鳥居があり、注連縄が張られる。日の光は地上の万物を照らし生命を与える。日本人は太陽の恵みに感謝し、身を浄めてお迎えをする。

 誰に勧められた訳でもない!老若男女を問はず、感謝の心でお迎えをする。神道の根本理念である。

 古来より、人々は当二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石」を拝した。

 この伊勢の海清き渚より富士の山影を望み、その背から輝き昇る朝日、取り分け夏至の朝日を拝する神厳さは筆舌に尽し難い感動を覚え、世界を照らし治め、日の大神と称えられる天照大神様の御神威を拝み、また猿田彦大神様の御神力のお陰を戴き、神人一体の極致を体感されますことをお祈りする。

 

 夫婦岩の沖合約700mの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝する神社である。

 猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれていて、この神の神使はカエルとされていて、神社参拝の後に神徳を受けた人々が、神社の境内にカエルの塑像を献納する。

 

 このため、境内には無数のカエルの石像が並んでいて、この神社の授与品もまた「無事カエル」「貸した物がカエル」「お金がカエル」と呼ばれるカエルをモチーフにしたものである。

 夫婦岩は日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居の役目を果たしていて、古来、男岩は立石、女岩は根尻岩と呼ばれていたが、いつの頃からか、夫婦岩と呼ばれるようになった。

 この名称がついた時期は定かでないが、江戸時代中期の『伊勢参宮名所図会』に大注連縄を張った夫婦岩の絵が載せられている

二見興玉神社

所在地 三重県伊勢市二見町江575

主祭神 猿田彦大神

    宇迦御魂大神

綿津見大神(境内社 龍宮社)

大若子命 (飛地境内社 栄野神社)

主な神事 大注連縄張神事

 

【屁理屈】

 人の頭は同じリズムが続くと、思考能力を失って、先方の云うことが尤もらしく聞こえる。

 同じリズムとは、チンチン、カンカン、ポクポク、・・・・・・・

☆二見浦は屡々写真で目にする。現物も同じだった!

 

 

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日光二荒山神社

 日光二荒山神社は、栃木県日光市にある神社で、正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して、「日光二荒山神社」と呼ばれ、古くは「日光三社権現」とも称された。

 関東平野北部、栃木県北西に立つ日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社である。

 ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」の1つとして登録されている。

所在地 本社:栃木県日光市山内2307

中宮祠 栃木県日光市中宮祠2484

奥宮  栃木県日光市中宮祠二荒山主祭神二荒山大神

    (大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)

御神体 日光三山(神体山)

創建  本社:神護景雲元年(767年)

神橋(重要文化財)全景

所在地 栃木県日光市大谷川

長さ  28m

幅   7.4m

高さ  10.6m

建設  1904年

写真は新たに掛け替えられた橋で橋脚がある

 神橋は日光山内への入り口に位置する、大谷川に架かる橋で、「日本三奇橋」の1つとされ、古くは「山菅の蛇橋」、または単に「山菅橋」・「蛇橋」とも称された。

 構造は特異で、「乳の木」と呼ばれる大木を両岸の土中・岩盤中に埋め込み、両岸から斜め上向きに突き出し、そしてこの両端に橋桁を渡して橋としている。

 この工法は、現存する重要文化財指定の木造橋8基の中でも唯一であった。

 

重要文化財 唐金の鳥居

本社  日光の社寺最奥に鎮座

中宮祠 中禅寺湖畔

奥宮  男体山山頂

 日光三山は男体山と云い、古名を「二荒山」・女峯山・太郎山からなり、当社はそれぞれに神をあてて祀っている。

 三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、その神域には華厳の滝やいろは坂も含まれる。

 

【屁理屈】

 人生は判断の連続である。

 何時も都合の良い判断が出来るは限らない。

 都合の良い判断が出来れば嬉しいが

 都合の悪い判断をすると悲しむ

 判断を誰かが代わってくれれば、随分と気が楽になる

 此が、神を信ずる!と言うことだ

 自分で判断をしないから、どちらへ行くかは、神様任せ

 有為な人生とは、自分が判断した結果としての、喜びや悲しみである。

 喜びも悲しみも、人生にとっては共に成果の一つである。

 判断を神様任せにすることは、判断と云う負担は軽くなるが人生の重みも少なくなる。

東照宮へ行くとその手前にある神社

 

 

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日枝神社 流鏑馬祭り

 茨城県新治郡新治村にある日枝神社(山王大権現)の流鏑馬祭は毎年四月第一日曜日に行われる。日枝神社の流鏑馬祭は大猿退治の伝説に基づくことが特色である。

 

 村に伝わる伝説によれば、日枝神社の境内の大木に一匹の大猿が棲みついていた。その猿が里に出て農作物を荒らし農民を困らせていた。

 猿は山王大権現のお使いとされているので、農民は供物を捧げて静めようとしたが一向におさまらず、ついに稚児を選び人身御供に差し出すことになった。

 これを伝え聞いた領主小神野従羅天は、弓の名人市川将監に依頼、力を合わせて大猿を退治した。この伝説を儀式化したのが流鏑馬神事であり、流鏑馬祭には稚児、従羅天、将監の三人の主役が馬に乗って登場する。

 従羅天と将監の役はそれぞれその子孫が演じ、将監役は「幸加」の木で作られた的を、大猿に見立てて馬上から射る。この流鏑馬は茨城県無形民俗文化財に指定されている。

 日枝神社の主神は「大山咋神」。この神様が山王大権現、山王様と云われている。

 この伝説を元に、山ノ荘の平和と五穀豊穣を祈願する流鏑馬神事として拝殿前の馬場で奉納するようになった。現在では近江坂本の日枝・東京赤坂の日枝と並んで日本三大日枝流鏑馬祭といわれている。

【屁理屈】

 この神社は村社で普段はゲートボールをする老人会が居るだけである。著者はこの辺りで牧畜業をしていた経緯から友人も居り、身近な行事なので度々足を運んだ。

 常磐自動車道土浦北インターを出て、15分ぐらいの処にある周囲が水田と畑地で、こんもりとした林の中にある神社である。

 今は町村合併で土浦市と成ったが、以前は茨城県新治郡新治村東城寺127-1と言う地名であった。

 そして「小野小町の墓」から南に約600mの辺りに鎮座し、参道が350mもあり、そこで弘仁元年(810)から伝わる古式豊かな流鏑馬が行われている。

 参道脇には矢場の立て札が立てられ、突き当たりの境内入口には「流鏑馬祭の碑」も建立されている。境内そのものは余り広くはないが、本殿には素敵な彫刻が施されており、鎮守の杜も豊かである。

友人が自慢する自慢の神社

 

 

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7−46 箱根神社

 箱根神社は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある神社で、かつては箱根権現、三所大権現とも称さ

所在地 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1

祭神  箱根大神

    瓊瓊杵尊

    木花咲耶姫命

    彦火火出見尊の3神の総称。

    なお、奥宮には以下の造化三神も祀られている。

    天之御中主神

    高皇産巣日之神

    神皇産巣日之神

創建  孝昭天皇の治世

 六国史や延喜式神名帳には見えないが、古代よりの山岳信仰の霊地であったと見られ、『筥根山縁起』によれば、孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、天平宝字元年(757年)、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。

 駒ヶ岳山頂には箱根元宮が昭和39年(1964年)に堤康次郎の寄進によって再建された。以来、奥宮として登拝者を集めている。

 社宝の『箱根権現絵巻』には、天竺斯羅奈国・波羅奈国の姫君と王子が日本に来て箱根三所・伊豆二所両権現となったという伝承が掲載されている。

 『吾妻鏡』には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。

 豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建した。

【屁理屈】

 まずは今出来ることから実行する!

 言い訳は、その次のことだ!

【屁理屈】

 1000年前の出来事を記憶している“ひと”が居るのか?

 普通の人でも50年ぐらい前の記憶は有る。

 “ひと”は複製の“ひと”を誕生させて、生命を維持しているのだから、仮に30年を一代とすれば、33代で1000年前と謂うことになる。

“ひと”の脳は、記憶情報を30回ぐらいコピーしても、消えないと思うけど・・・・・

 偶に100年前のお祖父さんの事を知っている“ひと”が現れても、不思議なことでは無いと思う!

 パソコンは何回書き換えても間違わない。もし間違えるのなら、カードが使い物にならなく成ると思います。人の脳は、パソコンより良いのだと思います。人の脳には数万年前の記憶も有るのかも知れません。

☆芦ノ湖に赤い鳥居を映す神社

 

 

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八股榎大明神

 八股榎大明神は、愛媛県松山市にある神仏習合(寺院巡礼編を参照)の祠である。同じ境内にあるお袖大明神とあわせて八股榎お袖大明神と称される。

所在地 愛媛県松山市

    二番町4丁目

主祭神 八股大神

    榎大神

    お袖大神

 この近辺はかつては榎が多く生えており、江戸時代後期から昭和39年(1964年)までの地名「榎町」の由来にもなった。

 松山城の堀の南東に位置し、松山市役所の前に社地がある。境内手前がお袖大明神、奥が八股榎大明神という構成で、祠の後ろに榎の大木が生えている。

 この祠の起源は、かつて勝山城(現在の松山城)にすんでいた神通力をもつ狸、お袖が1830年(文政13年)にこの地に生えていた榎の大木に住み着いたのに始まるとされる。

 祠が置かれていた榎の大木は明治44年(1911年)に松山電気軌道が開通する際に邪魔になるからと切られて仕舞った。

 この時に上一万(現在の勝山町2丁目)の常楽寺境内の六角堂に合祀され、この堂には現在も八股榎大明神が祀られている。

 後に別の榎の下に祠が建てられたが、その榎も伊予鉄道が路面電車の複線化を進める際に切られる事となったが、切り倒す作業は難航し、結局昭和9年(1934年)に石井村の喜福寺に移植された。

 しかし古木のためその後間もなく枯れてしまい、。直後に大井村の大井駅で一人の女学生が降車し、それがお袖狸の化身ではないかと噂になり、小西村の山奥の明堂という小さな堂に移り住んだということにされ、一時的にそこへの参詣者が増加したと云う。

 その後お袖狸は松山城の堀端に帰り、昭和20年代に生えた榎の木に棲み付いたとされ、昭和27?28年頃に小さな祠が建てられた。

 その後昭和30年(1955年)に仮殿が造られ、翌年には本殿が造営された。以降信奉する民間人によって祭祀が続けられている。

【民間伝承】

 八股榎お袖大明神

 天保元年(1830年)ごろ、今の松山城を、勝山城と呼んでいて、その勝山の森にすんでいたお袖狸が、ある日、お城のやぐらへ登って、お城下町のかなたこなたと眺めながら、

 “こんな山の中にばかりいてもつまらない。どこかの町角の、人通りのおおいところへおりて行ってみよう。きれいな人が大ぜい見えるだろう”

 そこで、何日間か、引越しの用意をしたお袖さんは、いよいよ山と別れることにして、美しいお姫様に化けました。そして、お城のうら道をとろとろとおりつくしたところの、八股に来ました。

 その頃、八股には、古い榎が何本も茂っていて、大きな森のようでしたから、お袖さんのすみかには丁度よいところです。その上、前の広い道路を、ひっきりなしに色々な人が通るので、人を見るのにも好都合です。

“こんなよいとことはない!”

 お袖さんは八股へおさまってしまいました。そして、この新居が珍しくてなりません。毎日、道路に面してすわり、ゆききの人をながめていました。ずいぶん大ぜい通りますが、その中には、きれいな人、きたない人、わかい人、老いた人、病気らしい人、元気そうな人、色々の人です。

 “世の中とはこんなものかな?” 少し考えさせられます。

 ある日、

 “何か用はないものか、毎日じッとして人々を眺めているだけで、お山よりたいくつでしょうがない”

 こんなことを思いながら座っていると、ひとりのおばあさんが目にとまりました、杖にすがって、よぼよぼのおばあさんです。たいくつな時は、今まで思うてもいなかった考えがわくものです。

 “あのお婆さんが来たら、話しかけてみよう”

 声をかけようとした時に、おばあさんが、急に歩みをとめて、苦しみ始めたのです。お腹がうずきだしたのです。

 お袖狸は、おばあさんの腹のうちがわが、透視できるものですから、その腹の中に、まだこなれずにごろごろしているお餅を見て、

 “年寄りのくせに大食家だよ。胃袋がはりけそうな、どれどれ”

 お袖狸は両手をだすと、揉むかっこうをし始めました。

 冷たい汗をひたいにたらたらと、そして顔色といったら土色になっているおばあさんの目の前が、うすぐらくなっていく時です。

 これがあの世への旅立ちとでもいうものか、と、考えたりもしていると、榎の茂みから、目には見えぬが、助けの力を感じはじめたのです。

 お袖狸の目には、おばあさんの胃袋の中のお餅が、両手でもむから二つずつこなれていくのが見えます、そして十のお餅がすっかりこなれてしまった時、おばあさんの目が、しっかりとした視力で、お袖狸の方を、おがむように見ました。

 胃のうずきのとれて、すっかりよくなったおばあさんは、

 “あの榎には、神通力があるのにちがいない”

 榎の木をおがむようにして、さっさとかえってゆきました。

 翌日、おばあさんが、孫をつれて、榎の木の下へ来ました。妙なことにお花を立て、おがんでいるのです。

 お袖狸はうれしくなりました。

 “仕事ができた。そうだ、困っている人をたすけることだ”

 もちろん、おばあさんも、うれしかったことは、だまってはいません。まして御利益のようなものを懐いて、胃痛のなおった命拾いのことです。すぐ、人に話しました。

 それにお袖狸は、一度の体験がすっかりうれしくもあり、また決心したことでもあり、通行人を透視しては、心配ごと、苦しみごと、精神上のこと、肉体上のこと、何から何まで、神通力でもってすぐなおしてあげたり、妙案を与えたりしました。

 “八股の榎前を通ると、凡てがよくなる。どうりでお線香があげてある筈じゃわい”

 町の評判になってしまいました。

“あれは、八股のお袖さんのおかげじゃ”

 誰言うとなく、こう言うのです。事実それにまちがいないのですが、それをそう言いだした最初の人もまた明察のきく人だと言わねばなりません。

 人間にも、こうしたふしぎの知る力が、お袖狸の神通力みたいに、心の奥の、ずっと奥にあるかもしれません。叡智の光とでもいうのでしょうか。

 ついに、お礼まいりの人がたえなくなり、狸の好物、赤飯、あぶらあげ、ごちそうが供えられるようになりました。

 お袖狸には、また一つ仕事ができました。たくさん持ってこられた供物を、お友達に分けたり、または、お姫さまに化けて、困っている家へくばったりすることです。

 おかげで、たのしくいそがしい日をおくるようになりました。もとの古巣である勝山の森へ帰ってみるひまもなく、ただ思い出してはなつかしむだけでした。

 明治、大正の世もすぎて、昭和に移った頃のことです。

 松山市では、電車線路が単線では、どうも不便で仕方がなく、複線にする必要がある、という訳で、丁度、八股のあたりの道路をうんとひろげて、ということになりました。

 困ったことには、そうするというと、お袖狸のすむ榎を切ってしまわねばならず、市の役人も、市の人々も、そのことで大へん心配したのです。けれども、お袖狸のお袖さんにたのんで、ついに切ることになりました。

 お袖さんはかなしみました。大ぜいの人々と別れるのが残念でたまりませんでした。市の人々も、神さまのように思っていたお袖さんがいなくなった後のことを考えて、困ったと言いあいました。

 まもなく榎は切りはらわれ、電車がひっきりなしに走るようになりました。

 すみかをなくしたお袖さんは、どこへすみかを定めようかと、あちらこちら考えました。古巣の勝山へ何十年目かに行ってみましたが、やっぱりすむ気にはなれませんでした。それで南の御幸山へも行ってみましたが、ここもだめでした。

 “こんどは思い切って、人里はなれたところへすんでみよう”

 西方、久万の台へ行ってみましたが、ここも人でいっぱいでした。そこでずっとはなれた久万山の奥へ入っていったお袖さんでした。久万山の奥で、今でも八股の榎の家をなつかしんでいることでしょう。

 

☆愛媛の松山城は観光コースである。チョット道を逸らせば興味深いところは多多ある。民衆の感謝の心が祀った御狸様で有る。

 ただ行ってみると、お稲荷さんのように、赤い鳥居と赤い幟だった!(パンフレットの丸写し)

 

 

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武田神社

 武田神社は、山梨県甲府市古府中町にある神社。躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神とする。

 戦国期に武田城下町の中心で領国経営の中核であった武田氏館跡は武田氏滅亡後に破却され、甲府は南端の甲府城を中心とした城下町としなる。

 近世に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。

所在地 山梨県甲府市古府中町2611

主祭神 武田信玄公

社格等 県社・別表神社

創建  1919年(大正8年)

 1880年(明治13年)には明治天皇が地方巡幸に際して武田信玄ゆかりの社寺保存のために保存金を下賜し、山梨県ではこれを契機とした信玄霊社建設運動が起こる。

 県令藤村紫朗は古城地の公有地化を進めた。保存金下賜の目的は、明治初期の大小切騒動で消沈した県民の帰向心再生であったという。

 明治維新後には歴史上の忠臣や勤皇家に追贈を行うことが行われており、また日露戦争後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励され、軍神と評される武田信玄を祀った神社創建の機運があった。

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 4月12日に行われていた例大祭には神輿の後に地元相川住民による武田二十四将を模した騎馬行列が行われており、1947年(昭和22年)からは甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせていた

著者の参拝目的はこの算額が見たいため!

 

 

【屁理屈】

 歴史小説はそれなりに面白い!

 武田信玄が活躍した時代を懐旧し、心を遊ばせることも、同好がいれば、心を戦わせることも出来る。此こそ旅の醍醐味といえる。

 

☆著者が武田神社を参拝した目的は、手水舎に掲げられたこの算額にある。武田神社自体の創建が比較的近年な爲、算額も比較的新しく鮮明で、七枚と数の多いことも魅力の一つである。

 数学に自信のある方は、現物を見て解答を試みることをお勧めする。

【屁理屈】

 算額とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。平面幾何に関する算額が多く、数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

 奈良円満寺の算額は、和算において、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと言われる。

 やがて、人びとの集まる神社仏閣を数学の問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。

 このような算額奉納の習慣は世界中をみても他に類例がなく、日本独特の文化といわれる。その一部は重要文化財や民俗文化財に指定されている。明治時代になると、日本には西洋式数学が導入されることとなったが、算額奉納の風習は、この導入を容易にしたとも評価されている。

 1997年(平成9年)に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存している。これら現存する算額で最古の記年銘をもつものは栃木県佐野市の星宮神社に奉納された天和3年(1683年)のものであった。

 延宝8年(1681年)の村瀬義益『算学淵底記』によれば、17世紀中頃には江戸の各地に算額があったことが記されており、ここでは目黒不動の算額の問題が紹介されている。

 京・大坂にはさらに古くから算額があったと推定され、17世紀後半には算額に書かれた問題を集めて数学書にするものも現れ、出版物としての算額集の最初は寛政元年(1789年)藤田貞資『神壁算法』とされる。

 算額奉納の習慣は、江戸中期に入ると全国的に盛行し、とくに寛政・享和・文化・文政のころは最も隆盛し、1年に奉納数が100を越えたこともあったといわれている。

 明治に入ってからも昭和初年頃まで和算の伝統をひいて継承された。近年、算額の価値を見直す動きが各地でみられ、21世紀に至ってもなお算額の奉納を受け入れる神社もあり、また算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。これは直接和算の伝統を受け継いだものではないことが多いが、いずれにしても日本人の数学好きをあらわす文化事象として興味深い。

 算額が多く分布する地域や寺社で、現存する算額は関東地方や東北地方が多く、もっとも多いのが福島県の103面、次いで岩手県93面、埼玉県91面、群馬県などとなっている。長野県木島平村の算額8面は、山間部の小村としてはきわめて濃密に分布している例である。また、愛媛県松山市の伊佐爾波神社には22面の算額が奉納されており、これは1箇所で確認されているものとしては最多である。伊佐爾波神社の算額については、『道後八幡伊佐爾波神社の算額』として図録にまとめられ、同神社より発行されている。

 

【屁理屈】

 この頃、OKかNOで判断することが多い。現実社会での判断は、OKかNOばかりでは無く、幾通りも有るはずだ!

 其れなのに、ご意見をお聞かせ下さい!と、謂ってはいるが、実のところは、OKかNO以外の意見は全く聞く気がない。

 こういう思想は、一元論の思想に近く、他の判断(考え方)の立ち入る余地を与えないのである。

 身近には、オーム真理教が挙げられよう。教祖の思想を絶対視し、民衆に大きな迷惑を掛けた。

 有名な話として、キリスト教のガリレオ裁判がある。

 ガリレオガリレイの言葉は印象的だ!

 この事は、図らずもキリスト教の本質を覗かせた!

 

【屁理屈】

 日本の古代史は神話で信憑性がない!という御仁が居る。

 「忠臣蔵」は誰でも知っている。全くの作り話とは云わないが、全くの史実でもない。

 立場によって判断は異なる!“ひと”の心を経れば、その人の心に染まる。どんなに史実を模索しても、結局多かれ少なかれ、忠臣蔵と似たり寄ったりとも云える。

 

☆武田信玄を祀る神社で算額が見られる有為な神社

 この神社に行ったら、必ず手水舎に懸かる算額を見ること!

 

 

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報徳二宮神社

 報徳二宮神社は、神奈川県小田原市にある二宮尊徳を祀る神社である。

 

 二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年(1856年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。

 明治24年(1891年)に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894年)4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。

 境内の二宮金次郎像附属施設として、報徳会館、報徳博物館(尊徳や報徳社の関係資料を蒐集保管する)がある。

所在地 神奈川県小田原市城内8-10

主祭神 二宮尊徳翁

創建  明治27年(1894年)

 

【屁理屈】

 

二宮尊徳は、江戸時代後期の農政家・思想家。通称は金治郎であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。

 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。

 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に百姓・利右衛門の長男として生まれる。

 当時の栢山村は小田原藩領であって、金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。

 その影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。

 14歳で父・利右衛門が死去、2年後には母・よしも亡くなり、尊徳は伯父・万兵衛の家に身を寄せることとなった。

 伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。

 この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。 また体重は94kgあったと言われている。

 生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。

 奉公先の小田原藩家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。

 その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市、なお合併前の二宮町の町名の由来は尊徳である)の仕法を任せられる。

 後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。

 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没。戒名は誠明院巧誉報徳中正居士。明治24年(1891年)11月16日に従四位が追贈されている。

【屁理屈】

 ご飯を戴くとき、手を合わせ“戴きます!”と云う。

 太陽の恵みに感謝し 農家のおじさんに感謝し 運転手さんに感謝し 八百屋さんに感謝し お金を稼いでくれたお父さんに感謝し 調理してくれたお母さんに感謝し 健康な体の自分に感謝し 命を捧げてくれたお魚さんに感謝し・・・・・

 手を合わせることは、真心を表す姿ですし、戴きます!は感謝を表す言葉です。

 この感謝を表す姿と言葉こそが、神道の根本精神で、他の宗教で云うところの「教義」なのでしょう!

☆著者は二宮尊徳翁に私淑していたので、数次参拝した

 

 

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霧島神宮

 霧島神宮は天照大神より「豊あし原の千五百秋の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たる可き地なり宜しく爾皇孫就きて治せ行くませ 宝祚の隆えまさむこと当に天壤と窮無かるべし」との御神勅を戴いて、 三種の神器と稲穂を捧持して高千穂峰に天降りまして天壤無窮の皇基を建てられた日本の肇国の祖神 瓊瓊杵尊を主祭神として奉斎している。

一の鳥居

 

三の鳥居

 

 日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊が「筑紫日向の高千穂の久士流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂の峯に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に天聳立つ高千穂峰である。

 頂上には”天の逆鉾”があり、山容の崇高秀麗なことは筆紙に尽くせない。 高千穂峰一円は古えの日向の国の内であり古事記・日本書紀に記載されている日向国はその後「和銅年間」四郡を裂いて大隅国が置かれた。

社殿全景

 社殿の創建は日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊が「筑紫日向の高千穂の久士流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂の峯に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に天聳立つ高千穂峰である。

 頂上には”天の逆鉾”があり、山容の崇高秀麗なことは筆紙に尽せない。 高千穂峰一円は古えの日向の国の内であり古事記・日本書紀に記載されている日向国はその後「和銅年間」四郡を裂いて大隅国が置かれた。

正殿

所在地 霧島神宮〒899-4201

    鹿児島県霧島市霧島田口2608-5

御主神:天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命

相殿神:木花咲耶姫尊(お后)・彦火火出見尊(御子神)

    ・豊玉姫尊(御子神のお后)・鵜J草葺不合尊(御孫神)

・玉依姫尊(御孫神のお后)・~倭磐余彦尊(御曽孫神)

【屁理屈】

 自分の意志を通すためには、他人のことなどお構いなし、理屈を並べて感謝の心を持たぬ“ひと”は何処にでもいる。

 貶める!盗む!穢す!殺す!見た目は違うが、心の中は同じ!

高千穂峰では天孫降臨を想像した。当然天岩戸神社も参拝した。

 

 

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雷電神社

 雷電神社は、群馬県邑楽郡板倉町板倉にある神社で、主に関東地方に点在する「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格であるが、他の雷電神社と区別する意味で板倉雷電神社とも呼ばれる。

 

 現在の主祭神は、火雷大神、大雷大神、別雷大神の三柱である。茨城県水戸市の別雷皇太神、同県つくば市の金村別雷神社と並ぶ関東三雷神の1社とされる。

所在地 群馬県邑楽郡板倉町板倉2334

    奥社と末社は境内裏手に在る

主祭神 火雷大神

    大雷大神

    別雷大神

創建  推古天皇6年(598年)

別名  板倉雷電神社

 創建は社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠を設けてその神を祀ったものとされている(ただし、これを後世の付会であるとする説もある)

 

 古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって度々火災や水害に見舞われたが、延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主であった徳川綱吉が本社社殿を再建し(社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うことを許された)、後に彼が長じて徳川幕府の第5代将軍となるに及んで、次第に繁栄するようになった。

 

  現在の本社社殿は天保6年(1835年)、奥社社殿は慶応4年(1868年)の造営である。本社社殿には左甚五郎から10代目の石原常八の作とされる彫刻が廻らされている。

【屁理屈】

 雷様は恐い恐いと云うけれど、雨が欲しいところでは、有り難い現象だ!

 何事も、程よく付き合うことが肝要だ

☆雷様は農業には有り難い神社で、友人の家にも、神棚に雷様の御札が祀られている

 

 

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寶登山神社

 宝登山神社は、埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山山麓にある神社で、秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の一社である。

 宝登山山頂には奥宮が鎮座する。

所在地 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828

主祭神 神日本磐余彦尊 (神武天皇)

    大山祗神

    火産霊神

創建  景行天皇41年(111年)

【屁理屈】

 著者は毎朝、小学生の交通補助をしている。通りがかりの大人にも朝の挨拶をする。

 口を開くと損をする様な顔をしている“ひと”も居る。

 

 

【屁理屈】

 「人目から離れると、ろくな事をしない」と云われている。

 携帯を使っているとき、心は完全に周囲から離れている

 心は、人気のない処にいるのと同じだ

 

☆秩父鉄道長瀞駅近くで、秩父巡礼の途次立ち寄った

 

 

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彌彦神社

 弥彦神社は、新潟県西蒲原郡弥彦村にある神社である。正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」と呼ばれる。

 越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。

 『万葉集』にも歌われる古社で、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。

 宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀重要文化財」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。

 

弥彦神社事件

 1956年(昭和31年)1月1日午前0時過ぎ、弥彦神社で大晦日から元日にかけて行われる二年参りにおいて、前年から始められた紅白の「福もち」蒔きに約3万人が殺到した。拝殿に向かう者と、参拝が終わり戻る者とが中央の15段ある石段付近でぶつかり合い、滞留した。

 1月1日午前0時10分頃、この重さにより玉垣が崩壊し、支えを無くした参拝客が後ろから押し出されるように次々と石段下へ落下、折り重なるように倒れ込んだ。

 当時の弥彦神社は照明設備が整っておらず周囲が暗かった事と、多くの警察官がバス駐車場の交通整理に割り振られて境内にいなかった事も事態に拍車をかけた。

 この状態が午前1時近くまで30〜40分間続き、死者124人・重軽傷者77人を出した。

 午前1時頃より警察、青年団、消防団などが救助作業を開始し、負傷者を病院へ搬送すると共に遺体を拝殿、拝観所、弥彦小学校の体育館などに運んで安置した。

 現場には犠牲者が着用していた多量の靴や草履、帽子などが残されていたという。

神体とする弥彦山は拝殿背後の山

祭神 天香山命

   「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。

   なお祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。

所在地 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898

 

摂社

 

    火の玉石

玉の橋

 地元では「重い軽いの石」とも呼ばれ、この石を軽く感じて持ち上げられれば願い事は成就し、重くて持ち上げられなければかなわないと言われ、今も熱心にお祈りする人が後を

絶たない。   

 境内の御手洗川にかかる半円形の橋で、別名「御神橋」と呼ばれ、“神様の渡る神聖な橋”として建造され、人は決して渡ることはできない。

☆若い頃に詩吟会の旅行で寄り、その後も近くへ行く度に立ち寄った

 

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