赤間神宮

 赤間神宮は、山口県下関市にある神社で、壇ノ浦の戦いに於いて幼くして亡くなった安徳天皇を祀っている。

 江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、平家一門を祀る塚があることでも有名で、『耳なし芳一』の舞台とも成っている。

 文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりである。

 第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工し、昭和60年(1985年)、源平八百年を期に全日本平家会が設立され、石川県輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に御分霊が親授された。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社」の称号が授与された。

所在地 山口県下関市阿弥陀寺町4-1

主祭神 安徳天皇

創建  建久2年(1191年)

境内  安徳天皇阿弥陀寺陵

    日本西門鎮守八幡宮

    大連神社

    紅石稲荷神社

    平家一門の墓(七盛塚)

    左近衛少将有盛 左近衛中将清経 右近衛中将資盛

     副将能登守教経 参議修理大夫経盛

     大将中納言知盛 参議中納言教盛

     伊賀平内左衛門家長 上総五郎兵衛忠光

     飛騨三郎左衛門景経 飛騨四郎兵衛景俊

     越中次郎兵衛盛継 丹後守侍従忠房

     従二位尼時子

芳一堂 - 『耳なし芳一』を祀り、木像を安置する。

 

     

安徳天皇陵

 

 

【屁理屈】

 檜の苗木は育苗業者に依って、雨も風も太陽も、苗木にとって心地よい状態に保たれるように、大切に育てられる。

 苗木の形状は、クリスマスツリーの様な形状ではない!

 団扇の様に扁平で、青々とした表面と、薄白の裏面がある。

 植林をするときは、裏面を太陽の方向に向けて植える!(裏返しに)

 苗木は、太陽の方向へ向こうと、努力して幹を捻らせる!

 この様に植えた苗木は真っ直ぐに育つ

 表面を太陽に向けて植えた苗木は、却って幹が曲がってしまう!

☆安徳帝に「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自害した。

☆平家滅亡の時、安徳天皇を祀った神社で、平家物語を読んだ後には是非とも行って、懐旧するに相応しい場所

 

 

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息栖神社

 息栖神社は、外浪逆湖を挟んで香取神宮の対岸にある神社である。

 この神社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称された。ただし地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。

 

 鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘される。また当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという。

 江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、慶長9年(1604年)に鹿島神宮領から十四石が給された。

 またこの時代には、「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があって、参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。

 明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣され、明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した。

 一の鳥居の両側には「忍潮井」と呼ばれる2つの井戸があり、「日本三霊泉」の1つという。社伝では神功皇后3年に造られたとし、日川からの移転に際して後から自力でついてきたという。

 井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の2つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は昭和48年(1973年)5月に河川改修のため移転した。

 

 一の鳥居二の鳥居を潜ると神門に到る。

所在地 茨城県神栖市息栖2882

主祭神 久那戸神(岐神)

    社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東    国への先導にあたった神という。

格等  国史見在社 旧県社

創建  第15代応神天皇年間

相殿神 天鳥船命

    『古事記』では、建御雷神の副神として葦原中国平定に赴い    たと記される。

    住吉三神

    上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。

    なお江戸時代の文書では、主神を気吹戸主神とする説もある。

潮来へ行った序でに数度は立ち寄った

 

 

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足利織姫神社

 1200年以上の伝統と歴史をもつ足利織物の守り神であり、織姫山の中腹に建つ朱塗りの美しい神殿は、足利名勝のひとつともなっていて、古墳もある。

 1705年(宝永2年)に土地住民により創建された後に、八雲神社の境内社としてまつられた。

 そして織姫神社は1879年(明治12年)8月24日に八雲神社から織姫山に遷座されたが、1880年(明治13年)9月10日に火災により焼失した。

 しばらく仮宮のままであったが、1934年(昭和9年)に再建事業を開始し、1937年(昭和12年)に平等院鳳凰堂をモデルとした現在の社殿が完成した。

 神社造営碑は幅2.7メートル、高さ7.5メートルで題額は金子堅太郎、撰文は徳富蘇峰、書は書家の岩澤亮一の手による。

所在地 栃木県足利市西宮町3889番地

主祭神 天御鉾命

    八千々姫命

創建  1937年(昭和12年)5月

 

☆東武鉄道で赤城へ行く途中、車中から見える大きな神社

【屁理屈】

 下駄を預ける!と云う言葉がある。

 自分では判断せずに、全部○○に任せることを云う。

 随分と気楽だが、無責任な話だ!

 その判断によって齎された結果に対しては、○○さんの判断に従ったのだからと云って、当の本人は一切責任は持とうとしない!

 当然のこととして、責任を委された人は、代わって責任を負うのは、物事の道理である。

 ところかである。○○が神様だったらどうなるのだ!

 この事が即ち、○○を信じます!という現実だろう。

 精神的責任を負わなくて済むのは、とても幸せだね!

 でも、其れで責任逃れをされる方は、たまったものではない

 

 

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大久保神社

 大久保神社という大久保利通を祀った神社が郡山にある。

 郡山といえば幕末は天領だったはずで、その徳川幕府を潰した大久保利通は政敵とも呼べる存在である。

 何故にその政敵を祀っているのだろうか?

 その理由こそが、神道の基本理念といえる。

 内務卿であった大久保は、郡山の発展のため内務省直轄事業として安積疏水を完成させ、現在の福島県郡山市発展の基礎は、この安積疏水の完成に寄るところが大きい。

 実際の計画はもっと大規模な物だったようだが、大久保が暗殺されたことにより事業縮小に追い込まれたと云える。

 政敵と云っても其れは、立場と手法の違いであって、国家と国民を慈しむ心は同じである。即ち神道の理念は同じである。

 郡山市街地周辺の安積原野(郡山盆地)は、年間雨量が 1,200 mm にも満たない地域で、疏水が完成する以前は、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であった。

 安積原野は荒涼として、五百川、藤田川、逢瀬川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、池群も流入河川がなく、干ばつの影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地としてしか用途がなかった。

 一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。ここに士族授産の国家プロジェクトとして、オランダ人技師ファン・ドールンの指導のもと、1879年(明治12年)より5年の短期間で安積疏水は開通した。 灌漑区域面積は約 9,000 ha と広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。 なお、郡山市は、平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は、米穀生産量日本一の市であった。

 1898年(明治31年)には疏水に水力発電所が設置され、その電力を利用した製糸業が発達し、また、1908年(明治41年)からは飲用水としても利用して、当地の人口増加を支えた。

 以下現代に到る!

所在地 福島県郡山市安積町牛庭4−112

祭神  大久保利通

 神社とは感謝される事柄を祀る施設で、神社の原点は茲にある。

 

【屁理屈】

 一神教信者や原理主義者は、自己の主張を曲げない傾向にあるが、神道思想に浴する日本人は、自己は自己、他者は他者として、相互に敬意を払い、相容れないと云うことはない。

 一神教信者や原理主義者は、年を措かずして喧嘩をしていますね!

☆安積疏水の話を耳にして、友人と共に昔時に心を馳せた!

 

 

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大杉神社 茨城の東照宮

 大杉神社御祭礼の阿波の山車大杉神社は、茨城県稲敷市阿波にある神社で、通称はあんばさまと云われていて、古名は大杉明神で、関東、東北地方に分布する大杉神社の総本社である。

 境内掲示板によれば、一帯は常陸国風土記の信太郡の条にある「乗濱」にあたり、大杉神社略縁起によれば、同じく阿波の高台は「安婆島」にあたる(阿波崎説もあり)

 

 この先端に巨杉があり、香取海の航路標識であるとともに、村の守護神として信仰されていた。猶あんば囃子は記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財である。

 

 一の鳥居は国道125号線に面している

所在地 茨城県稲敷市阿波958番地

主祭神 倭大物主櫛甕玉命

配祀神 大己貴命、少彦名命

創建  767年(神護景雲元年)

別名  あんばさま

例祭  10月26日、27日

 「大杉」の社名は、境内にある大杉を神体としていることによる。太郎杉、二郎杉、三郎杉からなる三本杉だったが、太郎杉は寛政10年(1878年)に焼失した。

 眷属神として「鼻高天狗」と「烏天狗」への信仰もあり、文治年間(1185-1189年)、源義経の家来常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳により様々な奇跡を起こした。

 

 ここから海存を通じて願をかけると、大杉大明神が叶えてくれるという信仰が生じ、海存の容貌は天狗に似ていたため、その像を通じて天狗信仰が生じ、転じて鼻高天狗と烏天狗が眷属とみなされるようになったという。

 鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と役割が決まっていて、願い事が叶えられるという御神徳から、神社は「日本唯一の夢むすび大明神」と称している。

  大杉神社の社殿は豪華で、茨城の東照宮言われている

  数年前に修繕を為したので、写真よりも美しい

 境内社勝馬神社は、古名を「馬櫪社」といい、独自の古い由緒を持つという。馬櫪は馬屋の根太の意で、転じて飼い葉桶、または馬屋そのものを指すという。

 

 

 

 

 平安時代、美浦村信太に常陸国諸国牧(兵部省管轄の牧場)の信太馬牧(延喜式に記載あり)があり、そこで馬体守護のため貞観4年(862年)に創祀された。

 現在は往古の信太馬牧の地にある日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンターの関係者が、本社と並んで一年の祈願に訪れ、社前には多数の蹄鉄が奉納されている。

 「勝ち馬守り」という珍しい御守もある。ちなみに現在、大杉神社祭礼に選ばれる神馬は、農家に馬がいなくなったため美浦トレーニングセンターから借りている。

【屁理屈】

2.怨憎会苦(怨み憎む者とこの世で会わなければならぬ苦しみ)

 憎むという感情は、“ひと”として最も愚かしい感情である。

 感情などと云うものは、各々様、と云うことで、相手がどう思っているか解らない。

 “一心同体”と云うけれど、各々の尺度が有るのだから、此方から見て完全一致、相手から見ても完全一致でも、双方合わせて、完全一致に成る事はあり得ない。

 憎むのは勝手だが、独り芝居であることを知っておく必要がある。

 自分も不幸にし、相手も不幸にする!

【屁理屈】

 近年の政策で町村合併が彼方此方で行われた。

 利便性と引き替えに失われる物事も多い!

 地域の伝統文化は、いとも簡単に消し去られる運命にある!

 其れだけ心が寂れると云うことも自覚せずに!

 知っていたからこそ継続できる!

 忘れてしまった物事は継続できない

 ましてや、復活は出来ない!

 人間がお猿さんより優位で生きてゆけるのは、経験の伝達と蓄積が出来たからである
 伝統も経験の蓄積と伝達と其の根本は同じである

☆著者が仕事をしていた地元の神社

 

 

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大洗磯前神社

 茨城県の東部、太平洋に面した岬の丘上に鎮座し、那珂川対岸のひたちなか市にある酒列磯前神社と深い関係にあると言われ、2社で1つの信仰を形成している。

 

 中世には戦乱で荒廃するが、近世になって水戸藩主の徳川光圀・綱條により再興した。本殿・拝殿・随神門が茨城県・大洗町の文化財に指定されているほか、海岸に立つ鳥居で有名である。

    神磯の鳥居

所在地 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890

主祭神 大己貴命

    大国主命の別名。国造りを行うため、境内前方の岬の岩    礁に降臨したとされる。

配祀神 少彦名命

    酒列磯前神社祭神で、その分霊。大己貴命とともに国造    りを行なったとされる。

創建  斉衡3年(856年)

 国造りにおいて『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などの神話では大己貴命と少彦名命の2神が併せて登場することから、当社に限らずこの2神の組み合わせで祀る神社は多い。また、当社では大己貴命を七福神の大黒天とも見なしている。

 

茅輪くぐり神事(6月○日)

 

 

【屁理屈】

 冬に成ると海水浴場は閑散とするので、鮟鱇鍋の名所に成った!

☆鮟鱇鍋を食いに行くと、その都度参拝した神社

 

 

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鍛冶稲荷神社 鍛冶屋には関わり無さそうな神社

 鍛冶稲荷神社縁起

 当正一位鍛冶稲荷大明神は、伏見稲荷大明神を主神として江戸時代の初期、実蔵坊(現在、杉並区高円寺 長善寺)の地内、北豊島郡新掘村大字谷中本字居村上に創建され、のち明暦2年(1656)当地に遷座されたと伝えられている。

 

 当時から火伏せの神として村人の厚い信仰をあつめ、近年は家業の繁栄・交通安全・学業成就・家内の安全を祈る参拝者が多くなっている。

 ここ谷中本(現在の西日暮里2丁目)は、生姜が多く作られていて、以来、谷中は生姜の代名詞として有名である。

 

 社殿は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したのち現在の地に移り昭和49年(1974)5月に改築されました。毎年5月に行われる例祭は、遠く農業を営んでいた先祖から引継いでいる行事です。

 平成3年(1991)11月吉日  鍛冶稲荷講

所在地 荒川区西日暮里2-49

☆都内で仕事をしていたとき、偶々目に留まった小さな社です。

 

 

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筑波山神社

 南方より。左峰が男体山頂、右峰が女体山頂で、山腹には大鳥居が立ち、筑波山神社は、茨城県つくば市筑波にある神社である。

 

 

 

 

 関東平野北東部、茨城県南西に立つ筑波山を神体山として祀る神社で、筑波山は西峰・東峰からなる双耳峰である。

 

女体山頂の奥院

 関東平野北東部、茨城県南西に立つ筑波山を神体山として祀る神社で、筑波山は西峰・東峰からなる双耳峰である。

 当社の本殿はその両山頂に1棟ずつ鎮座していて、境内は広大で、筑波山南面の海抜270メートルの線(拝殿)以上を社地とし、その面積はおよそ354ヘクタールにも及ぶ。

 南面中腹にある拝殿周辺には、門前町とともに筑波集落が形成され、一般に「筑波山神社」という場合は、この拝殿周辺を指すことが多い。

 

 

【屁理屈】

 門前町に四六のガマがが、ケースに入っている。

 

所在地 茨城県つくば市筑波1番地

主祭神 筑波男ノ神(伊弉諾尊)

    筑波女ノ神(伊弉冊尊)

    筑波山(神体山)

 男体山本殿は昭和30年(1955年)、女体山本殿は昭和54年(1979年)の改築で、いずれも一間社流造である。男体山頂には筑波大学の観測所である筑波山気象観測ステーション(施設と土地は筑波山神社が所有)が、女体山頂には守札授与所、天の浮橋(平成21年(2009年)4月再建)がある。

☆松戸からは近いので時々訪れる神社

 

 

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秩父神社

 秩父神社は、埼玉県秩父市にある神社で、秩父地方の総鎮守である。三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社で、12月の例祭「秩父夜祭」で知られる。

所在地 埼玉県秩父市番場町1-1

主祭神 八意思兼命

    知知夫彦命

    天之御中主神

    秩父宮雍仁親王

 

 秩父市街地の中心部に鎮座している、崇神天皇の時代、初代の知知夫国造である知知夫彦命が、祖神の八意思兼命を祀ったことに始まる。

 武州六大明神に四宮として数えられ、武蔵総社六所宮の大國魂神社(東京都府中市)にも祀られていて、大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)では、当社の神輿も巡行される。

 中世には妙見信仰と習合し、その後「秩父大宮妙見宮」として栄えたが、江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。

 毎年12月に行われる例祭「秩父夜祭」は、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭及び日本三大美祭に数えられ、多くの観光客が訪れる。

【屁理屈】

 秩父夜祭りで有名な神社です。

 その日は混み合うので、秩父行きは休みました

秩父鉄道駅前にある神社。秩父34観音巡礼の途次数次参拝した

 

 

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鶴岡八幡宮

 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれ、武家源氏、鎌倉武士の守護神として、鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがあり、境内は国の史跡に指定されている。

 治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷した。

 

以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備し、建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請し、承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。

 源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集め、鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退した。

 戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たした。次いで江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。

 

江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。

 明治の近代社格制度では国幣中社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社とされる)

所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号

主祭神 比売神

    応神天皇 - 第15代天皇

    神功皇后 - 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母

創建  康平6年(1063年)

大銀杏 建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別   当を務めていた公暁が、この銀杏の木に隠れて待ち伏せ、   源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名が   ある。

    然し、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太   さにはまだ成長していなかったという説もあるため、真偽は不   明である。

    伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先   代の樹であり現在の樹は2代目であるとする説もある。昭和   30年(1955年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴   岡八幡宮のシンボルとして親しまれていた。樹齢800年とも   1000年余ともいわれていた。

    平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のため   に大銀杏は根元から倒れた。倒れた大銀杏は3つに切断され、7メートル離れた場所に移植された。

 拝殿へ通じる広場中央に建つ舞殿

時折結婚式が行われている。

 

   

 

【屁理屈】

 “人”は同情されると、そのたび毎に図々しくなる“ひと”が居る。

坂東33観音巡礼の途次、屡々立ち寄った

 

 

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